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潮を編む――滅んだ小領主の娘、唐土に売られ、海賊の妻となる  作者: ハタ星人


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第三十五話 又五郎、現る

応永三十三年(一四二六)七月 伊予国 忽那諸島


家中の説得が、じわじわと実を結びはじめ、鶴丸を推す声が、ようやく、優勢に傾きはじめた頃だった。


その日の朝、義重の館で、正式な評定が開かれるとの報せが届いた。教通方の担ぐ孫か、鶴丸か。本家の次の当主を、いよいよ、決めるための、正念場だった。


わたしは、その評定には、無論、出られなかった。だが、弥九郎は、義重に付き従う形で、その場に列席することになった。


---


身支度を整えた弥九郎が、板間に姿を見せた。


「行ってくる」


弥九郎は、そう言って、館を出ていった。その背に、わたしは、深く頭を下げた。


「どうか、御無事で」


「案ずるな。ただの評定だ」


弥九郎は、そう言って、軽く笑った。だが、その目には、これまでにない、確かな緊張の色が、はっきりと浮かんでいた。


---


その日、館に残ったわたしは、落ち着かない時を過ごした。伊佐次や松吉たちも、それぞれの持ち場で、緊張した面持ちで、報せを待っていた。


いつもであれば、こうした待つだけの時間には、木のこと、境目のこと、能島・来島のことと、頭の中で、幾つもの算段を並べて過ごすところだった。だが、今日は、どうしても、頭が、それらの数に向かなかった。義重の館で、いま、まさに、この島の行く末を左右する評定が行われている。その場に、自分は、立ち会うことができない。「席がない」という、これまで幾度も噛みしめてきた壁を、今日ほど、重く感じたことはなかった。


昼過ぎ、幸松が、そっと、こちらの様子を窺いに来た。


「千代様、何か、お手伝いできることは」


「いまは、ない。ただ、待つしかない」


わたしは、そう答えた。幸松は、それを聞いて、静かに、傍らに座った。何を話すでもなく、ただ、共に、時を過ごしてくれた。その気配りに、わたしは、少し、救われる思いがした。


夕方近くになって、ようやく、湊のほうから、弥九郎の一行が戻ってくるのが見えた。館へ入ってきた弥九郎の顔には、複雑な色が浮かんでいた。


「殿。評定は、いかに」


わたしは、駆け寄るようにして、すぐさま、そう訊ねた。


---


「鶴丸を、次の当主として立てることが、正式に決した」


その報せに、わたしは、深く息を吐いた。長い綱渡りが、ようやく、一つの決着を見た。次善の一手として鶴丸を担ぎ出すと決めてから、幾月もの間、家中の説得を、じわじわと積み重ねてきた。その積み重ねが、ようやく、確かな実りとなった。


「されど」


弥九郎は、そう続けた。その声には、まだ、拭いきれない翳りがあった。


「教通方の孫を推していた者たちの中に、思いがけない顔ぶれがおった」


---


「思いがけない顔ぶれ、とは」


「又五郎だ」


その名に、わたしは、しばらくのあいだ、動けなかった。


わたしは、動揺を抑えながら、そう確かめた。


「又五郎様が、評定の場に、現れたのですか」


「現れた。しかも」


弥九郎は、深く息を吸い、それから、続けた。


「教通方が担ぐ孫の、後見の一人として、家臣の列に、その名を連ねておった」


---


その報せに、わたしは、頭の中で、これまでの懸念が、はっきりとした形を取ったことを、静かに確かめた。伊佐次の探索で得た、あの見慣れぬ影の噂、上怒和での不審な会合。それらの断片が、いま、ようやく、一つの確かな絵図として、完成した。


「名乗りは、いかように」


わたしは、そう訊ねた。この問いの答えが、これから、又五郎という男の立場を、決定的なものにするだろうという予感があった。


弥九郎は、重い口を開いた。


「忽那重氏。それが、又五郎の名乗りだった」


---


「忽那重氏」


わたしは、その名を、思わず、口の中で、繰り返した。忽那重氏。義重の名を継いだ、正統な血筋の証。


「義重様の一字を、正しく継いだ名にござりますね」


「そうだ。元服の折、義重様御自身が、そう名付けられたのだ」


その一言に、わたしは、頭の中で、静かに、ある対比を思い浮かべた。弥九郎は、婿として二神の姓こそ得たが、義重様の血を分けた実子ではない。名乗りの上でも、どこかに、余所者としての一線が、これまでも、確かに残り続けていた。


だが、血を分けた実子である又五郎は、生まれながらにして、義重様の一字を、当然のごとく持っていた。名において血に最も近い者が、いま、家を裏切る側に回っている。その逆説を、わたしは、静かに、噛みしめずにはいられなかった。


---


わたしは、少し息を整えてから、続けた。


「重氏は、評定の場で、何と」


「教通方の担ぐ孫こそが、本家の正統な血筋であると、はっきりと言い切った。鶴丸を推す者たちを、庶流の分際で出過ぎた真似をすると、そう詰る場面もあった」


弥九郎の言葉に、わたしは、深く、胸が痛んだ。


「殿は、重氏殿と、言葉を交わされましたか」


わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、しばらく、黙っていた。


「交わした。評定が終わったあと、廊下で、行き合った」


「何と、仰いましたか」


「重氏は、俺を見て、こう言った。義弟殿も、まだ、この島に居座っておられるか、と」


その言葉に、わたしは、頭の中で、又五郎、いまは重氏と名乗る男の、その物言いの奥にある、複雑な感情を、静かに読み取ろうとした。


「殿は、何と、お返しに」


「何も言わなんだ。ただ、頭を下げただけだ」


弥九郎の、その静かな答えに、わたしは、深く、胸を突かれた。この男は、又五郎に対して、憎しみでも、怒りでもなく、ただ、静かな諦めのようなものを、抱いているのかもしれなかった。


「義重様の御様子は」


「言葉を失っておられた。実の子に、面と向かって、そこまで言われるとは、思うておられなかったのだろう」


---


「鶴丸様派との、直接の対立にござりましたか」


わたしが、そう訊ねると、弥九郎は、頷いた。


「鶴丸を推す側と、重氏の推す孫を推す側とが、評定の場で、真っ向からぶつかった。最後は、数の上で、鶴丸を推す側が、わずかに勝ったが」


「わずかに、にござりますか」


「ああ。危ういところだった。もし、あの古参の家老が、こちら側に立たなんだら、どうなっておったか、分からぬ」


---


その報告を聞きながら、わたしは、又五郎、いや、忽那重氏という男の、辿ってきた道のりを、あらためて、頭の中で辿り直した。


義重の跡取りとして生まれ、いずれは、この島を継ぐはずだった男。それが、余所者の一党によって、少しずつ、島の実権を奪われ、妹までも、政略のために、本家の猶子として差し出された。その痛みを、この男は、誰にも、正しく分かってもらえないまま、独りで抱え続けてきたのだろう。


いまは、教通方の孫の下で働いている。かつての跡取りが、いまは、他家の駒として、その実名を差し出している。この落差こそが、又五郎という人物の辿った道を、言葉を尽くさずに示していた。


義重の一字を、正しく継いだ、生まれながらの正統な血筋。それを、この男は、いま、他家に捧げている。名の重さと、心の向く先とが、これほどまでに、食い違ってしまうことがあるのだと、わたしは、あらためて、思い知らされた。


---


「綾には、何と伝える」


弥九郎が、そう訊ねた。


わたしは、しばらく、考えた。


「正直に、お伝えせねばなりませぬ。もう、隠しておける段階では、ござりませぬ」


「辛い役目だな」


「はい。ですが、いずれ、綾様御自身も、この事実に、向き合わねばなりませぬ」


---


綾のもとへ向かう前、幸松に、鶴丸のことを、あらためて頼んだ。


「鶴丸様は、これから、正式に、当主として立たれる。これまで以上に、大きな重みを、背負われることになろう」


幸松は、深く頷いた。


「これまでどおり、傍におります。何があろうと」


「頼む」


幸松の、その揺るぎない返事に、わたしは、少し、心が軽くなった。数と策だけでは支えきれない部分を、この子が、いつも、静かに埋めてくれていた。


---


その夜、綾のもとを訪ねた。赤子は、すやすやと眠っていた。


「兄上のこと、今日の評定で、はっきりといたしました」


わたしは、そう切り出した。綾は、しばらく、黙って、こちらを見ていた。


「教通方の担ぐ孫の、後見の一人として、評定の場に、お立ちになりました」


その報せに、綾の顔から、みるみるうちに、血の気が引いていった。


---


綾は、震える声で、そう呟いた。


「兄上が……教通方の側に」


「はい。実名、忽那重氏として、名乗られました」


綾は、しばらく、何も言えずにいた。やがて、涙が、静かに、頬を伝いはじめた。赤子が、その気配を察したのか、小さく、身じろぎをした。


綾は、涙をこらえながら、そう漏らした。


「なぜ、兄上は」


その問いに、わたしは、何も答えられなかった。又五郎の恨みの深さを、これまで、正しく数えてきたつもりだった。だが、その恨みが、ここまで、はっきりとした形を取るとは、まだ、どこかで、信じたくなかったのかもしれなかった。


綾は、しばらく、涙を拭いながら、黙っていた。それから、静かに、口を開いた。


「兄上は、いつから、そこまで、こちらを恨んでおられたのでしょうか」


「分かりませぬ。ですが、恨みの根は、幾年も前から、静かに積もっていたのやもしれませぬ」


わたしは、しばらく、灯を見つめたまま、頭の中で、これまでの又五郎の姿を、あらためて辿り直した。義重と決裂し、上怒和へ出奔した日。その後、一度は和解したように見えたが、あの和解が、あくまで「表向きの折れ」に過ぎなかったこと。その裏で、この男は、ずっと、独り、恨みを育て続けていたのだろう。


---


綾は、しばらくして、静かに口を開いた。


「わたくしにも、責めがござります」


「綾様に、何の責めが」


「わたくしが、猶子となり、弥九郎様に嫁いだことが、兄上の恨みの、始まりの一つにござります。もし、わたくしが、あのとき、違う道を選んでいたなら」


綾は、そこで、少し声を落とした。


「兄上は、若いころに一度、妻を娶られました。ですが、早うに、死に別れておられます。子はござりませなんだ。子のない身で、いずれは、鶴丸が家を継ぐのだろうと、兄上御自身、そう漏らしておられたことが、ござります。まだ、わたくしが猶子になるより、ずっと前のことにござりますが」


その話に、わたしは、初めて聞く事実として、静かに耳を傾けた。


「風の噂に聞きました。教通方の下で、新たに妻を娶られたとか。真かどうかは、分かりませぬが」


その言葉に、わたしは、頭の中で、また一つ、又五郎という男の姿を、書き加えた。子のない身で、静かに家の先々を思い描いていた男が、いまは、敵方の世話になる妻を娶り、かつて自分が思い描いていたはずの継承の形とは、まるで違う道を歩んでいる。その落差もまた、この男の辿った道のりの、重い一片だった。


その言葉に、わたしは、深く、首を振った。


「綾様の御決断は、この島を救いました。その決断を、悔いる必要は、ござりませぬ」


「それでも、兄上を、これほどまで、追い詰めてしまったことは、消えませぬ」


綾の言葉に、わたしは、何も言い返せなかった。正しさだけでは、綾の悲しみを、覆すことはできなかった。この島に流れてきた、あらゆる人と人との縁が、いつも、単純な善悪では割り切れない、複雑な糸で結ばれていることを、あらためて、思い知らされた。


---


館へ戻り、夜も更けてから、帳を広げた。


評定、鶴丸様、正式に次の当主として決す。又五郎様、実名「忽那重氏」にて、教通方の孫の後見として、正式に敵方に立つ。綾様に、この事実を伝える。


書き終えて、しばらく、その一行を、じっと見つめた。長い綱渡りの末に、ようやく、一つの決着を見た。だが、その決着の裏で、又五郎という男との、決定的な決別が、はっきりとした形を取った。喜びと、痛みとが、同時に、胸の内で渦を巻いていた。


忽那重氏という、あの実名の重みを、もう一度、頭の中で、静かに反芻した。義重の名の一字を、正しく継いだ、正統な血筋の証。それを、弥九郎は、婿として、最後まで得られなかった。だが、いま、その名を正しく持つ男が、家を裏切る側に回り、名において血の一滴も引かない男が、家の先々を、実質、背負っていこうとしている。


この逆説の重みを、わたしは、どう受け止めればよいのか、まだ、正しく分からずにいた。血の繋がりよりも、確かなものが、この世にはあるのかもしれない。だが、その確かなものを掴むために、又五郎という一人の男の心を、これほどまでに、傷つけてしまった。その代償の大きさを、いまさらのように、思い知らされていた。


弥九郎は、隣の部屋で、既に、休んでいるようだった。今日という日の重さを、この男もまた、独りで、噛みしめているのだろう。


鶴丸のことを、また、思い出した。あの、あどけない笑みを浮かべた少年が、いま、こうして、家督争いの中心に立たされている。その傍らに、幸松がいることだけが、せめてもの救いだった。数と策だけでは、決して埋められない部分を、この島の者たちは、いつも、それぞれのやり方で、埋め合ってきた。その積み重ねの上に、いまの、この危うい均衡が、かろうじて、成り立っていた。


綾の、あの、悲しみに満ちた横顔も、頭から離れなかった。血を分けた兄との決別を、綾は、これから、どのように、自分の中で受け止めていくのだろうか。その痛みに、寄り添う言葉を、まだ、見つけられずにいた。


外では、七月の蒸し暑い風が、重く、湿った空気を運んでいた。夏が、本格的に、この島を包みはじめていた。

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