第三十六話 後見
応永三十三年(一四二六)九月 伊予国 忽那諸島
鶴丸が、正式に、二神本家の当主として、家中の全員から認められたのは、初秋のことだった。稲穂が色づき、島の田畑にも、実りの気配が満ちはじめていた。
評定の日から、二月ほどが過ぎていた。教通方を推す残りの家臣たちも、次第に、鶴丸を推す流れに従わざるを得なくなっていった。忽那重氏、又五郎は、最後まで、抗い続けたと聞いていたが、多勢に無勢では、いかんともしがたかったようだった。
だが、その従い方は、決して、大人しいものではなかった。評定から半月ほどのち、重氏の手の者と見られる一団が、夜陰に紛れ、鶴丸の身柄を奪おうと、義重の館に、押し入る一件があった。その夜、わたしは、鶴丸の身の回りのことで、義重の館に、泊まり込んでいた。
夜半、庭先で、乾いた物音がした。次いで、押し殺した怒声と、金属のぶつかり合う音。わたしは、灯りを消したまま、板戸の隙間から、外の様子を窺った。
黒装束の一団が、四、五人、庭先から、鶴丸の寝所へ向かおうとしていた。だが、その行く手を、弥九郎が密かに送り込んでいた警固の者たちが、既に、塞いでいた。
「動くな」
低い声が響いたかと思うと、すぐに、刃の触れ合う鋭い音が続いた。庭の暗がりの中、幾つもの影が、もつれ合うように動いた。呻き声が、一つ、また一つと上がる。松明もない闇の中での斬り合いは、影絵のように、輪郭だけが、かろうじて見て取れた。
賊の一人が、警固の男の脇をすり抜け、寝所のほうへ、駆け出そうとした。だが、待ち構えていた別の一人が、その足を、鋭く払った。倒れ込んだ賊の首元に、すぐさま、刃が突きつけられる。
「退け、退け」
賊の頭らしき声が、闇の中で上がった。それを合図に、黒装束の影は、庭木の陰から陰へ、次々と、退いていった。追おうとする警固の者を、古参の一人が、短く制する声も聞こえた。
「深追いするな。館の守りを、薄うするな」
物音が、やがて、遠ざかっていった。板戸の隙間から見える庭には、争いの跡だけが、ぼんやりと残っていた。
夜が明けてから、わたしは、あらためて、庭を検めた。血の跡が、幾つか、土の上に、黒く染みついていた。
「怪我人は」
わたしが、そう訊ねると、伊佐次は、答えた。
「押し入った側に、幾人か。こちらの守りの者たちは、かすり傷程度で、皆、無事にござります」
「重氏殿御自身は」
「その場には、おられなんだ様子にて。手の者だけを、差し向けたのでしょう」
その報せに、わたしは、深く、息を吐いた。教通方の側が、既に、当主とその嫡男の暗殺という一線を越えている以上、評定の結果一つで、大人しく退くはずがないと、どこかで、覚悟していたはずだった。それでも、あの闇の中の物音を、この身で、直に聞いたことで、鶴丸の身に、刃が及びかけたという事実の重さが、これまでとは、違う手触りで、腹に落ちてきた。
「この一件、表沙汰には」
「いたしませぬ。押し入った者たちは、始末をつけ、口を封じてござります。重氏殿を、正面から、罪に問うだけの証も、まだ、揃っており申さぬ」
その答えに、わたしは、深く頷いた。この一件を公にすれば、又五郎という男を、完全に、後戻りのできない敵として、追い詰めることになる。まだ、その時ではなかった。
この一件を境に、教通方に近しかった家臣たちのあいだにも、動揺が広がった。当主の座を力ずくで奪おうとする側に付くことへの、確かな怖れが、家中に、静かに、広がっていったのである。
その二月のあいだ、伊佐次たちの働きで、家中の隅々にまで、鶴丸を推す声が、じわじわと広がっていった。古参の家老衆の後押しと、あの夜討ちの一件とが、決定的な後押しになったという。数だけでなく、人の心の機微を、丁寧に積み重ねてきたことが、ようやく、確かな実を結んだ形だった。
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「これで、決着したのだな」
弥九郎が、盃を傾けながら、そう言った。館の板間で、義重からの正式な報せを、あらためて確かめていた。
わたしは、報せの紙を、丁寧に畳みながら、答えた。
「はい。義重様が、後見人として、鶴丸様をお支えになる。実質の政は、義重様の家、すなわち、こちらの側が、担うことになりましょう」
「長い戦いだったな」
「はい。ですが、まだ、道半ばにござります」
その言葉に、弥九郎は、盃を置き、少し驚いた顔をした。
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「決着したのではないのか」
「本家の家督は、鶴丸様に決しました。ですが、これで、すべてが終わったわけではござりませぬ。教通方は、まだ、力を保っております。又五郎様、重氏殿も、いまだ、こちらへの敵意を、捨ててはおられますまい」
「家老は、誰が務める」
弥九郎が、そう訊ねた。
「二神の御家臣衆の中から、一人、選び出しとうござります」
その答えに、弥九郎は、少し意外そうな顔をした。
「こちらの者を、据えぬのか。実権を握るなら、こちらの息の掛かった者を、家老に据えるほうが、都合がよかろうに」
「そこを、あえて、いたしませぬ。こちらの者を家老に据えれば、乗っ取りだと、家中に見透かされましょう。専横する気はない、この家を、あくまで支えるだけだという構えを、まず、はっきりと示さねばなりませぬ」
「では、こちらは、どこに立つ」
わたしは、少し間を置いてから、続けた。
「殿には、与力として、鶴丸様を、後ろから支えていただきとうござります。綾様の御夫君、すなわち、鶴丸様の義兄という立場にて。表向きの家老職は持たずとも、その立場だけで、家中の誰もが、殿の意向を、軽んじられますまい」
「名目は立てず、実だけを取る、というわけか」
「はい。名目は、二神の御家臣衆に。実は、こちらに。その分け方が、いちばん、角の立たぬ形にござります」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、考え込んでいたが、やがて、深く頷いた。
「お前らしい、細やかな算段だ」
「まだ、幼い当主を頂く家にござります。ここで、性急に実を求めれば、いずれ、家中の反発を招きましょう。急がず、しかし、確かに」
わたしは、そう続けた。
「これからは、鶴丸様を、しかと支え、育てていくことが、新たな仕事になりましょう。当主として立ったばかりの幼子を、家中の隅々にまで、しっかりと認めさせるには、なお、幾年もの時が要りましょう」
弥九郎は、それを聞いて、深く頷いた。
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「鶴丸は、いまの気持ちを、どう受け止めておる」
弥九郎が、そう訊ねた。
わたしは、少し考えてから、答えた。
「まだ、正しくは、分かっておられぬかもしれませぬ。当主というものの重みを、頭で理解するには、まだ、幼うござります。ですが、幸松が、いつも傍におります。あの二人の絆が、鶴丸様の、確かな支えになっておりましょう」
「幸松には、感謝せねばならぬな」
弥九郎は、そう言って、しばらく、窓の外を見つめた。
「はい。数と策だけでは、決して埋められない部分を、あの子が、いつも、静かに埋めてくれております」
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その日の夕方、木の実の詰まった籠を、手土産に携え、義重の館を訪ね、鶴丸に、あらためて、祝いの言葉を伝えに行った。
鶴丸は、これまでよりも、少し、大人びた顔つきになっていた。当主としての正装に身を包み、緊張した面持ちで、こちらを迎えた。
「千代殿。此度は、まことに」
鶴丸が、そう挨拶しようとすると、わたしは、静かに、それを遮った。
「鶴丸様。かしこまらずとも、よろしゅうござります。これまでどおり、お気楽に、お過ごしくださいませ」
その言葉に、鶴丸は、少し表情を緩めた。正装の重さに、まだ慣れていないのだろう、袖を、ぎこちなく引っ張る仕草が、その年相応の子供らしさを、はっきりと物語っていた。
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「千代殿は、これからも、傍におってくださいますか」
その問いに、わたしは、少し驚きながらも、深く頷いた。この、まだ幼さの残る少年が、自分を頼ってくれていることに、思いのほか、胸が温かくなった。
わたしは、少し微笑んで、そう答えた。
「無論にござります。義重様とともに、鶴丸様を、しかとお支えいたしまする」
「幸松も」
「幸松も、これまでどおり、傍におりましょう」
その答えに、鶴丸は、ようやく、心からの笑みを見せた。まだ、あどけなさの残る、素直な笑顔だった。
その笑顔を見ながら、わたしは、あらためて、この子が、まだ、たった八つの少年にすぎないのだという事実を、噛みしめた。当主という、重い肩書きを背負わされてもなお、その内側は、まだ、幼い子供のままだった。その内側を、これから、どう守り、どう育てていくか。数と策だけでは、決して答えの出ない問いが、また一つ、頭の中に、静かに積み重なった。
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館を辞す前、義重と、あらためて、これからのことを話し合った。
「鶴丸の後見として、これから、どう進める」
義重が、そう訊ねた。
わたしは、頭の中で、これからの道筋を、あらためて整理しながら、答えた。
「まずは、教通方との、これ以上の争いを避けることが、肝要にござります。鶴丸様の地位を、確かなものにするには、時が要りましょう」
義重が、そう続けて訊ねた。
「その間、こちらは、どう動く」
「表向きは、静かに。だが、裏では、鶴丸様の力となる者たちを、少しずつ、丁寧に、増やしてまいりとうござります」
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義重は、少し声を落として、そう続けた。
「重氏、又五郎のことは、どうする」
わたしは、しばらく、言葉を選んだ。
「いまは、まだ、手を出すべきときではござりませぬ。ですが、いずれ、又五郎様と、真正面から向き合わねばならぬ日が、来るやもしれませぬ」
義重は、深く、長い息を吐いた。
「あれは、わしの息子だ。どれほど道を違えようとも、その事実だけは、変わらぬ」
その言葉に、わたしは、何も言い返せなかった。血の繋がりというものの重さを、義重の、その一言から、あらためて、深く感じ取った。
「義重様は、いつか、又五郎様と、和解できる日が来ると、お思いにござりますか」
わたしは、そう訊ねてみた。義重は、しばらく、答えに詰まった。
「分からぬ。だが、望みは、捨てておらぬ」
その答えに、わたしは、深く頷いた。数と策だけでは、決して測れない、親子の情の深さを、あらためて、思い知らされた気がした。
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館を辞し、船に乗り込みながら、わたしは、頭の中で、これからの道のりを、あらためて数え直した。
六島を治め、因島を固め、河野内訌に本格介入し、いま、二神本家の後見という、大きな立場を得た。だが、忽那諸島全体、そして、二神本家そのものの完全な掌握には、まだ、遠い道のりが残っている。教通方との対立、又五郎との決着、そして、まだ見ぬ、多くの課題。
道は、まだ、半ばだった。それでも、ここまで、確かに、歩みを進めてきた。その手応えを、わたしは、頭の中で、静かに噛みしめていた。
思えば、あの日、柱島と津和地島から使いが来てから、随分と長い道のりを歩んできた。六島を、力ずくではなく、理と利で傘下に収めた。因島を固め、村上一党という、確かな盟友を得た。別子の山では、まだ途中ではあるが、明の技を、この島の手で再現しつつある。楠木党残党、北条残党という、思いがけない縁も結んだ。そして、いま、河野内訌という、この国の中央にも繋がる争いの中に、こちらの意のままに動く駒を、一つ、確かに打ち込んだ。
数え上げれば、きりがなかった。だが、その一つ一つが、決して、たやすく得られたものではなかった。何度も失敗し、何度も組み直し、そうして、ようやく、ここまで辿り着いた。
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館へ戻ると、伊佐次が、常備兵の募りの進み具合を、報告に来ていた。
「五十には、まだ届きませぬが、三十を超える者が、既に、名乗りを上げており申す。次男、三男の口が、思うたより多うござった」
「よい兆しだ」
「ただ、一つ、妙な話がござります」
伊佐次は、少し、声を落として、続けた。
「かつて、鵜の子の入江を占めておった、彦次という男を、覚えておられますか」
その名に、わたしは、しばらく、記憶を辿った。応永二十七年、まだ、この一党が、鵜の子の入江に流れ着いたばかりのころ、縄張りを争い、退けられた頭だった。もう、随分と昔のことのように思えた。
「覚えておる。退けたはずだが」
「その彦次が、いま、幾人かの手下を連れて、募りに応じたいと、名乗り出ており申す」
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「信用できるのか」
弥九郎が、そう訊ねた。声には、隠しきれない警戒があった。
「分かりませぬ。ですが、あれから七年、鵜の子を追われて、行くあてもなく流れ続けてきたのだと、本人は申しております」
伊佐次は、そう続けた。
わたしは、頭の中で、素早く、算段を組んだ。かつての敵を、内に迎え入れる。危うさは、確かにあった。だが、七年ものあいだ、根無し草として生き延びてきた男が、いま、こちらの募りに応じてきたという事実そのものにも、意味があった。
「会うてみとうござります」
わたしは、そう言った。
「危ういのではないか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「危うさを承知の上で、確かめとうござります。恨みで動く男か、それとも、ただ、生きる場を求めておるだけの男か。会わねば、それすら、数えられませぬ」
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数日後、彦次が、館を訪れた。
かつての面影は、随分と、薄れていた。潮に灼けた顔には、深い皺が刻まれ、身なりも、ひどく質素だった。連れてきた手下も、五人ほど。かつての勢いは、もう、どこにも見当たらなかった。
「久しいな」
弥九郎が、そう声を掛けた。
彦次は、深く、頭を下げた。
「あのとき、退けられたのは、道理にござった。恨んではおり申さぬ。ただ、あれから、行く先々で、根を張れずにおり申した」
「なぜ、いま、ここへ」
わたしが、そう訊ねると、彦次は、しばらく、言葉を選んだ。
「怒和島の一党が、次男・三男を、常備の兵として召し抱えるという噂を、聞き申した。それがしも、手下も、もう、若うはござらぬ。だが、腕には、まだ、いくらかの覚えがあり申す」
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「かつての恨みは」
弥九郎が、そう重ねて訊ねた。
彦次は、はっきりと、首を振った。
「ござらぬ。あのとき、こちらが弱かった。それだけのことにて。恨むより、いま、腕を役立てる場を得たいと、そう思うており申す」
その答えに、わたしは、しばらく、彦次の顔を見つめていた。数では測れない何かを、その目の中に、探ろうとした。だが、はっきりとした答えは、すぐには見えなかった。
「しばらくは、様子を見せていただきまする。それでよろしゅうござりますか」
わたしが、そう言うと、彦次は、深く頷いた。
「異存は、ござらぬ」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、考え込んでいたが、やがて、頷いた。
「よかろう。伊佐次の下で、しばらく働かせよ」
こうして、かつての敵は、常備兵の一人として、静かに、この一党の中に組み込まれることになった。数だけを見れば、募りに応じた一人にすぎない。だが、その裏には、七年という歳月と、行き場を失った者の、確かな重みがあった。
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行然を通じて、楠木党残党の縁から、一人の浪人が、この島を訪れた。
名を、郷田十兵衛といった。歳の頃、五十がらみ。かつて、いずこかの家中で、足軽大将を務めていたと聞く。子細は、多くを語らなかった。家が滅び、主を失い、以来、諸国を渡り歩いてきたのだという。
「十兵衛殿には、浪人衆の指南役をお願いいたしとうござります」
わたしが、そう申し出ると、十兵衛は、しばらく、こちらの顔を、値踏みするように見つめていた。
「指南だけで、よろしいのか」
「と、申されますと」
「儂は、教えるだけの身では、性に合わぬ。戦となれば、儂自身が、陣頭に立ちとうござる」
その一言に、わたしは、頭の中で、素早く、算段を組み直した。指南役だけでなく、実戦の折の指揮官として、正式に召し抱える。それは、こちらにとっても、決して悪い話ではなかった。
「よろしゅうござります。指南役と、陸兵の指揮官と、両方をお任せいたしとうござります。禄は、相応にお払いいたします」
十兵衛は、それを聞いて、初めて、微かに笑った。
「久方ぶりに、腰を据える場所を、得られそうにござるな」
「これまで、諸国を渡り歩かれたとのこと。西国の方の様子も、御存知にござりますか」
わたしが、そう訊ねると、十兵衛は、少し遠い目をした。
「北九州のあたりは、大内と少弐が、幾年も、睨み合うたままにござる。あの手の争いは、片方が滅びるまで終わらぬか、さもなくば、当主が代わるまで、ずるずると続くか。そのどちらかにござろうな」
その言葉を、わたしは、頭の隅に、そっと仕舞い込んだ。いまはまだ、遠い国の、他人事の話にすぎなかった。
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十兵衛の指南は、まず、弥九郎自身から始まった。
「殿には、まず、陣立ての基から、学んでいただきとうござる」
十兵衛は、そう言って、庭先に、小石を並べはじめた。石一つが、兵の一団を表すのだという。
「船の上では、殿の目に敵う者はおりますまい。ですが、陸では、勝手が違いまする。兵をどう並べ、どこに伏せ、どこで敵を受けるか。その基から、しかと」
弥九郎は、腕を組み、真剣な面持ちで、十兵衛の説く陣立てに、耳を傾けていた。
その席に、わたしも、同席させてもらった。
「奥方も、学ばれるか」
十兵衛が、そう訊ねた。
「はい。船の上のことは、殿にお任せいたしますが、陸の理も、いくらかは、頭に入れておきとうござります」
さらに、幸松と、亀吉をはじめとする、私設に育てている子らのうち、年嵩の幾人かにも、傍らで話を聞かせることにした。
「この子らにも、聞かせるのか」
弥九郎が、そう訊ねると、わたしは、深く頷いた。
「いずれ、この子らの中から、指揮を執る者が、育つやもしれませぬ。いまのうちから、耳に入れておいて、損はござりませぬ」
幸松たちは、初め、少し戸惑った様子だったが、すぐに、真剣な顔で、十兵衛の説く陣立てを、食い入るように見つめはじめた。
「石一つが、人一人ではござらぬ。石一つが、十人、二十人の一団にござる。その一団を、どこに置けば、崩れず、どこに置けば、崩れるか。それを、まず、頭に叩き込んでいただきたい」
十兵衛の声が、庭先に、静かに響いていた。船の上の技しか知らなかったこの一党に、いま、新しい種が、確かに蒔かれようとしていた。
指南が一区切りついたところで、わたしは、十兵衛に、一つの小箱を差し出した。
「これを、ご覧いただきとうござります」
箱の中には、灰色がかった、粗い粉が入っていた。硝石と、木炭と、そして、先だって、阿蓮の伝手を頼り、明の商人から、ようやく手に入れた硫黄。三つを、正しい割で合わせた、火薬だった。
十兵衛は、その粉を、しばらく、じっと見つめていた。
「これは、火薬にござるか」
「はい。硝石は、この島で、三年がかりで仕込んだものにござります。硫黄だけは、余所から求めねばなりませなんだが」
十兵衛は、少し、目を見開いた。
「島の内で、硝石を作られるとは。並みの知恵ではござらぬ」
「まだ、量は、僅かにて。じきに、幾らかの矢や、投げ物に、使えるほどにはなりましょう」
十兵衛は、それを聞いて、深く頷いた。
「陸の戦に、火薬が加われば、また、戦い方が変わり申す。焙烙玉のような形にできれば、寡兵でも、大軍の足を止められましょう」
その一言に、わたしは、頭の中で、また一つ、新しい算段を組みはじめた。船の上の技、陸の型、そして、火薬。この一党の力は、いま、幾つもの糸が、少しずつ、一つに織り込まれつつあった。
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十兵衛の指南を眺めているうちに、もう一つ、頭の中で、長らく眠らせていた算段が、静かに動き出した。
「十兵衛殿。募りに応じた者たちに、弓は」
わたしが、そう訊ねると、十兵衛は、渋い顔をした。
「弓は、まだ、誰一人、まともには使えませぬ。あれは、年季の要る武具にござる。いま募った者らに仕込むには、いくら急いでも、三年は下りませぬ」
「では、これは、いかがにござりましょう」
わたしは、そう言って、船倉の奥深くに、ずっと仕舞い込んだままにしていた、あの弩を一挺、持ち出させた。三部の初め、明の図面を頼りに、船大工に作らせた、五挺のうちの一つだった。あれから幾年も、増やすことも顧みることもなく、ただ、船倉で眠らせたままにしていた。
十兵衛は、その武具を手に取り、しばらく、矯めつ眇めつ、眺めていた。
「これは、明のものか。……見たことがある。日本では、とうに廃れた道具にござるな」
「弦を張り、狙いを定め、機関を落とすだけにて。十日もあれば、雑兵にも、使えるようになりましょう」
「なるほど。船の上でも、陸でも、稽古の要らぬ得物は、重宝いたしまする」
十兵衛は、そう言いながらも、すぐに、眉を寄せた。
「ただし、これは、よう壊れ申す。弦も、機関も、繊細な作りゆえ。直せる職人が、そばにおらねば、幾挺あろうと、じきに、ただの木の棒になり果てましょう」
「五挺のうち、いま、まともに使えるのは、幾つほどにござりましょうか」
伊佐次に問うと、しばらく調べたのち、答えが返ってきた。
「二挺は、既に、機関が傷んでおり申す。まともに使えるのは、三挺のみにて」
その数の心許なさに、わたしは、あらためて、これまでこの道具を、ずっと放り置いてきたことを、悔いた。
「弦と機関を作れる職人を、探しとうござります。因島か、大三島の鍛冶屋に、当たりをつけてみます。数を増やし、直しも利くようにしてから、常備兵に持たせとうござります」
「間に合うか」
弥九郎が、そう訊ねた。
「いますぐには、間に合いませぬ。ですが、常備兵が、五十、百と育つころには、揃えておきとうござります。稽古のいらぬ武具ゆえ、雑兵の数がまとまってから、初めて、活きましょう」
十兵衛は、それを聞いて、深く頷いた。
「弓に三年、弩に十日。その差が、いずれ、戦場で、大きくものを言い申そう」
こうして、船倉の隅で長らく眠っていた弩は、常備兵という新しい兵の姿を得て、あらためて、日の目を見ることになった。ただし、いま手にできる形になるまでには、なお、幾らかの時が要ることも、はっきりしていた。
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館へ戻る道すがら、綾のもとを訪ねた。赤子は、既に、寝返りを打てるようになっていた。その成長の速さに、わたしは、あらためて、月日の流れの速さを感じた。
「鶴丸のこと、正式に決したそうですね」
綾が、そう言った。その声には、複雑な色が滲んでいた。喜びと、兄への思いとが、同時に、こちらへ伝わってきた。
「はい。鶴丸様は、これから、しっかりと、支えてまいりまする」
「兄上のことは」
その問いに、わたしは、しばらく、言葉を選んだ。
「まだ、敵方に立たれたままにて。ですが、いずれ、決着をつけねばならぬ日が、来ましょう」
綾は、それを聞いて、静かに、目を伏せた。
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「決着、とは、いかなる形にござりましょうか」
綾が、そう訊ねた。
「まだ、分かりませぬ。ですが、争いを長引かせるほど、双方に、傷が深まりましょう。いずれ、しかるべき形で、決着をつけねばなりませぬ」
「兄上の命を、奪うことは」
その問いに、わたしは、しばらく、言葉を選んだ。
「望んでは、おりませぬ。これまでも、この島は、力で潰すのではなく、理と利で、相手を動かしてまいりました。又五郎様に対しても、まずは、同じ道を探りとうござります。ですが」
わたしは、少し、間を置いてから、続けた。
「戦というものは、こちらの望みどおりには、進みませぬ。命を奪わずに済む道を、探し尽くす所存にござります。ですが、その道が、必ずあるとは、いまここで、お約束はできませぬ」
綾は、それを聞いて、しばらく、黙っていた。安堵とは、また違う、複雑な色が、その顔に浮かんでいた。
「正直に、お答えくださり、かたじけのう存じます」
「綾様の兄君にござります。粗末には、決していたしませぬ」
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その夜、幸松が、鶴丸の様子を、あらためて伝えに来た。
「鶴丸様は、当主としての務めに、少しずつ、慣れてこられたご様子にて」
「幸松のおかげにて」
わたしが、そう言うと、幸松は、少し照れたような顔をした。
「それがしは、ただ、傍におるだけにて。何もしており申さぬ」
「傍におること自体が、大きな支えなのだ」
その言葉に、幸松は、深く頷いた。その目には、迷いのない、確かな意志があった。
「これから先も、鶴丸様のこと、頼む」
幸松は、姿勢を正し、はっきりと答えた。
「承知いたしました。命に代えても、お守りいたしまする」
その真剣な答えに、わたしは、少し、胸が熱くなった。かつて拾われた孤児が、いま、島の当主を、こうして、しっかりと支えている。この巡り合わせの重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。
わたしは、少し話題を変えて、そう訊ねてみた。
「幸松は、自分のこれからのことを、考えたことがあるか」
幸松は、少し考え込んでから、照れたように、答えた。
「これまでは、あまり、考えたことがござりませなんだ。ただ、その日その日を、精一杯、過ごすことしか」
「これからは」
「これからは、鶴丸様を、しっかりとお支えすることが、それがしの、なすべきことにござりましょう」
その答えに、わたしは、深く頷いた。幸松は、まだ若いながらも、既に、自分の役目を、しかと、はっきりと見定めていた。数と策だけを頼りにしてきた自分とは違う、もっと素朴で、それでいて、確かな強さを持っていた。
「いずれ、幸松にも、しかるべき立場を、用意しとうござります」
わたしが、そう続けると、幸松は、少し驚いた顔をした。
「それがしのような者に、そのような」
「弥九郎様の一党にも、こうして、身寄りのない者たちが、それぞれの役目を得て、確かな居場所を築いてきた。幸松も、同じ道を歩めよう」
その言葉に、幸松は、深く、深く、頭を下げた。しばらく、顔を上げなかった。
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その夜、皆が寝静まってから、館の静けさの中、独り、帳を広げた。
鶴丸様、正式に二神本家の当主として決す。義重様、後見人となる。実質の政、こちらの側が担う。教通方との対立、なお続く。又五郎様、いまだ敵方に立つ。常備兵の募り、三十を超える。彦次、旧敵ながら加わる。浪人・郷田十兵衛、指南役兼陸兵の指揮官として召し抱える。殿の陣立て指南、始まる。幸松ら私設の子らも陪席させる。硝石・硫黄・炭、揃う。火薬、初めて形になる。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。長い戦いの、一つの区切りだった。だが、この区切りの先に、また、新たな戦いが続いていく。その繰り返しこそが、この島の歩みそのものだった。
弥九郎は、隣の部屋で、既に、休んでいるようだった。あの男もまた、島の主として、この一連の争いを、確かに支え続けてきた。渡りの数は、いまも、以前ほどには戻っていない。だが、その事実に対する自分の心の動きを、いまは、まだ、正しく数えきれずにいた。焦りとも、寂しさとも、少し違う、名づけようのない感情が、胸の奥に、ずっと、燻り続けていた。
鶴丸の、あの、素直な笑顔を、もう一度、思い出した。「千代殿は、これからも、傍におってくださいますか」という、あの問い。守るべきものが、また一つ、増えた。数えるべきものが、また一つ、増えた。その重みを、これから、義重と共に、しっかりと担っていかねばならなかった。
綾の、兄への複雑な思いも、頭の隅に、深く残っていた。血の繋がりというものは、時に、何よりも重く、時に、何よりも脆い。義重の「あれは、わしの息子だ」という一言が、いつまでも、耳の奥に、静かに響いていた。
幸松の、あの、深々と下げた頭も、頭に残っていた。身寄りのない者が、また一人、この島に確かな居場所を見出そうとしていた。その積み重ねの先に、いまの、この一党の姿があった。かつて、荷として売られただけの小娘が、いまでは、後見として、一つの家の行く末を担う立場にまでなっていた。その巡り合わせの重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。
外では、九月の澄んだ風が、いつまでも、静かに吹いていた。秋が、また一つ、深まろうとしていた。




