第4章-3 文字の灯火と、森の記憶3
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「前任の『先生たち』は……どうなったのですか?」
ムコール様は、まるで片付け忘れていたガラクタの話でもするかのように、穏やかな表情のまま答えた。
「ああ、あれを見つけてしまったのかい。前任の子たちは……土の中へ還ったり、遠くへ行ったり色々かな。人の仔の命は短いからね」
「それじゃあ……」
「彼らの役目は終わったからね。でも、私の中にいる子もいれば、遠くに行ってしまった子もいるよ」
その紛れもない言葉に、私の足から完全に力が抜け落ちた。
――土の中に還った。私の中にいる子もいる。
それはつまり、この館へ連れてこられた『先生たち』は皆、ニクスの隠された狂暴さの前に為す術も無く命を落とし、家を囲む森のどこかに埋められたか――あるいは、ムコール様の……あの大きなキノコに食べられてしまったということだ。
今は優しくされているとしても……なにか大きな失敗をしたら、私もニクスに壊されてしまうか、『先生』としての役目が終わればムコール様に食べられてしまうにちがいない。
「……さあ、君も無理をしないで。今日はもう、これで終わりにしよう」
ムコール様が優しく私の背中を撫でてくれるけれど、その温もりすらも、やがて解体される家畜を労わるような恐ろしいものに感じられた。
「……はい」
私は絶望で真っ暗になった視界のまま、ただそう絞り出すのがやっとだった。
一階の図書室から二階の自室へ戻るまでの間、館の中は死んだように静まり返っていた。
ニクスは先に図書室を出て行ったけれど、見上げるほど背が高いのに、足音ひとつ立てずに人の背後に立てる彼のことだ。
本当はどこかの暗がりに潜んで、私が通りかかるのを待ち伏せしているのではないか。
そんな見えない視線への恐怖に急き立てられるようにして自室に逃げ込むと、私は扉を固く閉めた。
内側から鍵を掛けようとしたけれど、この部屋には外からしか鍵を掛ける仕組みがないみたいだった。
私は絶望的な気持ちのまま、諦めてベッドの隅にうずくまった。
毛布を頭から被っても、体の震えは一向に治まらない。
目を閉じれば、木箱の中に無造作に放り込まれていた、恐ろしくひしゃげた胸当てとへし折られた剣が脳裏に浮かぶ。
シルヴァンという名の前任者が書き残した、あの血に染まった手記。
そして、『彼らの役目は終わった』と穏やかに告げたムコール様の言葉。
――なにか大きな失敗をしたら、私もニクスに壊される。
――『先生』としての役目が終われば、ムコール様に食べられてしまう。
その恐怖が、私の心を黒く塗り潰していく。
……そのときは、いつ来るのだろうかという嫌な予感がずっと体にまとわりついている。
この館の人たちは、ひどく気配が薄い。
大柄なニクスでさえ、足音ひとつ立てずに背後に立つことができるのだ。
今夜、私がベッドで目を閉じた暗闇の中で、不意に襲われるかもしれない。
あるいは明日、私が「文字なんて覚えられない」と匙を投げた瞬間に……。
ニクスは、あの人懐っこい無邪気な笑顔のまま、躊躇いなく私の腕をへし折りに来るのかもしれない。
ムコール様は、あの大きな触手で私を絞め殺してそのまま足下に埋めてしまうのかもしれない。
そんな死の予感が、冷たい真綿のように私の首をじわじわと締め付けていく。
ピシャーンッ!
突然、耳の奥が震えるような雷鳴が轟き、私はビクッと肩を跳ねさせた。
恐る恐る毛布から顔を出し、窓の外を見る。
いつの間にか空は真っ暗な雨雲に覆われ、太い雨の矢がガラス窓に激しく打ち付けていた。
風が唸りを上げ、森の木々が恐ろしげに身を捩らせている。
ひどい嵐……。
村にいた頃、嵐の夜に外へ出た家畜が、迷って水が増えた川に落ちたり、飢えた魔物に襲われたなんて話をたくさん聞いた。
ただでさえ危険な夜の森は、嵐ともなればさらに恐ろしい場所に変わってしまうのだ。
けれど、このままここにいれば……。
優しい場所だと思った。
温かい場所だとも思った。
でも、そんな場所が、いつ壊れてもおかしくない危険な場所でもあると、私は知ってしまった。
お父さんやお母さんに打たれることには慣れていた。
貴族様に買われて、皮を剥がれて飾りにされる覚悟だってしていたはずだった。
それなのに……あのひしゃげた鎧や、血に染まった手記が、私の頭から離れてくれない。
いつ機嫌を損ねて壊されるかわからない。
いつ、ムコール様の『中』に入れられるのかもわからない。
殴られないし、怒鳴られないけれど、だからこそ何をしたらあの人たちが怒るのかわからなくて怖い。
そんな見えない死への緊張感と恐怖に、私の心はもう耐えられそうになかった。
逃げなきゃ。
その思いが、張り裂けそうな恐怖の中で、唯一の熱を持って私を突き動かした。
持って行くものなんて何もない。
私はなんとか立ち上がると、そっと部屋の扉を開けた。
廊下は、色硝子に閉じ込められた光蟲が夕焼けのような光を明滅させているだけで、死んだように静まり返っていた。
激しい嵐の音が、館の全ての気配を掻き消してくれている。
見つかれば終わりだ。
私は息を殺し、壁伝いに廊下を進む。
図書室には近づかないように、一階のホールへと続く階段を静かな足取りで下りた。
玄関の分厚い扉に手をかける。
冷たい金属の取っ手を両手で握りしめ、音を立てないようにゆっくりと引いた。
ゴォォォォォッ!
僅かに開いた隙間から、狂ったような風と雨粒が吹き込み、私の顔を激しく打った。
外は、自分の足元すら見えないほどの暗闇と荒れ狂う雨風だった。
足を踏み出せば、二度とこの温かくて恐ろしい場所には戻れない。
振り返りそうになる心を、必死に押し留めた。
美味しい食事も、柔らかなベッドも、いびつな文字で私を慰めてくれた優しさも……何もかもが、私にはもったいないほど幸せだった。
それでも、やっぱり怖い。
私が逃げたと知ったら、ニクスやムコール様はどう思うだろう。
恩知らずだと怒って、私を殺すために嵐の森まで追ってくるのだろうか。
それとも、私がいないことを知って心配をしてくれたりするのだろうか。
それだとしても、もう、私はあの人たちのことを裏切ってしまった。
あの人たちはきっと、大人しくて従順な『先生』を求めていたのだ……そう自分に言い聞かせる。
逃げ出した私なんて、きっと食べたり壊しても構わない、用済みの存在になってしまっているのだと思う。
……行くしかない。
ここはオーベル村から遠いと、ムコール様は言っていた。
誰も私のことを『厄介者』と知らない、遠い別の村まで逃げ切れたなら……。
それに、もしかしたら、私の目は不吉なんかじゃないかもしれない。
もしかしたら、色々なことをやり直せるかもしれないから。
「……っ!」
私は覚悟を決め、扉の隙間から体を滑り込ませた。
あてがわれた柔らかな室内靴も履かず飛び出したせいで、冷たい泥土に素足が沈み込む。
容赦なく叩きつける雨が、あっという間に私の体温を奪っていく。
それでも私は、館の明かりが見えなくなるまで、一度も振り返ることなく、嵐の吹き荒れる真っ暗な森の奥へと駆け出した。
息が切れる。
冷たい空気を吸い込みすぎて、喉の奥がヒューヒューと痛みを訴えている。
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