第三十一話 又五郎の影
応永三十三年(一四二六)三月 伊予国 怒和島 下怒和
本家の凶事から、早いもので、ひと月ほどが過ぎた。
その間、こちらは、表立った動きを見せず、じっと様子を窺っていた。だが、水面下では、伊佐次や、私設に育てはじめた子らを使い、本家の周辺の噂を、絶えず拾い集めさせていた。
その間、六島も、因島も、これまでどおり、平穏に治まっていた。表向きは、何も変わらぬ日々が続いていたが、頭の中では、常に、本家の一件が、重石のように居座っていた。
その日、伊佐次が、少し、いつもと違う顔つきで、報せを持ってきた。私設に育てている子らの一人、あの人目を忍ぶ勘の鋭い子を、本家周辺に潜ませておいたのだという。その子が拾ってきた噂を、伊佐次が、あらためて、こちらに伝えに来た形だった。
「奇妙な噂を、耳にいたしました」
---
「奇妙な噂、とは」
わたしは、そう訊ねた。
伊佐次は、声を落として、そう続けた。
「本家の御館の女中の一人が、あの夜、見慣れぬ影を見たと申しておるようで」
わたしは、思わず、繰り返した。
「見慣れぬ影」
「はい。御館の裏手、当主様のお部屋に近い庭先で、深夜、人影が動くのを見たと。ただ、暗くて、顔までは、はっきりとは見えなんだと」
その報せに、わたしは、頭の中で、静かに、慎重に、数を組みはじめた。逸る心を、まず、抑えねばならなかった。
---
「その影について、他に、何か分かっておることは」
伊佐次は、手元の紙を確かめながら、言葉を続けた。
「体つきから、まだ若い男であったろうと、女中は申しております。それと」
伊佐次は、少し言葉を選びながら、続けた。
「島の言葉に、いくらか似た訛りがあったとも」
その一言に、わたしは、しばらく、黙り込んだ。伊予の在地の訛り。それだけでは、まだ、何も断じられなかった。それでも、頭の隅で、ある一つの可能性が、静かに、しかし、はっきりとした形を取りはじめていた。胸の奥が、ざわりと、嫌な音を立てた。
---
「又五郎様のことを、疑うておられるのですか」
伊佐次が、こちらの表情を窺うように、そう訊ねた。わたしは、すぐには答えなかった。
又五郎。綾の実の兄。義重の跡取りでありながら、妹が政略の道具にされたことへの恨みを、ずっと抱え続けてきた男。二年前、義重と決裂し、上怒和の親類の家へ出奔した。その後、一度は和解し、館へ戻ったが、その和解は、あくまで「表向きの折れ」に過ぎなかった。
「まだ、断じるには早い」
わたしは、そう答えた。
「ですが、頭の隅には、しかと留めておく」
伊佐次は、それを聞いて、少し安堵した顔をした。
「それがしも、迷いましてござる。この噂、殿にお伝えすべきか、それとも、確たる証を得てからにすべきか」
「知り得たことは、たとえ不確かでも、まずは、包み隠さず伝えるがよい。判じるのは、こちらの役目だ」
伊佐次は、深く頷いた。その律儀さに、わたしは、いつも助けられていた。
---
弥九郎に、この報せを伝えると、しばらく、難しい顔をしていた。
「又五郎が、本家の当主を、討ったというのか」
「まだ、確たる証はござりませぬ。ですが、可能性として、考えておくべきかと」
「理由は」
わたしは、目を閉じ、頭の中で、これまでの又五郎の言動を、あらためて、一つずつ、丁寧に数え直した。
---
「又五郎様の恨みは、二重にござります」
わたしは、そう続けた。
「一つは、弥九郎様、そしてわたくしへの恨み。妹を政略の道具にされ、この島の何もかもを、少しずつ持っていかれたという恨み。もう一つは」
「もう一つは」
「それを許し、受け入れた、二神本家そのものへの恨みにござります。猶子の縁組を承知し、婿に姓まで渡した本家に対して、又五郎様は、本家もまた、家の面目を売ったと、見ておられるやもしれませぬ」
弥九郎は、しばらく、黙って、聞いていた。
---
「もし、それが真であれば」
わたしは、続けた。
「又五郎様は、教通方に与して、本家の当主とその嫡男を、討ったということになりましょう。単なる私怨ではなく、御自分なりの、筋の通った選択として」
弥九郎は、しばらく、腕を組んだまま、こちらを見据えていた。その目には、これまで見たことのない、複雑な色があった。かつての義弟を、敵として見なさねばならないかもしれないという事実に、この男もまた、静かに苦しんでいるのだろう。
「筋が通っておる、と、お前は言うのか」
弥九郎の声に、微かな怒りの色が滲んだ。
「筋が通っておる、と申したのではござりませぬ。又五郎様御自身の中では、そう見えておるやもしれぬ、と申したのみにて」
---
弥九郎は、しばらく、考え込んでいた。
「証は、まだ、何もないのだな」
「はい。女中の見た影という、頼りない手掛かりのみにて」
「軽々しく、口にすべきことではないな」
「はい。もし、これが誤りであれば、又五郎様と、義重様との間柄を、取り返しのつかぬほど、傷つけることになりましょう」
その言葉に、弥九郎は、深く頷いた。窓の外を、しばらく、じっと見つめていた。かつて、共に船を降り立ったこの島で、又五郎とも、幾度か、言葉を交わしたことがあった。その記憶を、いま、あらためて、辿り直しているのかもしれなかった。
---
「だが、頭には、留めておく」
わたしは、はっきりと、そう言い切った。
「はい。留めておくだけにて。表には、決して出しませぬ」
そう答えながら、わたしは、綾のことを思わずにはいられなかった。もし、これが真実であれば、綾は、実の兄が、本家の当主を討った下手人だという事実を、いずれ、知ることになるかもしれない。その日が来たとき、綾は、どれほどの衝撃を受けるのだろうか。
その考えに、わたしは、しばらく、胸が重くなった。策を組むことには慣れていても、こうして、誰かの心の傷を、あらかじめ見通し、それでも動かねばならないという重さには、いまだに、うまく慣れることができずにいた。
---
その日の夕方、綾の部屋を、あらためて訪ねた。
赤子は、すやすやと眠っていた。綾は、その傍らで、機を織っていた。
「又五郎様は、近ごろ、いかがお過ごしにござりますか」
わたしは、さりげなく、そう訊ねてみた。
「兄上にござりますか。近ごろは、あまり、お顔を見せられませぬ。上怒和のほうで、何やら、忙しくしておられるとか」
綾の答えに、わたしは、頭の中で、静かに、丁寧に、その情報を書き加えた。何を忙しくしているのか。その中身までは、綾も、詳しくは知らないようだった。
---
「兄上に、何か」
綾が、ふと、そう訊ねた。その目には、微かな不安の色が浮かんでいた。
「いえ、特には。ただ、少し、お顔を、しばらく見ておらぬと思うたまでにて」
わたしは、そう答えた。正直に打ち明けることは、できなかった。まだ、何一つ、確かなことはなかった。憶測だけで、綾の心を、いたずらに乱すわけにはいかなかった。
綾は、それ以上、深くは問わず、また、機に向き直った。だが、その横顔には、何か、拭いきれない翳りが、微かに残っているように見えた。
その翳りを、わたしは、赤子の夜泣きが続いての疲れだろうと、そのとき、そう判じた。実際には、綾は、こちらの不自然な問いかけに、既に、何かを感じ取っていたのかもしれなかった。兄のことを、ことさら気にかける様子を見せれば、それだけで、勘の良い者には、裏があると悟られてしまう。その迂闊さに、わたしは、そのときは、まるで気づいていなかった。
部屋を辞するとき、綾が、ふと、こう言った。
「兄上のことで、何か、隠しておられることが、ござりますか」
綾の、静かな、それでいて鋭い一言に、わたしは、思わず、足を止めた。
わたしは、思わず、目を伏せた。
「そのようなことは」
「よろしいのです。いずれ、お話しくださる日を、待っております」
綾は、そう言って、いつもと変わらぬ、静かな微笑みを浮かべた。その微笑みの奥にあるものを、わたしは、まだ、正しく読み取れずにいた。
---
館へ戻る道すがら、幸松が、井戸端で、亀吉たちと、何か話し込んでいるのが見えた。
「何を話しておった」
わたしが、そう訊ねると、幸松は、少し言い淀んだ。
「いえ、その……上怒和のほうで、又五郎様が、見慣れぬ者たちと、幾度か会うておられるのを見た、という話にて」
その一言に、わたしは、思わず、幸松の顔を見た。
「見慣れぬ者たち、とは」
「詳しくは、分かりませぬ。ただ、島の者ではないと、亀吉が申しており申した」
その報せに、わたしは、頭の中で、素早く、伊佐次の報告と、この話とを、重ね合わせた。断片的な噂が、少しずつ、一つの絵図へと、繋がりはじめているような気がした。
「よう報せてくれた。このことは、他言せぬように」
幸松は、深く頷いた。その目には、まだ幼さの残る顔に似合わぬ、確かな責任の色が浮かんでいた。
---
館へ戻る道すがら、わたしは、頭の中で、これから取るべき手立てを、あらためて考えた。
まずは、確証を得ること。伊佐次や、私設の子らを使い、さらに詳しく、本家周辺、そして上怒和の又五郎の周辺の噂を探らせる必要があった。もし、又五郎の関与が確かなものとなれば、こちらの動き方も、大きく変わってくる。
その一方で、まだ何も確かでない段階で、綾に、この疑いを打ち明けることは、あまりにも酷だった。しばらくは、独りで、この重さを、抱えていくしかなかった。
弥九郎にも、幸松から聞いた、見慣れぬ者たちの話を、あらためて伝えた。
「見慣れぬ者たち、か。教通方の遣いであろうか」
「その公算は、高うござりましょう。又五郎様が、教通方と、既に、何らかの繋がりを持っておられるとすれば、これまでのすべての辻褄が合いまする」
弥九郎は、しばらく、腕を組んで、黙っていた。
「もし、それが真であれば、又五郎は、もはや、こちらの身内とは呼べぬ立場になる」
「はい。ですが、いまはまだ、確たる証がござりませぬ。誤って断じれば、義重様と又五郎様の間柄を、修復不能なまでに、こじらせることになりましょう」
「お前の言うとおりだ。慎重に進めねばならぬ」
その遣り取りに、わたしは、深く頷いた。焦って動けば、取り返しのつかない事態を招きかねない。だが、悠長に構えていれば、次の一手を、教通方に、先に打たれてしまうかもしれない。その狭間で、こちらは、ぎりぎりの判断を、迫られていた。
---
灯を消す前に、帳を広げた。
本家の凶事、又五郎様の関与、疑いあり。まだ確証なし。伊佐次に、さらなる探索を命ず。綾様には、いまはまだ、伝えず。
書き終えて、しばらく、その一行を見つめた。もし、この疑いが真実であれば、この島の行く末は、これから、さらに複雑な道を辿ることになるだろう。又五郎という一人の男が抱えてきた恨みが、二神本家の運命そのものを、大きく揺るがそうとしていた。
又五郎という一人の男の来し方を、わたしは、あらためて、頭の中で辿り直した。義重の跡取りとして生まれ、いずれは、この島を継ぐはずだった男。それが、余所者の一党によって、少しずつ、島の実権を奪われていくのを、ただ、見ているしかなかった。妹までも、政略のために、本家の猶子として差し出された。その痛みを、又五郎は、これまで、誰にも、正しく分かってもらえないまま、独りで抱え続けてきたのだろう。
その痛みの正体を、こちらは、これまで、正しく数えられていなかったのかもしれない。得でも、戦好きでもない、又五郎という男の心の内には、島の行く末を巡る、もっと根深い、名づけようのない感情が、渦巻いていたのだろう。その感情の行き着く先が、もし、本当に、本家への刃であったとすれば、それは、こちらの積み重ねてきた策の、避けられない代償だったのかもしれなかった。
弥九郎が、隣の部屋で、生まれたばかりの我が子を、あやしている声が、微かに聞こえてきた。その声を聞きながら、わたしは、綾のことを、もう一度、思わずにはいられなかった。もし、又五郎の関与が確かなものとなれば、綾は、実の兄を、二神本家への裏切り者として、見なければならなくなる。その日が来たとき、綾の心に、どれほどの傷が残るのか。数えようとしても、その痛みの深さは、いつまでも、答えの出ない勘定のままだった。灯を消す前に、もう一度、その勘定を、頭の中で組み直そうとしたが、どうしても、うまく組み上がらなかった。
外では、三月の夜風が、まだ、いくらか冷たく吹いていた。春の気配は、少しずつ近づいていたが、心の内は、まだ、冬のままだった。




