第三十四話 家臣の目
応永三十三年(一四二六)六月 伊予国 忽那諸島
鶴丸を対抗の駒として立てるという構想が、通春方に認められてから、ひと月が過ぎた。梅雨の走りの湿った風が、島を、じっとりと包みはじめていた。
館の暮らしは、表向きは、いつもと変わらず、静かに続いていた。だが、事は、そう容易には運ばなかった。本家の御家中は、依然として、教通方の担ぐ孫を推す者と、鶴丸を推す者とに、はっきりと分かれたままだった。
義重から、あらためて、少し焦った様子の報せが届いた。
「御家中の説得が、思うように進まぬ」
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わたしは、その一言に、思わず、緊張した。
「進まぬ、とは」
わたしは、少し身を乗り出して、そう訊ねた。義重の使いは、少し困った顔で、言葉を選びながら、答えた。
「鶴丸様を推す声は、確かにござる。ですが、既に本家の実権を握りつつある教通方に、逆らうことへの恐れを持つ家臣も、少のうござらぬ」
その報せに、わたしは、思わず、頭の中で、これまでの家督争いの構図を、あらためて数え直した。数の上での勝敗は、まだ、どちらにも傾いていなかった。むしろ、家中の空気そのものが、判断のつかない、重苦しい膠着に陥っているようだった。
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わたしは、頭の中で、既に得ている情報を整理しながら、そう続けた。
「他には、どのような声が」
「主殺しへの反発も、確かに大きゅうござる。当主様と御嫡男様を、討った下手人が、教通方に連なる者だという噂は、既に、御家中の隅々にまで広まっており申す。その者たちが担ぐ孫を、素直に推せぬという声も」
義重の使いは、そう続けた。声には、家中の混乱ぶりを、伝えきれない歯がゆさが滲んでいた。
わたしは、頭の中で、素早く、その情報を書き留めながら、そう応じた。
「それは、こちらにとって、追い風にござりますな」
「はい。ですが、その一方で、鶴丸様の正統性を、疑う声もござる」
わたしは、少し眉をひそめた。
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わたしは、気を取り直し、そう問い返した。
「正統性を疑う、とは」
「鶴丸様は、義重様の御子ではあるが、本家の血筋そのものではない、庶流の血筋にすぎぬと。教通方の担ぐ孫は、当主様の実の孫。血の濃さで言えば、向こうに分があると申す者もおり申す」
その指摘に、わたしは、深く頷いた。義重の家系は、忽那の庶流にすぎない。本家の血を直に引く孫と比べれば、正統性の面で、確かに、見劣りすることは、否めなかった。
考えてみれば、綾の産んだ子であれば、この弱みは、生じなかったはずだった。本家の猶子である綾の子は、正統な血として、より強く、家中に訴えられただろう。だが、あの子は、まだ、乳飲み子で、いまは使えない。次善の一手を選んだ以上、この正統性の弱さは、初めから、覚悟しておかねばならなかった代償だった。
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弥九郎に、この報せを伝えると、しばらく、考え込んでいた。
「血の濃さでは、勝てぬということか」
「はい。ですが、血の濃さだけが、正統性のすべてではござりませぬ」
「他に、何がある」
わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた理屈を、あらためて整理した。
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わたしは、指を折りながら、一つずつ、数え上げた。
「一つは、後見という体裁にござります。義重様が、しかと後見を務めれば、幼い当主を、家中全体で支えるという、まっとうな形が整いまする」
「二つ目は」
弥九郎が、続けて、そう促した。
「主殺しへの反発にござります。当主様と御嫡男様を、討って得をする者は、教通方をおいて、ほかにはおりませぬ。通春方は、当主様が、すでにこちらへ心を寄せておられた以上、討つ理由が、そもそもござりませぬ。教通方が担ぐ孫を推すことは、実質、主殺しを許すことに繋がりましょう。その筋の悪さを、家中の者たちに、繰り返し、説いてまいりとうござります」
弥九郎は、頷いた。
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「三つ目は」
「力への服従、それ自体への抵抗にござります。教通方の力に、ただ屈するだけでは、本家の家臣としての誇りが、立ちませぬ。鶴丸様を推すことは、みずからの意志で、正しき道を選ぶという、家臣たちの矜持を守ることにも繋がりましょう」
「その三つを、どのような順で説く」
弥九郎が、そう訊ねた。
「まずは、主殺しへの反発から。これは、既に、家中の多くの者が、内心では抱いておる感情にござります。そこに、後見の体裁という、安心できる道筋を示す。最後に、矜持への訴えで、後押しをいたしとうござります」
「順序にも、意味があるのだな」
「はい。人の心を動かすには、まず、既にある感情を掬い上げ、それから、安心できる道を示し、最後に、背中を押す。この順を違えれば、うまくは運びませぬ」
その三つの理屈を、わたしは、順を追って、一つ一つ、丁寧に説いた。弥九郎は、それを、しばらく、黙って、じっと聞いていた。
「これらの理屈を、誰が、御家中に説いて回る」
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「義重様に、お願いしとうござります。ですが、義重様お一人では、限りがありましょう。伊佐次や、こちらの手の者にも、それとなく、この理屈を、家中の者たちの耳に入れるよう、動かせとうござります」
弥九郎は、腕を組みながら、そう確かめた。
「表立っては、動かせぬのだな」
「はい。これは、あくまで、本家御家中の内々の判断として、進めねばなりませぬ。こちらが、あまりに前面に出れば、かえって、家中の反発を招きましょう」
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義重の使いを見送ったあと、その足で、鶴丸の様子を、あらためて見に行った。庭先で、幸松と共に、鶴丸が、木の枝で、何やら地面に絵を描いているのが見えた。
わたしは、二人に近づいた。
「何を描いておられる」
鶴丸は、少し照れたような顔をした。
「船にござります。いつか、大きな船で、遠くまで、旅をしてみとうござります」
その素直な言葉に、わたしは、少し胸を締めつけられた。この子は、まだ、自分がこれから背負おうとしている重さの、本当の大きさを、正しくは分かっていないのだろう。
わたしは、しばらく、鶴丸の描いた船の絵を見つめてから、答えた。
「よい夢にござりますね」
わたしは、そう答えた。だが、内心では、この子の未来が、いま、大人たちの思惑によって、大きく形を変えようとしていることを、あらためて、重く感じずにはいられなかった。
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幸松が、鶴丸の傍らで、静かに、こちらを見ていた。その目には、何か、こちらに伝えたいことがあるような色があった。
「幸松、何か」
わたしが、そう訊ねると、幸松は、少し言葉を選んでから、答えた。
「鶴丸様は、近ごろ、夜、うまく眠れぬことが、あるようにて」
その報告に、わたしは、思わず、はっとした。
「何が、御気掛かりなのか」
幸松は、そう答え、少し目を伏せた。
「はっきりとは、仰いませぬ。ですが、大人たちが、御自分のことで、何か、大きな相談をしておられることは、薄々、感じ取っておられるようで」
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その言葉に、わたしは、深く、静かに反省させられた。鶴丸には、詳しくは伝えないと決めていたが、子供の勘は、こちらが思うよりも、ずっと鋭かった。数だけを見ておっては、こうした機微を、見落としてしまう。何も知らせずにいることが、かえって、この子の不安を、いっそう大きくしているのかもしれなかった。
「幸松、鶴丸様には、どこまで、話してよいと思うか」
その問いに、幸松は、しばらく、考え込んだ。
「すべてを、正しく話す必要はござりますまい。ですが、独りで不安を抱えさせるよりは、少しでも、頼れる大人がおるのだと、そう感じていただけるほうが、よろしいかと」
その答えに、わたしは、深く、静かに頷いた。幸松の言葉は、いつも、数では測れない、確かな重みを持っていた。
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その日から、伊佐次たちを使い、じわじわと、家中の説得を進めていった。
数日後、義重から、少しずつ、手応えが見えはじめたとの報せが届いた。
「主殺しへの反発を説く理屈が、家中の者たちに、よう響いておるようだ」
義重は、そう伝えてきた。
「教通方の担ぐ孫を推すことに、これまで以上に、慎重になる者が、増えておるとのこと」
その報せに、わたしは、少し安堵した。だが、まだ、勝敗は、決していなかった。
「特に、誰の説得が、効いたのでござりますか」
わたしは、そう訊ねた。
義重は、少し声を弾ませて、そう答えた。
「古参の家老衆の一人が、鶴丸様を推す側に、はっきりと立たれたそうにて。その御方の発言力は、家中でも、随一と聞いており申す」
その報せに、わたしは、頭の中で、素早く、丁寧に、算段を組み直した。
「その御家老様には、何か、こちらから、お礼の品を届けとうござります。あまり大袈裟にならぬ範囲で」
義重は、少し考えてから、そう答えた。
「わしから、それとなく、手配しておこう」
「かたじけのう存じます」
こうした、一人一人への細やかな気配りの積み重ねが、いずれ、大きな流れを作っていく。数だけでなく、こうした人の心の機微も、しかと勘定に入れねばならなかった。
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その夜、綾のもとを訪ねた。鶴丸のことを、あらためて、伝えるためだった。
「家中の説得、少しずつ、進んでおります」
わたしが、そう告げると、綾は、静かに頷いた。
「兄上には、まだ、この話は」
「まだにござります。ですが、いずれ、伝えねばなりませぬ」
綾は、しばらく、黙っていた。その横顔に、又五郎への複雑な思いが、微かに滲んでいるように見えた。もし、又五郎が、本当に、本家暗殺に関与していたのであれば、鶴丸を巡るこの争いは、いずれ、又五郎自身とも、直接、向き合うことになるかもしれなかった。
「兄上のこと、まだ、何も分からぬままにござりますか」
綾が、ふと、そう訊ねた。その声には、隠しきれない不安があった。
「まだ、確かなことは、何も。ですが、頭の隅には、しかと留めており申す」
「もし、兄上が、本当に、あの凶行に関わっておられたなら」
綾は、そこで、言葉を切った。その先を、口にすることが、できないようだった。
「そのときは、そのときにござります。ですが、いまは、まだ、確かなことを、何一つ申し上げられませぬ」
わたしは、そう答えるのが、精一杯だった。綾の不安を、完全に取り除くことは、いまの自分には、できなかった。
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「幸松は、鶴丸に、よう仕えてくれておるようですね」
綾が、話を変えるように、そう言った。
「はい。あの二人は、既に、確かな絆を結んでおるようにて」
「それだけが、いまの、せめてもの救いにござります」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。数と策だけでは、決して埋められない部分を、幸松の存在が、静かに埋めてくれていた。
「先ほど、鶴丸様の様子を見てまいりました。船で遠くへ旅をしてみたいと、そう申しておられました」
わたしが、そう伝えると、綾は、微かに笑った。
「あの子らしい、無邪気な夢にござりますね」
「はい。ですが、その夢を、いつか、本当に叶えてやれる日が、来るとよいと、そう思いました」
その言葉に、綾は、少し驚いた顔をした。
「千代殿が、そのようなことを、仰るとは」
「わたくしとて、時折、数の外側のことを、考えることもござります」
わたしは、そう答えた。綾は、それを聞いて、優しく微笑んだ。その微笑みに、わたしは、少し、心が軽くなるのを感じた。
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夜が更けてから、帳を広げた。
御家中の説得、少しずつ、進む。血の濃さでは劣るが、後見の体裁・主殺しへの反発・家臣の矜持、この三つの理屈で、鶴丸様を推す声を、じわじわと広げる。まだ、勝敗は決せず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。政の争いは、数の勝負であると同時に、人の心の勝負でもあった。血の濃さという、動かしがたい数の劣勢を、理と情とを織り交ぜた説得で、どこまで覆せるか。その綱渡りを、これから、まだ、しばらく続けねばならなかった。
鶴丸の、あの「大きな船で、遠くまで旅をしてみとうござります」という一言を、もう一度、思い出した。この子が、いま、大人たちの争いの中に引きずり込まれていることを思うと、その無邪気な夢が、いっそう、胸に痛かった。
幸松の言葉、独りで不安を抱えさせるよりは、少しでも頼れる大人がおるのだと感じさせるほうがよいという、あの助言も、頭の中に、深く残っていた。これまで、こちらは、「知らせぬこと」を、優しさだと思い込んでいた。だが、知らせぬことが、かえって、幼い心を、独りぼっちにしてしまうこともある。その道理を、幸松から、また一つ、教えられた気がした。
綾の、あの、優しい微笑みも、もう一度、頭に浮かんだ。数と理屈だけでは、決して埋められない部分を、綾は、いつも、静かに、埋めてくれていた。
外では、六月の梅雨の雨が、いつまでも、静かに、屋根を叩いていた。




