第三十二話 血の孫
応永三十三年(一四二六)四月 伊予国 忽那諸島
義重から、あらためて、重い報せが届いたのは、桜の花も、既に散りはじめた頃だった。あの又五郎の疑いのことを、まだ、誰にも明かせぬまま、日々は、静かに、しかし、確かな緊張を孕んだまま、過ぎていった。
館の暮らしは、表向きは、いつもと変わらなかった。綾の産んだ子は、日に日に、大きくなっていった。私設に育てている子らも、着実に、字と算えを身につけていた。だが、その平穏の裏で、本家を巡る政の局面は、刻一刻と、動きを見せはじめていた。
義重の使いが、館へ駆け込んできて、そう告げた。
「教通方が、動いた」
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「動いた、とは」
わたしは、そう訊ねた。
「本家の御正室の産んだ娘御が、既に、河野方のある武将に嫁いでおられることは、以前、申し上げた通り。その娘御の産んだ子、本家の当主様にとっては、実の孫にあたる御方を、教通方が、次の当主として、担ぎ出す動きに出たとの由」
その報せに、わたしは、頭の中で、これまで積み上げてきた懸念が、現実のものとなったことを、静かに確かめた。義重が案じていた、あの最悪の筋書きが、いま、目の前で、はっきりとした形を取りはじめていた。
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「本家の御家中の反応は」
「割れており申す。教通方の後ろ盾を歓迎する者もあれば、それに強く異を唱える者もおる様子」
わたしは、少し身を乗り出して、そう訊ねた。
「異を唱えておる者たちは、いかなる理由で」
「幼き当主を、教通方の傀儡として担ぎ出す魂胆が、あまりに見え透いておると。本家の名を、実質的に、教通方が乗っ取ることになると、案じておるようにて」
義重の使いは、そう答えた。その報告に、わたしは、少し安堵した。本家の御家中にも、まだ、正気を保つ者たちが、確かに残っている。だが、その声が、いつまで、教通方の勢いに抗い続けられるかは、まだ、分からなかった。
わたしは、頭の中で、素早く、算段を組み直した。まず、確かめておくべきことがあった。
「その孫御は、いくつにおなりか」
使いは、そう答えた。
「五つと聞いており申す」
その歳を聞いて、わたしは、頭の中で、思わず、綾の産んだ子の姿と、その見知らぬ五歳の孫の姿とを、重ね合わせた。どちらも、まだ、政の理も、恨みの重さも、何一つ知らぬ、無垢な子供のはずだった。それが、大人たちの都合で、対抗する駒として、あるいは、担ぎ出される駒として、扱われようとしている。その理不尽さを、わたしは、他ならぬ自分自身も、これから、同じように行おうとしていることに、あらためて気づかされた。
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弥九郎に、この報せを伝えると、しばらく、険しい顔で、黙り込んでいた。
「教通方の血が、本家に入り込むということか」
「はい。表向きは、二神本家の血を引く孫として、正統な継承にござります。ですが、その孫を担ぎ出したのが、教通方であるという事実は、動きませぬ」
弥九郎は、静かに、そう続けた。
「対抗できる血筋は」
その問いに、わたしは、しばらく、言葉を選んだ。この問いに答えることは、これまで独りで抱えてきた秘密を、初めて、弥九郎に明かすことを意味していた。その重みを、あらためて、頭の中で確かめた。
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「対抗できる血筋は」
わたしは、そう繰り返した。
「本来であれば、ござります」
「本来であれば、とは、どういうことだ」
わたしは、深く息を吸い、それから、ゆっくりと、口を開いた。
「綾様の産まれた御子にござります」
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弥九郎は、目を見開いた。
「あの子は、まだ、乳飲み子だぞ」
「はい。それゆえ、いま、この場で、対抗の駒として担ぎ出すことは、できませぬ」
「だが、正統な血筋ではあるのだろう」
「はい。綾様は、既に、本家の猶子にござります。それゆえ、綾様の御子は、血筋の上では、いずれ、二神本家を正式に継ぐ資格を、既に持っておりまする」
その言葉に、弥九郎は、しばらく、絶句していた。手にした盃を、そのまま、板間に置いた。その音が、静まり返った部屋に、やけに大きく響いた。
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「知らなんだぞ、そのような見立て」
弥九郎の声には、驚きと、いくらかの咎めの色が滲んでいた。
「申し訳ござりませぬ。まだ、しかるべき時ではないと、そう判じ、お伝えせずにおりました」
「いつから、そう見ておった」
「綾様が、本家の猶子となられたときから、既に、頭の隅で、数えており申した。まだ、綾様御自身にも、この見立てを、明かしておりませぬ」
弥九郎は、深く息を吐いた。
「お前は、また、独りで、そこまでのことを、決めておったのか」
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「申し訳ござりませぬ。ですが、この血筋は、いま、こうして、対抗の駒として使える正統な血筋がある、という事実そのものが、大きな意味を持ちましょう」
わたしは、そう続けた。
「ただし、いまは、まだ、その存在を、表に出すべきときではござりませぬ。あの子は、生まれて間もない乳飲み子にて。政の場に引きずり出せば、命そのものが、危うくなりましょう」
弥九郎は、しばらく、黙って、考え込んでいた。
「駒がおらぬわけではない。だが、いま、使える駒ではない、ということか」
わたしは、はっきりと、そう言い切った。
「まさしく、その通りにござります」
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「では、どうする」
弥九郎の問いに、わたしは、頭の中で、これまで組み立ててきた算段を、あらためて数え直した。
「次善の一手を、探さねばなりませぬ」
「次善の一手」
「対抗できる別の血筋、あるいは、別の正統性を持つ御方を、通春方の後ろ盾として、立てとうござります」
その言葉に、弥九郎は、少し考え込んだ。
「そのような御方が、いるのか」
「まだ、確たる当てはござりませぬ。ですが、探せば、見つかるやもしれませぬ」
わたしは、頭の中で、本家に連なる血筋を、一つ一つ、数え上げていった。義重様の家系。忽那の他の庶流。だが、いずれも、教通方が担ぎ出した五歳の孫ほどの、はっきりとした正統性を持たなかった。
「義重様の御家系にも、他に血筋はおられぬのか」
弥九郎が、そう続けた。
「義重様の御子には、綾様、又五郎様の他に、鶴丸様がおられます。ですが、まだ、八つの御子にて。いま、この場で、確かな駒として使えるかどうかは、いま少し、思案を重ねねばなりませぬ」
その一言に、弥九郎は、しばらく、考え込んでいた。又五郎への疑いのことを、頭の隅で、あらためて思い出しているのかもしれなかった。もし、又五郎が、本当に、本家暗殺に関与していたのであれば、義重の家系そのものが、これから、いっそう複雑な立場に立たされることになる。
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「綾には」
弥九郎が、ふと、そう訊ねた。
「まだ、伝えておりませぬ。あの子が、いずれ、本家を継ぐ血筋として扱われうることも、いまは、まだ」
「隠しごとが、多いな」
弥九郎の、その一言には、これまでにない、重みがあった。責める響きよりも、むしろ、静かな諦めのようなものが、その声には滲んでいた。
「お前が、そうして、独りで、先々のことを組み立てておくやり方は、これまで、幾度も、この島を救ってきた。それは、疑うておらぬ」
わたしは、深く頭を下げた。
「かたじけのう存じます」
「だが、俺自身に関わることまで、独りで決めてしまわれると、俺は、いったい、何のために、ここにおるのかと、時折、分からなくなる」
その一言に、わたしは、深く、胸を突かれた。とっさに、何も言い返せなかった。これまで、策を組むのはこちら、動くのは弥九郎、という分業を、当たり前のものとして、進めてきた。だが、その分業の裏で、弥九郎自身の胸の内に、こうした思いが、静かに積もっていたのだと、いま、初めて、思い知らされた。
「はい。ですが、それぞれに、しかるべき時が来るまでは、伏せておくべきことにござります」
弥九郎は、それ以上、深くは問わなかった。だが、その沈黙の中に、これまでとは違う、微かな距離のようなものを、わたしは、感じ取らずにはいられなかった。
「一つ、訊きたい」
弥九郎が、しばらくしてから、そう続けた。
「なぜ、その見立てのことを、俺に黙っておった。俺自身の子のことだぞ」
その問いに、わたしは、慎重に、言葉を選んだ。
「殿は、まだ生まれてもおらぬ子の先々のことを、いまから思い煩う質ではござりませぬ。それに、あまりに早く明かせば、かえって、余計な気を回されるやもしれぬと、そう判じました」
「余計な気、とは」
「本家を継がせるという先々の絵図を、殿御自身が、日々の判断の端々で、意識してしまわれることにござります。そうなれば、いまの、目の前の政の判断が、鈍りましょう」
弥九郎は、しばらく、黙っていた。それから、低く、こう言った。
「お前の理屈は、いつも、正しい。だが、正しいことと、それを黙っておられて平気なこととは、別だ」
その一言に、わたしは、返す言葉を、見つけられずにいた。
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その夜、綾のもとを訪ねた。赤子は、すやすやと眠っていた。
「本家のこと、また、動きがあったのですか」
綾が、そう訊ねた。その目には、鋭い勘の色が浮かんでいた。
「はい。まだ、詳しくは、申し上げられませぬが」
綾は、赤子をあやす手を止めずに、そう続けた。
「わたくしの子に、関わりのあることにござりますか」
その問いに、わたしは、一瞬、言葉に詰まった。綾の勘の鋭さは、いつも、こちらの想定を、わずかに超えてくる。今日は、いつにも増して、その鋭さが、はっきりと感じられた。
「……いずれ、お話しいたします」
わたしは、そう答えるのが、精一杯だった。
産所を辞し、廊下を歩いていると、幸松が、そっと、こちらへ近づいてきた。
「千代様、お顔の色が、優れませぬ」
「大事ござらぬ」
「殿とも、何か、あったのでは」
その問いに、わたしは、少し驚いた。幸松は、いつのまにか、こちらと弥九郎とのあいだの、微かな空気の変化にまで、気づくようになっていた。
「殿と、少し、行き違いがあっただけだ。案ずるな」
幸松は、それを聞いて、しばらく、考え込む顔をした。
「行き違いは、放っておくと、大きゅうなりまする。それがしが、流れてきた子らを見ておって、そう学びましてござる」
その言葉に、わたしは、少し虚を突かれた。子供らしからぬ、重みのある言葉だった。
「幸松の言うとおりかもしれぬ。だが、いまは、まだ、うまく言葉にできぬ」
「それでも、いつか、必ず、お話しになったほうがよろしいかと」
幸松は、そう言って、深く頭を下げ、その場を辞していった。その後ろ姿を見送りながら、わたしは、頭の中で、幸松の言葉を、もう一度、反芻していた。
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その夜遅く、独りになってから、帳を広げた。
教通方、本家の孫(五歳)を担ぎ出す動きに出る。対抗の正統な血筋は、綾様の御子。だが、乳飲み子ゆえ、いまは使えず。次善の一手を、探る必要あり。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。生まれたばかりの、綾の子が、いずれ、大きな政の駒になるかもしれないという事実を、いま、こうして、帳に書き記している自分に、わたしは、少し、薄ら寒いものを感じた。
駒にされた痛みを、自分は、誰よりもよく知っているはずだった。それなのに、いま、この手で共に育てていくはずの子を、同じように、駒として数えている。その事実から、目を逸らすことは、できなかった。
かつて、叔父・盛久に、政略の駒として、縁組に使われたときのことを、あらためて思い出した。あのときの、苦く、やり場のない思いを、自分は、いまも、はっきりと覚えている。それなのに、いま、綾の産んだ、この幼子を、同じ理屈で、頭の中の帳に、数として書き記している。
これは、駒にされた女が、駒を使う女になる、その最後の一段なのかもしれなかった。かつて自分がされたことを、今度は、自分より小さな、抗う術を持たない者に、繰り返している。その事実を、正しく数えながら、なぜか、その数を、これまでのように、すんなりとは、受け入れられずにいた。胸の奥に、鈍い痛みが、静かに、いつまでも、残った。
弥九郎の一言、お前の理屈は、いつも、正しい、だが、正しいことと、それを黙っておられて平気なこととは、別だという、あの言葉も、いつまでも、耳の奥に残っていた。正しさだけでは、足りないものがある。その事実を、これまで、幾度も、綾や、幸松から、教えられてきたはずだった。それなのに、また、同じ形で、その正しさの罠に、嵌まっていた。
外では、四月の夜風が、まだ、いくらか冷たく吹いていた。桜の花びらが、闇の中を、静かに、音もなく舞っているのが、微かに見えた。




