第4章-4 文字の灯火と、森の記憶4
雨を含んでぬかるんだ土に足をとられ、何度も泥水の中に転びそうになった。
着せられていた上等な紺色のワンピースは、もはや元の色がわからないほど泥と破れで酷い有様になっていた。
裸足の裏は小石や木の根で切れ、踏み込むたびに焼けるような痛みが走る。
痛い。寒い。苦しい。
あんなに温かい場所から、どうして一人で飛び出してきてしまったのだろう。
そんな微かな後悔が頭をよぎるけれど、足を止めることなんてできなかった。
立ち止まれば、あの静かで気配のない「死」が、足音もなく背後に立っているような気がして。
「はぁっ……はっ……」
太い古木の根に足を取られ、私はついに前のめりに泥の中へ倒れ込んだ。
起き上がろうと泥だらけの手を突いた瞬間、ピシャーン、と再び雷が鳴り響いて、青白い一瞬の閃光が、森の暗闇を鮮明に浮かび上がらせる。
さっきから、視界の隅でチラチラと揺れていた「暗い青色の光」。
お願いだから気のせいであってほしい。ただの不吉な見間違いであってほしい。
そう必死に祈ったのに、現実は残酷だった。
前方にある何本もの木々の影から、どろりとした真っ黒な姿をした何かが、一斉にこちらへ這い出してきたのだ。
「……え」
泥だらけの顔を上げた私の耳に、風の音に混じって、低く濁った唸り声が届いた。
『グルルル……』
『ルルルル……』
一つじゃない。
三つ、四つ、五つ。
暗い夜の森だというのに、私のこの気味の悪い目には、生き物の気配が放つ暗い青色の光が、はっきりと輪郭を持って見えていた。
暗闇の中で、不気味に濁った黄色の眼がいくつも並んで光っている。
それは、獣の形をしていた。
巨大な狼のようだけれど、毛皮はない。
まるで黒い泥やタールを無理やり固めて形を作ったような、異質で恐ろしい姿だった。
腐った泥と、生臭い血が混ざったような強烈な悪臭が、雨の匂いを上書きして私の鼻を突く。
魔物だ。
村の大人たちが恐れていた、森に潜む本物の死の象徴。
黒い狼の形をした魔物たちは、半ば開いた顎から紫色の気味の悪い粘液をボタボタと滴らせながら、ゆっくりと私の周りに這い広がっていく。
逃げ道を探そうにも、私というちっぽけな獲物を値踏みするいくつもの視線に縫い留められ、足は一歩も動かすことができなかった。
せっかく逃げ出したのに、魔物の群れに襲われるなんて……。
私の目が、こうやって次から次へと不幸を呼んでしまうの?
『グルゥゥ……!』
魔物の一体が、泥を蹴り立ててじりじりと距離を詰めてくる。
逃げなきゃ。
頭では分かっているのに、恐怖で腰が抜け、泥に沈んだ足はピクリとも動かなかった。
助けて。
誰か助けて。
声にならない悲鳴が喉の奥で引き攣る。
でも、こんな嵐の夜の森の奥に、私を助けに来てくれる人なんて誰もいるはずがない。
つい、ムコール様とニクスの顔を頭に思い浮かべた。
私に優しくしてくれたあの人たちを、私はたった今、自分から裏切って逃げてきてしまったのに……図々しい自分に嫌気が差す。
魔物の足が一歩、また一歩とこちらへ近付いてくる。
ああ、やっぱり私は、ここで死ぬ運命だったんだ。
館で用済みになって壊されるか、こうして森の魔物に食い殺されて死んでしまうかの違いしかなかった。
私のささやかな希望なんて、最初からどこにもなかったんだ。
最も大きく醜い狼の魔物が、太い後ろ足に力を込め、私の喉元を食い破ろうと大きく跳躍した。
迫り来る紫色の粘液と、腐臭を放つ巨大な顎。
私は絶望に飲まれ、強く両目を閉じた。
――ドォォォォンッ!!
激しい衝突音と、耳をつんざくような魔物の断末魔が轟いた。
全身を切り裂かれるような痛みは、いつまで経っても来なかった。
代わりに、私の顔に生温かく臭い、紫色の体液がバシャリと降り注いだ。
「……え?」
目を閉じたまま顔を上げると、大きな紫の光の輪郭が見えた。
恐る恐る目を開けると、私の視界を大きな黒い獣の後ろ姿が塞いでいた。
私の目の前で、さっきまで私に飛びかかろうとしていたあの巨大な黒い狼の魔物が、真っ二つに引き裂かれ、泥の中に無残に転がっている。
そして……私と、魔物の群れとの間に割り込むようにして、その獣が立ち塞がっていた。
細長い顔つきに、コウモリのように大きく尖った耳。
しなやかな黒い体躯と、鋭く長い爪を持つ前脚。
その巨大な獣の輪郭には、深い紫の光が重なって見えていた。
張り詰めていた恐怖の糸がふっと切れ、泥の中にへたり込みそうになるほどの安堵が胸に広がる。
助かったんだ。私、生きてる……。
けれど、目の前に立つその異形の背中を見つめていると、安堵と同じくらい強い混乱が頭の中を渦巻き始めた。
魔物を一撃で引き裂くような、近寄りがたいほどの暴力を纏っているのに、その深い紫の光は、どこかひどく懐かしい。
家から放り出され、一人寂しく泣いていた私に、ただそっと寄り添ってくれたあの優しい黒い獣。
いつの間にかいなくなってしまって、どこかで死んでしまったのだとずっと悲しかった……私の唯一の救い。
目の前にいるのは、あの時の獣なのだろうか。
それに、この温かい気配は、最近どこかで感じたような覚えがある。
思考がまとまらない私の目の前で、巨大な獣は、残された四体の黒い魔物に向かって、大地を震わせるような恐ろしい咆哮を上げた。
『ガァアアアアアアッ!!!』
その一声で、あれほど私を追い詰めていた魔物たちが、明確な「恐怖」を感じたように一歩後ずさる。
しかし、獣は逃げる隙さえ与えなかった。
凄まじい速度で泥を蹴り、一瞬で魔物の群れに飛び込む。
ひしゃげる音や、引き裂かれる音。
紫色の体液が、雨粒を弾き飛ばすほどの勢いで激しく飛び散る。
それは一方的で、圧倒的な虐殺だった。
人間など軽々と食い殺すはずの魔物たちが、まるで脆い枯れ枝のように、その獣の爪と牙の前に為す術もなく解体されていく。
瞬きを数度する間に、五体いた黒い魔物はすべて、泥のような不気味な肉塊へと成り果てていた。
あんなに恐ろしかった魔物の唸り声は消え失せ、森には再び荒れ狂う雨風の音だけが戻ってくる。
その冷たい雨音の中で、深い紫の光を纏った獣が、ゆっくりとこちらを振り返った。
夜空に浮かぶ紫の目。
その奥で金色がきらめき、泥だらけの私を静かに見下ろしている。
恐ろしいはずなのに、どうしてだろう。
その瞳に見つめられているだけで、詰まっていた息がゆっくりほどけていくような、不思議な安心感があった。
ずっと会いたかった。
私を一人にしないで。
すがりつくような安堵と共に、私はその美しく温かい光に魅入られたように、ぎこちなく手を伸ばしかけた。
けれど、私の指先が触れるより早く、黒い獣の輪郭が陽炎のように揺らいだ。
急速に人間の姿へと縮んでいく中でも、その人を包み込む紫の光の輪郭は、変わらずにそこにあった。
泥の中に現れたのは、雨に濡れて黒髪を顔に張り付かせた、一人の長身の青年だった。
「……大丈夫か? どこか、ケガは無いか?」
低く、少し掠れた声。
心配でたまらないような、ひどく焦ったその声は……。
「ニク……ス……?」
人懐っこくて優しいけれど……本性はきっと狂暴だと、私が思っていた人。
ニクスが、あの巨大な獣だったの?
私を助けてくれたあの優しい獣が、歴代の先生たちを惨殺した恐ろしい化け物だったなんて。
じゃあ、あの優しさは何だったの? 彼は私を助けに来てくれたの? それとも、ここで私を壊すために?
混乱と、助かったという限界を超えた安堵、そして新たな恐怖がごちゃ混ぜになり、私の頭は真っ白になって、それ以上のことが考えられなくなった。
ニクスが泥の中を歩いて、私に手を伸ばそうとするのが見えた。
私は彼の手を取ることも逃げ出すこともできず、そのまま泥土の中に意識を手放した。
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