第3章-2 邂逅2
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「失礼。この姿では少し話しづらいかな。新しいお客人を驚かせないよう、人間の形をとるとしよう」
次の瞬間、キノコの輪郭が淡く滲んだかと思うと、その場に背の高い一人の男性が音もなく顕現した。
流れるような紫色の長い髪に、透き通るほど白い肌。
その顔立ちは、中性的で息を呑むほど美しかった。
けれど、長い髪の隙間から覗く耳は奇妙に尖っていて、何より私を戦慄させたのはその瞳だった。
美しい紫色の目の中には、瞳がそれぞれ二つずつ、不気味に並んでいたのだ。
綺麗だけれど、絶対に人間ではない。
それでも、この方が昨日私を買った貴族様なのだということはわかった。
私が引き攣った顔で後ずさると、その人は困ったように微笑んだ。
「どうも、人間への変身はニクスよりも才能がないようでね。だから、普段は仮面を被っているんだ」
そう言って、その方は優雅な仕草で自分の目元を指差した。
「外の人間には、顔に酷い火傷の痕があるから素顔は見せられない、と言い訳をしているけれどね」
そう優しく告げた後、貴族様は私を真っ直ぐに見つめた。
「……まだ君の名前を聞いていなかったね。私はムコール。この館の主だよ」
ムコールと名乗ったその人――人ではない何かが、私に名前を尋ねてきた。
私が乾いた唇を開きかけたその時、サンルームの入り口から低い声が響いた。
「……先生、人の仔を脅かすのはよくないんじゃなかったか?」
振り返ると、そこには昨晩、二階の廊下で私を見下ろしていたあの男の人が立っていた。
月光の下で見た時と同じ、褐色がかった肌と、紫の目。その奥の金色が、獣のようにきらめいていた。
彼は昨日の夜のように無言で立ち尽くすことはなく、真っ直ぐにテーブルへと歩み寄り、私の向かいの席に腰を下ろした。
「おや、ニクス。昨夜の君の方がよっぽど彼女を怯えさせていたと思うけれど。ほら、君からもちゃんと自己紹介をしなさい」
ムコール様に促され、彼は不満げに鼻を鳴らしたあと、私の方を真っ直ぐに見た。
「……俺はニクス。この館に住んでいて、先生に色々と教えて貰っている」
目を合わせてくれながらそう言った彼は、慣れた手つきで銀のフォークを手に取った。
二人の視線が、私に向けられる。
私は膝の上で強く手を握り締め、か細くなってしまった声でなんとか答えた。
「……ティリア、です。ティリアと、申します」
「ティリア。雪解けの花のような、美しい響きだね」
ムコール様は優雅に微笑むと、さあ冷めないうちにどうぞ、と食事を促した。
勧められても、私は目の前の美しい食事に手をつけることができなかった。
硬い木の皿と違い、真っ白な陶器の皿は傷をつければ割れてしまいそうで恐ろしい。
それに、皿の横に並べられた銀色の道具たち――フォークやナイフの使い方が、私には全く分からなかった。
おずおずと銀のフォークに手を伸ばし、農具を握るようにぎゅっと両手で掴んでみる。
どうやってあのフワフワの白いパンや、湯気を立てる肉を口に運べばいいのか分からず、私は完全に固まってしまった。
そんな私の様子を見て、ムコール様は困ったように眉を下げた。
「ああ、無理に道具を使わなくても大丈夫だよ。テーブルマナーなんて、今は気にしなくていい」
そのひどく優しい声色に、私は喉の奥が冷たく塞がるのを感じた。
今は、気にしなくていい。
それはつまり、私には人間としての作法を教える価値がないということだ。
どうせすぐに解体されて飾りの素材にされるのだから、行儀よく食べる必要などない、という意味に違いなかった。
絶望で視界が滲みそうになった時、向かいの席からカチャリと銀の食器が置かれる音がした。
「……俺も、最初は無理だった」
顔を上げると、ニクスと呼ばれていた彼が少し心配そうな様子で私を見ていた。
「パンは手でちぎって食うのがここの作法だ。肉をずっと手掴みってわけにはいかないだろうが……最初から上手くやれる奴なんていない。だから、そんなに恥ずかしがることはない」
彼はそう言って、自分もフォークを置き、わざと手掴みで湯気を立てる肉を口に放り込んだ。
慰められているのだと、すぐに分かった。
でも、どうして?
私は、きっと素材として買われただけの村娘なのに、どうしてこの人達――一人は人間ではなさそうだけれど――は、こんなにも優しく、丁寧に私を扱うのだろう。
怒鳴り声も、暴力もない。
ただ、ひたすらに柔らかく、私の常識が一切通じない不思議な空間。
私は自分が、とてつもなく恐ろしい場所に囚われてしまったはずなのに、その優しさをどこか温かく感じてしまっていることに、ひどく混乱していた。
私が手の中のパンを見つめたまま固まっていると、不意にムコール様がクスリと上品な笑い声を漏らした。
「パンの味が分からなくなるほど、怯えさせてしまったようだね。安心してほしい。私は君を解体して剥製にしたり、魔法薬の材料にしたりするつもりはないよ」
図星を突かれ、私はびくりと肩を跳ねさせた。
「では……私を、どうするおつもりですか」
消え入りそうな声で尋ねると、ムコール様は美しい紫の目を細め、静かに告げた。
「君にしてもらいたい役割は、ただ一つ。そこにいるニクスの『先生』になってもらいたいんだ」
「……え?」
予想もしなかった言葉に、私は間の抜けた声を漏らしてしまった。
私が信じられない思いで向かいの席に視線を向けると、ニクスはひどく居心地が悪そうにそっぽを向いた。
「あの……私から教えられることなんて、何もありません。読み書きもできませんし、礼儀作法も……」
「ふふ、知識や作法なら、これまでの先生たちが彼に十分教えてくれたよ。私が君に求めているのは、そんなものではない」
ムコール様は愉快そうに笑い、私を真っ直ぐに見つめた。
「君の心だよ、ティリア。君が何に喜び、何に怯え、どうやって心を動かすのか。今まで何人も『先生』はいたけれど、年頃の女性はいなかったんだ。君は良い『先生』になってくれると思うよ」
『先生』という響きは優しい。けれど、ムコール様の言葉に私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
肉体は切り刻まれないかもしれない。
でも私は結局、この得体の知れない人達に、心の中まで生きたまま観察されるために飼われるんだ。
新しい恐怖に私が押し黙っていると、不意に向かいの席から声がした。
「……なあ」
突然低く鋭い声で呼ばれ、私は「ひっ」と短く息を呑んで首をすくめた。
やはり彼を教える先生なんて、私には不釣り合いで怒らせてしまったのだ。叩かれる。
そう思って目を強くつぶったが、いつまで経っても痛みは降ってこなかった。
恐る恐る薄目を開けると、ニクスは眉間に皺を寄せ、どこか困惑したような顔で私を見ていた。
「……そんなに怖がらなくても、取って食ったりしない。それと、もし呼ぶなら『様』はよせ」
「え……?」
「俺はあんたの主人じゃない。だから、……様はいらない。ニクスでいい」
彼は眉尻を下げ、少し悲しそうに言うと、ちぎったパンの残りを口に放り込み、さっと席を立ってしまった。
「……ニクス」
私がその名前を唇の上で転がすと、部屋を出て行こうとしていた彼の背中が、わずかに揺れた気がした。
彼は振り向かないまま、足早にサンルームから出て行ってしまった。
「ふふ、彼なりに気遣っているんだろうね。若い女性との関わりは少ないから、大目に見てあげておくれ」
ムコール様は楽しそうに微笑むと、優雅な動作で立ち上がった。
「さて、食事が済んだなら少し館を案内しよう。……君に彼の『先生』になってもらうためにも、まずはこの館の主である私の『全容』を見せておきたい」
先生、という言葉の響きが、私の喉の奥に苦い後味を残していた。
それは尊敬を込めた呼び名などではなく、見世物や、珍しい飾り物として扱われることの言い換えに聞こえたからだ。
それでも、私に拒む権利など最初から与えられてはいない。
私はなかなか動かない足を無理やり動かし、ムコール様の後を追った。
案内されたのは、一階の奥にある書斎だった。
壁一面を埋め尽くすほどの本、本、本。
村の神殿で見たこともないような分厚い革表紙の束に、私は圧倒されるよりも、得体の知れない知識に包囲されたような息苦しさを覚えた。
学のない私にとって、文字とは法や税を決める、私たちを縛るための道具でしかなかったからだ。
ムコール様は本棚の前で立ち止まると、一冊の古い背表紙に指を掛けた。
カチリ、と硬質な音が響く。
分厚い木組みの本棚が、音もなく左右に割れた。
現れたのは、下へと続く暗い石造りの階段だった。
「……っ」
私は息を呑んだ。
昨晩、ベッドの中で耳を澄ませて聞いた音が、階段の奥から湿った風に乗って吹き抜けてきた。
チリッ……、カサ……、という何かが蠢くような音が重なり合い、まるで巨大な生き物が地下で息を潜めているような気配がする。
「おいで。暗いから、足元に気をつけて」
ムコール様は迷うことなく、漆黒の闇の中へと降りていく。
その後ろ姿は朝陽を浴びて透き通るほど美しいのに、その先にある真っ暗な穴の底へと降りていく様子は、まるで私を恐ろしい怪物の巣へ手招きしているようだった。
私は壁の冷たい石に指を這わせながら、一歩、また一歩と、自分から光の届かない牢獄へ降りていくような心地で階段を下った。
階段を下りきるごとに、空気は濃く、甘い土の匂いへと変わっていく。
やがて辿り着いたのは、天井の見えないほど広い地下空間だった。
そこは、館の土台そのものが捌かれた獣の腹の中に入れ替わったような、異様な光景だった。
岩肌を覆い尽くしているのは、無数の乳白色の、細い糸のような根。
それらは道標のように淡い光を放ち、静かに、執拗に地下の空間を侵食していた。
そして空間の中央、見上げるような巨体で鎮座していたのは、山のようなキノコの本体だった。
暗灰紫色の巨大な傘が、洞窟の天井を支えるように広がっている。
その表面には、昨晩のムコール様が付けていた仮面と同じ、紫色の眼が点在していた。
その無数の瞳が、一斉に開かれ、私を捉える。
「……あ」
声にならない悲鳴が漏れた。
美しく整えられた目の前のムコール様。
そして、その背後にある圧倒的な異形。
その両方が、同じ「ムコール」という一つの命なのだ。
キノコの根元からは、触手のような太い根が縦横無尽に伸び、館の壁や柱と一体化している。
ここは家ではなく、この怪物の体の中なのだ。
「驚かせてしまったね。これが、私の本当の姿だよ」
目の前のムコール様が微笑み、同時に、地下空間のあちこちから、複数の重なり合う声が響いた。
それは空気を震わせる声ではなく、私の頭の中に直接響いてくるような、ざわめく不思議な音だった。
「私はこの土地の一部であり、この館そのものだ。だから、ここで君が流す涙も、早まる鼓動も、私は全て感じることができる」
ムコール様は私の手を取り、冷たくて柔らかな指先を私の頬に滑らせた。
「だから、安心していい。 君がどんなに怯えても、その反応こそがニクスのための糧になる。君が壊れないよう、私は誰よりも丁寧に君を観察し、守り続けよう」
頬に触れる指の感触は、とても柔らかだった。
誰かにこうして大切に触れられたことなんて、これまで一度もなかった私には、その意味は分からない。それでも、その手つきは壊れやすい高価な壺を撫でるような、人間のものとはどこかズレている気がした。
私は無数に瞬く紫の瞳に見つめられながら、この美しい牢獄で、もし私が『先生』として用済みになってしまったら、いったいどうなってしまうのだろうという不安に飲まれてなにもできなかった。
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