第4章-2 文字の灯火と、森の記憶2
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ニクスは慌てたように椅子から立ち上がり、私に向かって長い腕を伸ばした。
叩かれる。
そう思ってヒッと喉の奥で悲鳴を漏らし、私は身を竦ませて強く目を閉じた。
しかし、予想した痛みはいつまで経っても降ってこなかった。
おそるおそる薄目を開けると、ニクスが不思議そうな顔で私の様子を窺っていた。
「……目にゴミでも入ったか? 大丈夫か?」
私が目を開けたのを確かめると、彼は私がこれ以上怯えないようにするかのように、ゆっくりとした手つきで私の手から尖筆をそっと抜き取った。
「俺だって最初は、文字なんて全部ミミズの干からびた跡だと思ってた。だから、そんなに力みすぎなくていい」
ニクスはそう言いながら、手元の書字板の蝋に、いびつで不格好な文字をガリガリと力任せに刻み込んだ。
「ほら。これなんて、どう見ても潰れた虫だろ?」
彼が指差したその文字のおかしさに、私は張り詰めていた息をふっと吐き出した。
身を乗り出してきたニクスからは、木々の青々とした爽やかな香りや、ポカポカとした陽だまりのような匂いがかすかに漂ってくる。
その温かい気配に包まれると、氷のように強張っていた身体の奥が、不思議と少しだけほどけていくようだった。
この人は少し言葉を知らないだけで、本当は少し言葉が足りないだけで、優しい人なのかもしれない。
私が微かに安堵の息を漏らしたのを見て、ムコール様は紫色の美しい目を細めてクスリと笑った。
「ふふ、ニクスの言う通りだよ。焦ることはない。……そうだ、この図書室の奥の棚に、文字が読めなくても絵だけで楽しめる美しい植物図鑑があるはずだ。ティリア、少し息抜きに自分で探しておいで」
私はこくりと頷き、椅子から立ち上がった。
天井まで届く本棚が迷路のように入り組んだ図書室の奥は、窓の光が届かず、少し薄暗い。
埃の匂いが微かに漂う中、私はムコール様に言われた植物図鑑を探して、木組みの棚の間をゆっくりと歩いた。
やがて、部屋の一番奥……分厚い造りの壁際に置かれた棚の最下段に、古びた木箱が置かれているのを見つけた。
もしかして、この中に図鑑があるのだろうか。
私は木箱の蓋にそっと手を掛け、持ち上げた。
しかし、そこに入っていたのは美しい植物図鑑などではなかった。
「……これ、は……」
私は息を呑んだ。
木箱の中に無造作に放り込まれていたのは、異常な力でねじ曲げられた金属の胸当てと、刃の半ばから無残にへし折られた分厚い剣だった。
そしてその下には、赤黒い不気味なシミがべっとりと付着した、古びた革表紙の手記が埋もれていた。
胸当てには、まるで巨大な獣の牙で食い破られたような、恐ろしい大穴が開いている。
農具とは比べ物にならないほど頑丈なはずの鉄の剣が、飴細工のようにへし折られている。
こんなことができる生き物は、人間ではない。
得体の知れない恐怖が足元から這い上がってきた、その時だった。
「……なんだ、そんなところにあったのか」
耳元で声がして、私は悲鳴を上げそうになった。
振り返ると、いつの間にか私の真後ろにニクスが立っていた。
あの陽だまりのような匂いをさせた大きな体が、すぐそこにある。
足音なんて、ひとつも聞こえなかった。
絨毯が敷かれているとはいっても、大柄な彼が、ここまで近付いて来たのになんの気配もないなんて……。
「ニク、ス……これは……」
私が冷え切った指で木箱の中を指し示すと、ニクスは「ああ」とつまらなそうに鼻を鳴らし、木箱の中からあの赤黒いシミのついた手記を拾い上げた。
「前の奴……シルヴァンが残していったやつだ。ええと……」
ニクスは、まるでそこら辺になっている木苺でも摘むみたいに、とても平然とした態度でその手記のページをめくり、書かれている文字をすらすらと読み上げ始めた。
「『アイツには人間の心がない。昨日は、腕の骨をへし折られかけた』」
……え。
「『この館にいるのは、恐ろしい化け物だ。気を抜けば、いつか殺されるかもしれない』……だってさ」
ニクスは手記をパタンと閉じると、呆れたようにため息をついた。
「痛い思いをさせたのは悪かったが、こんなことを書いていたなんてな。おかげで人の仔はどうしたら壊れるのかは学べたが」
ニクスは、あの人懐っこい笑顔のまま、そんな恐ろしいことを平然と言ってのけた。
頭の芯が、真っ白に凍りついた。
――アイツには人間の心がない。腕をへし折られた。恐ろしい化け物。
文字が読めない私に代わって彼が読み上げたその言葉たちは、間違いなく、かつてこの館で彼に『先生』として宛てがわれた前任者の、断末魔のような記録だ。
それを、彼は少しも悪びれることなく、まるで他愛のない笑い話のように読み上げたのだ。
この人は、人間の作法を身につけ、穏やかに笑っているけれど……本当は、恐ろしく狂暴な本性を隠しているだけなのかもしれない。
木箱の中のひしゃげた武具と赤黒い血のシミが、そんな最悪の想像を掻き立てる。
不意に、理不尽に私を殴りつけたお父さんの怒声や、機嫌を損ねるたびに銀色の髪を力任せに引っ張って叩いてきたお母さんの顔が、頭の中に鮮明に蘇った。
ヒュッ、と喉が鳴り、急に息の吸い方がわからなくなる。
私は、さっきまで陽だまりのように感じていた彼の匂いが、血に飢えた恐ろしい獣臭に思えて、血の気が引く思いでその場に蹲った。
「おい、どうしたんだよ。急に顔色が悪く……」
ニクスが心配そうに覗き込み、私に向かって大きな手を伸ばしてきた。
「ひっ……触らないで!」
その手が私の肩に触れる直前、私は恐慌状態のまま彼の腕を乱暴に振り払い、弾かれたように立ち上がった。
足がもつれそうになるのを必死に堪えながら、本棚の迷路を抜け、開け放たれたままの重い扉を目指して無我夢中で駆け出す。
「あっ、おい!」
背後でニクスの戸惑うような声が聞こえたけれど、振り返る余裕などなかった。
扉の外へ逃げ出そうとした私の体は、しかし、図書室の入り口で誰かの腕にふわりと優しく抱き留められた。
ムコール様だった。
ニクスよりもずっと細い体だけれど、私が力を込めてもなんとも思っていないようで、逃げ出すことは叶わなかった。
「……また君はティリアを怖がらせたのかい、ニクス」
ムコール様は私を抱き留めたまま、部屋の奥から追いかけてきたニクスに向かって、静かに声を掛けた。
「俺は何もしてない! ただ、あそこにあった手記を読んだだけで……」
「まずは、この子を落ち着かせる方が先だ。君は部屋へ戻っていなさい」
言い訳をしようとしたニクスの言葉を、ムコール様はぴしゃりと遮った。
ニクスは不満そうに唇を尖らせたものの、それ以上は逆らわず、重い足音を響かせながら図書室から出て行った。
彼が去り、静まり返った部屋の中で、私はムコール様の腕にしがみついたままガチガチと歯の根を鳴らして震えていた。
こんなに取り乱した姿を見せれば、不興を買ってしまう。
必死に落ち着こうとするけれど、恐怖に支配された体は言うことを聞いてくれない。
「ムコール様……あの、奥にあった手記や……恐ろしくひしゃげた鎧は……」
言葉を飲み込まなければいけないと分かっているのに、一番恐ろしい疑念が、息も絶え絶えな口からついこぼれ落ちてしまった。
こんなことを聞いてしまっては、怒られるだろうか。
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