第3章-1 邂逅
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使用人に導かれて二階へ上がると、そこは先ほどまでの豪奢な空間とは少し違う、静まり返った長い廊下だった。
絨毯の厚みで足音すら吸い込まれる中、ふと、先を歩いていた使用人が立ち止まった。
私もつられて足を止め、視線を上げる。
廊下の奥、窓から差し込む青白い月光の境界に、一人の青年が立っていた。
褐色がかった肌に、肩まで伸びた黒い髪。薄闇の中でもはっきりとわかる紫色の瞳は、その中心にある部分だけが獣のように鋭い金色を帯びて、じっと私を射抜いていたのだ。
彼は一言も発さない。距離を詰めてくるわけでもない。ただ、値踏みするように私を見つめ続けている。
買われたばかりの、厄介者の私。あの仮面の方の身内か、それとも客なのかはわからないが、この底知れない雰囲気を持つ若い男に、私はこれから何をされるのだろう。
慰み者にされるのか、それとももっと酷い方法でいたぶられるのか。
見えない縄で縛り付けられたような緊張感に震える膝が限界を迎え、私は堪えきれず、きゅっと強く目を閉じた。
――その瞬間だった。
私のこの忌まわしい目の裏に、青年の輪郭に重なるようにして、巨大な光の形が浮かび上がったのだ。
深い紫色をした、大きな獣の形。
それは、村の外れの森で私に寄り添ってくれたあの優しい獣と、どこか似ているような……。
「……っ!」
信じられない光景にハッとして目を見開く。
だが、月光の照らす廊下には、もう誰もいなかった。
窓枠を揺らす夜風の音だけが、まるで何も起きていなかったかのように、しんと響いている。
幻覚、だったのだろうか。それとも……。
私が廊下に立ち尽くしていると、使用人の一人が無言のまま私の背中を押し、すぐそばの豪奢な木扉を開けた。
中に通されると、そこには村の家一つが丸ごと入りそうなほど広い客室があった。
天井に屋根のような布が張られた巨大なベッドに、滑らかな手触りのシーツ。
暖炉には既に火が入り、部屋中を暖かな空気で満たしている。
使用人は私を部屋に入れると、一礼もせずに扉を閉めた。
直後、外からカチャリと重い鍵が掛けられる音が響いた。
私は、閉じ込められたのだ。
逃げ出さないよう、あるいは、生きた素材を新鮮なまま保管しておくための、美しい箱の中に。
部屋の隅には、純白の薄柔らかな衣服が、まるで私を待ち構えていたかのように畳まれて置かれていた。
湯浴みの後で着せられた緑のワンピースのまま逃げようかとも考えたけれど、窓の外は深く暗い森で、とても無事に抜け出せそうにはない。
それに、さっきの夜空に月が浮かんでいるみたいな目をしたあの男の人が、どこかの暗がりで私を待っているかもしれないと思うと、扉に近づくことすらできなかった。
力の入らない指先でワンピースを脱ぎ、触れたこともないほど滑らかなその服に袖を通す。
村では、昼間着ている服のまま寝るのが当たり前だった。
「寝るためだけの服」に着替えるなんて、貴族の贅沢な習慣は私にはひどく不釣り合いで、薄ら寒ささえ感じた。
けれど、逃げ場のないこの部屋で、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。
部屋の大部分を占める巨大なベッドは、私のような村娘が寝るにはあまりにも立派すぎて、近づくのすら躊躇われた。
それでも、重く引きずるような足取りで近づき、恐る恐るその屋根のついたベッドに身を横たえると、体が沈み込むような柔らかさに包まれた。
私の家の、チクチクとした藁の寝床とはまるで違う。
泣きたいほど温かく、恐ろしいほど清潔な場所。
ふと、耳を澄ますと、床のずっとずっと下――この館の深い地下の底から、微かに「チリッ……」「カサ……」という、何かが這い広がるような音が聞こえてくる気がした。
まるで無数の細い根が土を軋ませ、館の土台そのものを静かに侵食しているかのような、無機質で乾燥した音。
もしかして、この館の下には、言葉の通じない恐ろしい何かが巣食っているのだろうか。
私は恐怖に耳を塞ぎ、冷え切った体を丸めた。
明日はきっと、私が加工される日だ。
せめて、一思いに殺してほしい。
そんな絶望的な祈りを抱きながらも、冷たい雨に打たれ続けた私の体は限界を迎えており、温かいベッドの心地よさに抗うことなく、いつしか泥のような眠りへと引きずり込まれていった。
*
小鳥の囀りと、窓から差し込む眩しい朝日に、私はゆっくりと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、ひび割れた板張りの天井ではなく、見事な彫刻が施されたベッドの屋根だった。
悪い夢では、なかった。
私は七枚の金貨で買われ、家族から捨てられ、この不気味な館に連れてこられたのだ。
絶望が冷水のように全身に広がり、私はベッドの上で小さく身を縮めた。
ガチャリ、と鍵の開く音がして、ビクッと息を呑む。
入ってきたのは、昨晩と同じように顔を灰色の布で隠した使用人だった。
使用人は無言のまま、腕に掛けていた一着の服をベッドの足元に置いた。
それは、昨晩のシンプルな緑のワンピースとは違う、深い紺色の上等な生地に、控えめだが美しい刺繍が施されたドレスのようなワンピースだった。
着替えろ、ということなのだろう。
毎日違う服に着替えるなんて、村の祝祭の日くらいしか経験がない。
これから加工される素材への過剰な包装に思えて、私は恐ろしいほどの贅沢に体が竦んだ。
抵抗しても無駄なことは分かっていた。
私はぎこちない動きで寝間着を脱ぎ、その分不相応なワンピースに腕を通した。
自分の体に合わせて仕立てられたかのように、サイズはぴったりだった。
それがまた、以前から私を品定めし、こうなることを予定していたかのように思えて恐ろしかった。
身支度が終わると、使用人は再び歩き出し、私に付いてくるよう促した。
階段を降り、一階の廊下を進む。
昨晩の暗く恐ろしい雰囲気とは打って変わり、朝の館は明るく、どこか長閑な空気に包まれていた。
やがて、ひと際大きな窓が並ぶ、サンルームのような明るい部屋へと案内された。
その窓には、村では見たこともないような、向こうの景色が歪まずに透けて見えるほど透明で大きなガラスが嵌め込まれていた。
部屋の中央には、美しい透かし彫りのテーブルが置かれている。
そこには朝日を受けてキラキラと輝く銀の食器と、純白で滑らかな陶器の皿が並べられ、湯気を立てる食事が盛られていた。
食事を乗せるために硬く焼いたパンや、使い古した木の皿しか知らない私にとって、それはまるでおとぎ話の光景だった。
しかし、そこにあの仮面の貴族の姿はなかった。
代わりに、私が案内された椅子のすぐそば……。テーブルの端に置かれた観葉植物の鉢から、見慣れない「小さなキノコ」がひょっこりと顔を出していた。
暗い紫色の傘には、こちらを見つめるような不気味な目がいくつも並び、乳白色の柄からは細い腕のようなものが二本伸びている。
私がその奇妙な姿に呆然としていると「おはよう。よく眠れたかな?」と、どこからかあの仮面の貴族の柔和な声が聞こえた気がして、私はびくりと肩を揺らした。
「ああ、ここだよ。ジャムの小壺の隣」
声に合わせて、その奇妙なキノコが細い腕を振るように微かに揺れた。
驚きのあまり言葉を失い、目を見開いて硬直する私を見て、キノコは「おっと」と小さな声を漏らした。
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