第2章 異郷の館
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雨に濡れたぬかるみを進む馬車の揺れは、思いのほか早く止まった。
村を出てから、まだ一刻も経っていないはずだ。
外の様子を窺うことすらできず、固く身を縮めていた私の耳に、御者が馬車を降りるかすかな音が届く。
不意に扉が開かれ、冷たい雨風が吹き込んできた。
「さあ、降りておいで」
差し出された白い手袋の手を取ることもできず、私は這い出るようにして泥の上に裸足を下ろした。
そこは村からそう遠くない、鬱蒼と木々が茂る森の浅い場所だった。
もちろん、立派な貴族の館なんて影も形もない。
護衛も連れず、こんな人気のない真夜中の森で馬車を降りる理由は……。
――もしかして、ここで解体されて、森の獣の餌にされるのだろうか。
恐怖で奥歯がカチカチと鳴り、泥に沈んだ足が微かに震える。
私が怯えきっているのを察したのか、その人は卵型の仮面を少しだけ傾けて、あの柔和な声で小さく笑った。
「ああ、怖がらせてしまったかい? 実はね、私は魔法使いのようなものなんだ。家まですぐに帰りたいから近道を使おう」
魔法使い。
その言葉の意味を理解する前に、その人は私の泥だらけの右手をためらうことなく白い手袋で優しく包み込んだ。
貴族様に手を引かれ、雨で滑る斜面を少し進むと、巨大な古木が立ちはだかっていた。
その太い根元には大人が身を屈めてやっと通れるほどの、真っ暗な木の洞がぽっかりと口を開けている。
その人は迷うことなく、真っ暗な洞の中へと私を誘った。
洞の中へ足を踏み入れた瞬間、背中を叩いていた冷たい雨音も、木々が風に揺れる音も不自然なほどピタリと止んだ。
漆黒の闇のはずなのに、足元には微かに発光する苔や、不思議な紫色の菌糸のようなものが道標のように点在している。
空気は冷たい雨の匂いから、深く甘い、古い土と花が混ざったような香りに変わっていた。
先が全く見通せない、どこまでも続いているような暗い道。
自分の足音が奇妙に反響する空間を、その人に手を引かれるままただ黙って歩き続けた。
不意に、暗闇の奥からいくつもの鋭い視線を感じて、背筋が粟立った。
暗い道を縁取るように、獣の形をしたラベンダー色の光がいくつも浮かび上がっている。
頭が大きく、背中が曲がって蹲っているような不気味なシルエット。
鱗のある体を這わせるような音と、獣の低い唸り声が暗闇に反響し、得体の知れない恐怖に足がすくむ。
思わずその人の手をきつく握りしめて立ち止まると、その人は振り返って私を見た。
「アレはこの通り道の番犬みたいなものだよ。大丈夫、私といる限り襲ってこない」
仮面の奥の柔和な声に促され、私は竦みそうになる足を動かして再び歩き出した。
ラベンダー色の光の獣たちは、私たちの周りをうろつきながら値踏みするようにじっと見張っていたが、やがて興味を失ったように闇の中へ溶けて消えていった。
やがて、遠くに小さな光が見えてきた。
光の出口は、入り口と同じような小さな木の幹に空いた洞穴だった。
身を屈めてその穴を潜り抜けた途端、私の目は信じられない光景に大きく見開かれた。
そこは、先ほどまでの荒れ狂う雨の森ではなく、シンと静まり返った深い深い森の中だった。
雨雲などなく、木々の隙間からは青白い月光が差し込んでいる。
そして目の前には、巨大な木々を縫うようにして建てられた、大きなお屋敷がそびえ立っていた。
領主様が住むような権威を誇示する豪奢な城ではない。
頑強な石積みの土台の上に、黒い木組みと漆喰の壁が複雑入り組んだ、長い年月をかけて増築を繰り返したような造りだ。
大きく立派ではあるものの、急勾配の屋根や幾つも突き出した煙突には分厚くツタが絡まり、まるで森そのものが家という形をとって息づいているかのような、不思議な温かみと威容を放っている。
振り返ると、私たちが潜り抜けてきたはずの木の洞穴はただの小さな古株に変わっていた。
「さあ、着いたよ。歓迎しよう」
仮面の奥の紫の眼が、月光を反射して怪しく光る。
私がその夢の中のような出来事に呆然と立ち尽くしていると、館の分厚い木扉が音もなく開いた。
中から現れたのは、顔をすっぽりと灰色の布で覆い隠した数人の使用人たちだった。
彼らは音のない足取りで私を取り囲むと、有無を言わさず私の両腕を掴んだ。
「おっと、まずはその汚れを落とさなくてはね。彼らに任せなさい」
その人がそう指示を出すと、私は使用人たちに引かれるまま館の奥へと踏み出した。
高い天井から吊るされた分厚い色硝子の照明が、黒ずんだ木の壁をぼんやりと照らしている。
中には光蟲が閉じ込められているようで、夕焼けのような光がゆっくりと明滅を繰り返していた。
村でも粗末な編み籠に入れて使うありふれた虫のはずなのに、こんなに重々しい硝子の中で光っていると、まるで得体の知れない別の生き物のように見えてしまう。
足元には見たこともないほど分厚く柔らかい絨毯が敷かれ、泥だらけの私の足跡が残るのがひどく恐ろしかった。
長く静まり返った廊下を進む間、どこからも人の話し声は聞こえてこない。
ただ、窓の外で揺れる森の枝音だけが、不気味に響いていた。
ふと、背後の暗がりから肌を粟立たせるような鋭い視線を感じた。
私を引いていく無機質な使用人たちとは違う、微かな熱と息遣いを伴う野生の獣のような気配。
ハッとして振り返ったが、そこには色硝子の光が届かない深い闇が広がっているだけだった。
使用人たちは、恐怖で足を止めた私を気にも留めず、無言のままさらに廊下の奥へと歩みを進めていく。
背中に張り付くような得体の知れない視線と、微かな獣の匂いを引き摺ったまま、私は薄暗い静寂の中をしばらく歩かされた。
やがて突き当たりにある重そうな扉が開かれ、案内されたのは磨き上げられた滑らかな石が敷き詰められた部屋だった。
部屋の中央には、見たこともないほど大きな石の器があり、なみなみと注がれた湯から白い湯気が立ち上っていた。
抵抗する間すら与えられず、私は使用人たちの手によって身につけていたボロ布を剥ぎ取られた。
そのまま、湯気を立てる器の中へと押し沈められる。
――ああ、私はここで煮殺されるんだ。
そう覚悟して固く目を閉じたが、予想に反して湯は心地よい温かさだった。
村にいた頃、妹のフローラが小さな木桶に汲んだお湯で、母に優しく体を拭いてもらっているのを見たことがある。
厄介者だった私は、どれだけ泥だらけになろうが、冷たい井戸水を頭から浴びせられるだけだったのに。
花のような香りのする白い塊から生まれた、ふわふわとした不思議な泡が私の体を包み込み、こびりついた泥と冷えを徹底的に洗い落としていく。
絡まっていた銀髪は丁寧に梳かれ、湯上がりには村の娘が一生かかっても触れられないような上質で滑らかな肌着と深い緑色のワンピースを着せられた。
乱暴ではなかった。
傷一つつけられなかった。
両親がするように、痛いほどゴシゴシと力任せに擦られたわけでもない。
無言で、私の体に付着した汚れを落とし、毛並みを整えるという作業だけが手際よく進められていく。
言葉も視線も交わされないまま黙々と扱われる今の状況には、村で厄介者として罵られていた日々とはまた違う、得体の知れない恐ろしさがあった。
分不相応な美しい服を着せられ、見目を綺麗に整えられていくごとに、私は自分がこのまま生きた飾り物としてどこかに加工されてしまうのだろうかと、怯えることしかできなかった。
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