第4章-1 文字の灯火と、森の記憶
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あの地下の空間で、ムコール様の恐ろしい「本体」を見せられてから、数日が経った。
私はまだ、生きている。
それどころか、この館に来てからというもの、私はただの一度も水汲みや薪割りを命じられていない。
食事は毎日ムコール様やニクスと共に、立派な食堂で温かいものをいただいている。
農民の私には馴染みのない銀のフォークとナイフの使い方は、まだぎこちないままで、いつまでも上達しないことに呆れられているのではないかと、食事のたびに冷や汗をかいていた。
それ以外は、あてがわれた柔らかいベッドで眠るだけの毎日だ。
そもそも、ただの農民の娘である私が『自分だけの部屋』を与えられていること自体が、信じられない出来事だった。
村の家では、狭い土間に藁を敷いて、家族全員で身を寄せ合って眠るのが当たり前だったからだ。
立派な家具が置かれたこの広い部屋を一人で使っていいだなんて、まるで噂に聞く貴族様の暮らしそのものだった。
私なんかがこんな贅沢を許されていいのだろうかと、ひどく落ち着かない。
しかも、村では朝から晩まで休むことなくこき使われるのが日常だった私にとって、この「何もせず、ただ贅沢に扱われる」という状況は、逆に気が狂いそうなほど恐ろしかった。
短い時間しかお役に立てないかもしれないのに、こんなに良くしていただいていいのだろうか……そんなことを考えていると、ふと、部屋の隅にある立派なクローゼットが目に付いた。
この『先生用の部屋』に初めから備え付けられていたものだ。
試しに扉を開けてみて、目に入った物に私は思わず息を呑んでしまった。
そこには、私には大きすぎる仕立ての良い男性物の服が、何着も掛けられたままになっていたからだ。
「これは……」
思わず独り言を漏らす。
これは……以前ここにいた『先生』のものだろうか。
彼は、着替えや荷物も持たずに、急に出ていってしまったのだろうか、それとも……これらを持ち出せない何かが起きたのだろうか。
そんな良くない想像ばかりが頭を巡り、窓から外の森を見つめていると、コンコン、と控えめに扉を叩く音がした。
無言で入ってきた灰色の布を被った使用人に促され、私は一階の奥、あの地下へと続く隠し扉があった書斎へと案内された。
壁一面を埋め尽くす分厚い本に囲まれた部屋の中央。
重そうな机の向こうで、ムコール様は仮面を外し、紫色の長い髪と二つの瞳を持つ美しい素顔で静かに座っていた。
「やあ、ティリア。館の生活には慣れたかな?」
柔和な声で問いかけられ、私はびくりと肩を震わせて小さく頷いた。
そんな私を見て、ムコール様は二つの瞳を持つ紫色の目を細め、静かに微笑んだ。
「君はとても大人しくて手のかからない良い子だけれど……少し、怯えすぎているね」
図星を突かれ、喉の奥がひやりと引きつった。
大人しく従順にしていれば怒られないと思っていたのに、怯えていることすら見抜かれて、不快に思われてしまったのだろうか。
「何か、退屈しのぎになりそうなものを用意したよ」
ムコール様はそう言って、美しい文字が書かれた手本の羊皮紙と、黒い何かが塗り込められた木枠の板、そして先の尖った細い木の棒を私の前に差し出した。
私は、見たこともないその道具の数々に戸惑い、おずおずと視線をさまよわせた。
「これは、練習用の書字板だよ。この黒い部分は蜜蝋といってね、この尖筆――その尖った棒で引っ掻いて文字を書くんだ。間違えたら、棒の平らな反対側で蝋を均せば何度でも消して書き直せるから、高価なインクをこぼす心配はいらないよ」
ムコール様は私の戸惑いを察したのか、優しく丁寧にその用途を教えてくれた。
「君には、家事や下働きのようなことは求めていない。……どうだいティリア、文字を学んでみないか?」
「文字、ですか……?」
予想外の言葉に、私は戸惑いの声を漏らした。
文字と聞くと、つい偉い貴族の方々が私たち農民を締め付けるためのものだと思ってしまう。
それに、短い時間しか役に立てないかもしれない私が、そんなものを覚えて何になるというのだろう。
「私なんかが、文字を学んでも……」
私が俯いて口ごもると、ムコール様は静かに立ち上がり、私の傍らに寄り添った。
「字を知るということはね、世界を広げるということだよ、ティリア」
その声は、地下で聞いたあの幾重にも重なるざわめきではなく、私というちっぽけな存在をひどく丁寧に扱うような、穏やかな響きだった。
「君の見てきた世界は、あの小さな村が全てだったかもしれない。でも、文字を知れば、君の心はずっと遠くまで旅をすることができる。……それに、ニクスにも少しばかり文字の復習をさせたくてね。彼と一緒に机を並べてくれないか」
ムコール様の言葉と同時に、書斎の重い扉が開いた。
「先生、なんだ? 今日はティリアと話してもいいのか?」
少し弾んだような声と共に姿を現したのは、ニクスだった。
彼は私と目が合うと、ニコニコと人懐っこく微笑みながら、迷うことなく私の隣の席へと歩み寄ってきた。
「先生から言われていたんだ。あんたを怖がらせるから、今はまだ近寄るなって」
無邪気に歯を見せて笑うその姿からは、この言葉が私と関わりたかったという素直な本音なのだろうなと思った。
ムコール様は静かに頷くと、机の上に一冊の薄い本を開いた。
そこには、神殿のステンドグラスにあるような色鮮やかな挿絵と共に、大きく丸っこい文字がいくつか並んでいる。
「魔法院で使われている、初学者向けの教本だよ。まずは、この辺りの簡単な世界創世の神話から……」
ムコール様が言いかけたその時、横から本を覗き込んだニクスが呆れたように声を上げた。
「なんだこれ。先生、これは子供向けの教本だろ。いくらなんでも、もっとマシなのはないのか?」
「こら、ニクス」
「だって本当のことだろ? おいティリア、あんた、まさか本当にこれが全然読めないのか?」
ニクスは不思議そうに、私の顔と教本を交互に指差した。
悪気など一切ない、ただ純粋な疑問なのだと分かっても、その無神経な言葉は私の胸を冷たくえぐった。
村の神殿で、神父様から何度も聞かされたことのあるお話のはずなのに。
そこに添えられた文字は、私にとってはただの曲がった線の羅列でしかない。
私は、子供向けの教本すら一文字も読めないのだ。
せっかくムコール様が期待して、私にはもったいないくらいの機会をくれているのに、こんなことでは役に立てないのかもしれない。
期待に添えなければ、私はいよいよ見限られて、今度こそ恐ろしい目にあうのではないか。
そう思うと、膝の上に置いた手がカタカタと震え出し、視界が涙で滲んできた。
「ごめんなさい……私、何も知らなくて。……ごめんなさい……」
じわじわと涙が浮かんでしまい、私はハッとした。
泣き顔など見せれば、また不興を買って打たれてしまうかもしれない。
私は慌てて袖口で乱暴に涙を拭った。
その様子を見て、ニクスはハッと目を見開いた。
「あっ、いや、違う! 別に馬鹿にしてるわけじゃないんだ!」
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