第三十三話 綾の弟
応永三十三年(一四二六)五月 伊予国 怒和島 下怒和
教通方が、五歳の孫を担ぎ出したという報せから、半月ほどが過ぎた。桜も、既にすっかり葉桜となり、島には、初夏の陽気が満ちはじめていた。
その間、こちらは、通春方の中で、対抗し得る血筋を、あらためて探らせていた。だが、伊佐次や、義重を通じて得られる報せは、いずれも、思わしいものではなかった。
「これといった血筋は、見当たり申さぬ」
伊佐次が、そう報告した夜、わたしは、館の板間で、弥九郎と、あらためて、この難局を、どう乗り越えるかを話し合っていた。
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「次善の一手は、まだ、見えぬか」
弥九郎が、盃を傾けながら、そう訊ねた。
わたしは、しばらく、考えていた。頭の中では、既に、一つの名が、静かに浮かびはじめていた。
「一つ、心当たりが、ござります」
わたしは、深く息を吸い、それから、口を開いた。
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「鶴丸様にござります」
その名に、弥九郎は、少し驚いた顔をした。
「義重様の末子か」
「はい。綾様の弟御にて、義重様の御血筋にござります。年は、もう、八つほどにおなりのはず」
弥九郎は、腕を組み、そう訊ねた。
「なぜ、あの子を」
「乳飲み子ではござりませぬ。ある程度、物心もついておられましょう。何より、義重様の御血筋という、確かな正統性がござります」
「時が要る、ということか」
「はい。教通方は、既に、五歳の孫を、担ぎ出しております。時をかければかけるほど、あちらの正統性は、家中に、深く根を張りましょう。綾様の御子が育つのを待つ悠長さは、もはや、こちらには、許されませぬ。すぐに、対抗し得る旗を、立てねばなりませぬ」
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弥九郎は、しばらく、考え込んでいた。
「だが、鶴丸は、まだ子供だぞ」
「はい。それゆえ、後見が要りましょう。義重様が、後見人として立てば、実権は、実質、義重様の家、すなわち、こちらの側に、移りまする」
その言葉に、弥九郎は、深く頷き、しばらく考えてから、答えた。
「なるほど。乳飲み子の子より、幾らか大きい分、担ぎ出しやすいというわけか」
「はい。それに」
わたしは、少し言葉を選びながら、続けた。
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「鶴丸様には、既に、島の暮らしの中で、ある程度、人となりを見せていただいております。義重様の御子として、島の者たちからも、信を得やすい御方にござります」
弥九郎は、それを聞いて、しばらく、黙っていた。
弥九郎は、少し考えてから、そう訊ねた。
「義重様には、もう、話したのか」
「まだにござります。まずは、殿の御了解を得てから、義重様に、あらためて、お諮りしとうござります」
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翌日、義重の館を訪ね、この構想を、あらためて伝えた。
義重は、しばらく、言葉を失っていた。
「鶴丸を、対抗の駒として……」
「はい。乳飲み子である綾様の御子には、いまはまだ、務まりませぬ。ですが、鶴丸様であれば」
義重は、深く、長い息を吐いた。
義重は、しばらく黙ったのち、そう漏らした。
「あれは、まだ、子供だ」
「承知しております。ですが、後見人として、義重様が支えれば、実質の政は、義重様、そして、こちらの側が、担うことになりましょう。鶴丸様御自身に、重い責を負わせるわけではござりませぬ」
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義重は、しばらく、考え込んでいた。
「鶴丸には、何と伝える」
わたしは、少し考えてから、そう答えた。
「まだ、幼い御方にござります。すべてを、正しくお伝えする必要はないやもしれませぬ。ただ、島のため、家のために、大事な役目を担っていただくことになる、とだけ」
義重は、しばらく黙り込んだのち、そう漏らした。
「あれが、それを、理解できるかどうか」
「理解できずとも、務まりましょう。後見が、しっかりと支えれば」
義重は、それを聞いて、深く頷いた。
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義重は、深く息を吐き、そう答えた。
「分かった。わしから、通春方に、この話を持ちかけてみよう」
「かたじけのう存じます」
館を辞す前、わたしは、鶴丸の姿を、ひと目、見ておきたいと思った。庭先で、鶴丸は、他の子らと共に、木刀を振る稽古をしていた。
木刀を振るたびに、少し息を切らし、それでも、懸命に、型を繰り返している。その姿は、まだ、あどけなさの残る、ごく普通の少年のものだった。この子が、これから、大きな政の駒として、担ぎ出されることになる。その事実を、鶴丸自身は、まだ、何一つ、知らないのだろう。
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「鶴丸様」
わたしは、そう声を掛けた。鶴丸は、稽古の手を止め、こちらを見た。
「千代殿。姉上は、お変わりござりませぬか」
「はい。御子も、健やかに育っておられます」
鶴丸は、それを聞いて、少し嬉しそうな顔をした。まだ、幼さの残る、素直な笑みだった。
その笑みを見ながら、わたしは、頭の中で、これから、この子に背負わせようとしている重さを、あらためて数え直した。数として見れば、これは、正しい選択だった。だが、その正しさの裏で、一人の少年の日々が、大きく変わろうとしている。
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その翌日、幸松に、鶴丸の傍につくよう頼んだ。
「鶴丸様のことにござりますか」
幸松は、少し驚いた顔をしたが、すぐに、居住まいを正し、真剣な表情に変わった。
「承知いたしました。それがしに、何ができましょうか」
「多くを求めはせぬ。ただ、傍にいて、話し相手になってやってほしい。鶴丸様は、これから、大人たちの争いの中に、否応なく、引き込まれることになる」
幸松は、深く頷いた。
「幼い頃、それがしも、独り、心細い日々を過ごしました。あの心細さだけは、誰よりもよく分かっており申す」
その言葉に、わたしは、深く頷いた。かつて拾われた孤児が、いま、島の跡取りに関わる少年を、支える役目を担おうとしている。この巡り合わせの不思議さを、あらためて感じずにはいられなかった。
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数日後、幸松が、鶴丸のもとを訪ねたという報告を受けた。
「鶴丸様は、いかがであったか」
わたしが、そう訊ねると、幸松は、少し考えてから、答えた。
「まだ、何が起きておるのか、正しくは、お分かりでないご様子にて。ただ、何か、大事なことが、御自分の身に起きようとしていることだけは、感じ取っておられるようで」
その報告に、わたしは、胸の奥が、少し重くなった。八歳の少年が、大人たちの思惑の中で、正確には理解できないまま、大きな役目を背負わされようとしている。その事実の重さを、あらためて、噛みしめずにはいられなかった。
幸松の報告は、それだけに留まらなかった。
「ただ、それがしが、傍におるだけで、少しは、気が紛れるようで。昨日は、共に、貝殻を拾うて遊びました」
その一言に、わたしは、少し、救われる思いがした。数と策だけでは、決して埋められない隙間を、幸松は、いつも、自然な形で、埋めてくれる。
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数日後、義重から、通春方との交渉が、無事にまとまったとの報せが届いた。
「通春方は、鶴丸を、後ろ盾として、快く認めてくれた」
義重の使いが、そう伝えた。
義重の使いは、そう言葉を継いだ。
「教通方の孫を担ぐ動きに、はっきりとした対抗の旗を立てられることを、歓迎しておるとのことにて」
その報せに、わたしは、深く、長く、息を吐いた。次善の一手が、ようやく、確かな形を得た。
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弥九郎に、この報せを伝えると、しばらく、複雑な顔をしていた。
「これで、決まったのだな」
「はい。ですが、まだ、本家の御家中を、どこまで説得できるかは、これからにござります」
「教通方の孫を担ぐ動きは、既に、家中の一部で、確かな勢いを持っておる。それを、こちらの動きだけで、覆せるものか」
弥九郎の問いに、わたしは、しばらく、考えた。
「一気に覆すことは、難しゅうござりましょう。ですが、家中の中には、教通方の後ろ盾を、快く思わぬ者たちも、既におります。その者たちが、鶴丸様を担ぐ大義名分を得られれば、流れは、少しずつ、変わってまいりましょう」
「教通方も、黙ってはおるまい」
「はい。むしろ、これからが、正念場にござりましょう」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。
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館へ戻ると、綾のもとへ、この一件を伝えに行った。まだ、詳しいことは、伏せたままにしていたが、これ以上は、黙っておくわけにはいかなかった。
「鶴丸のことで、話があると」
綾は、機の手を止めて、そう言った。その声には、既に、何かを察しているような、静かな緊張があった。
「はい。鶴丸様に、本家の御家督を巡る争いで、大事な役目を担っていただくことになりました」
わたしは、そう切り出した。綾は、しばらく、黙って、こちらの話に耳を傾けていた。
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「大事な役目、とは」
「対抗の駒として、教通方の担ぐ孫に、対する立場を、担っていただくことになりまする」
その言葉に、綾の顔から、みるみる、血の気が引いていった。
「あの子は、まだ、八つにござります」
「承知しております。ですが、義重様が、しかと後見なさいます。鶴丸様御自身に、重い責を負わせることには、いたしませぬ」
「後見があっても、担ぎ出されること自体が、あの子の命を、危うくすることには、変わりござりませぬ」
綾の声には、これまで見たことのない、鋭い怒りが滲んでいた。
「危うくすることは、承知の上にござります。ですが、他に、道がござりませぬ。教通方の勢いを、このまま許せば、本家そのものが、教通方に乗っ取られましょう。それは、この島の行く末をも、大きく揺るがしましょう」
「島の行く末のために、弟の命を賭けよと、そう仰るのですか」
その問いに、わたしは、しばらく、答えられなかった。
「命を賭けさせるつもりは、ござりませぬ。ですが、危うさが、まったくないとも、申せませぬ」
「正直な物言いにござりますね」
綾は、そう言って、微かに、皮肉めいた笑みを浮かべた。だが、その目には、涙が滲んでいた。
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「千代殿は、いつも、そうして、正しい数を組まれます。ですが、その数の中に、鶴丸の心が、どれだけ入っておりましょうか」
その一言に、わたしは、深く、胸を突かれた。
「入れております。だからこそ、義重様に、しかと後見を頼み、鶴丸様御自身には、できる限り、重荷を負わせぬよう、算段しております」
「それでも、あの子は、大人たちの争いの中に、引きずり出されるのです」
綾の言葉に、わたしは、何も言い返せなかった。正しさでは、綾の悲しみを、覆すことはできなかった。
しばらくの沈黙のあと、綾は、静かに、涙を拭った。
「分かっており申す。他に、道がないことも。ですが、それでも、姉として、案じずにはおられませぬ」
「その御気持ち、当然のことにござります」
綾は、しばらく、黙っていた。それから、意を決したように、顔を上げた。
「一つ、お願いが」
綾は、そう続けた。
「鶴丸に、少しでも、支えを。あの子が、独りで、この重さに押しつぶされぬよう、誰か、傍に置いていただけませぬか」
その願いに、わたしは、深く頷いた。
「幸松を、傍につけとうござります。あの子もまた、この島で、幾度も、重荷を担う者の傍らに立ってまいりました」
綾は、それを聞いて、少し、安堵したような表情を見せた。
「幸松なら、きっと、鶴丸の力になってくれましょう」
鶴丸様を、対抗の駒として担ぎ出す。義重様、後見人となる。通春方、これを後ろ盾として認める。教通方との対立、これから本格化す。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。鶴丸の、あの素直な笑みを、もう一度、思い出した。この子が、これから歩む道は、決して、平坦なものではないだろう。その重さを、義重と共に、しっかりと支えていかねばならなかった。
綾の、あの涙の滲んだ目を、もう一度、思い出した。姉として、弟を案じる、あの当たり前の情を、これまで、自分は、正しく勘定に入れられていなかった。策としては、間違っていない。だが、綾の悲しみの深さを、事前に、正しく数えることは、できていなかった。
数だけでは、測れないものがある。その事実を、これまで、幾度も、綾や、幸松から、教えられてきたはずだった。それでも、また、同じ形で、その正しさの罠に、繰り返し、嵌まっていた。鶴丸の、あの屈託のない笑みと、綾の、涙の滲んだ目と、その両方を、頭の中に、同時に思い浮かべながら、わたしは、しばらく、灯を見つめ続けていた。
外では、五月の初夏の風が、穏やかに吹いていた。だが、その穏やかさとは裏腹に、これから始まる政の争いは、決して穏やかなものにはならないだろうと、わたしは、頭の中で、静かに、幾度も、覚悟を固め直していた。




