第5章 箱庭の目覚めと小さな棘
冷たい雨の匂いと、生臭い血の気配はもう感じない。
代わりに私を包み込んでいるのは、清潔なシーツの香りと、暖炉の火がはぜる微かな音だった。
重い瞼をゆっくりと押し上げると、ぼやけた視界に薄暗い天井が映る。
外はまだ暗いのか、部屋には光蟲の淡い灯りがつけられていて、ここは、ムコール様が用意してくれた『先生用の部屋』……つまり、私の自室だとわかった。
体を起こそうとすると、全身を鉛のようなだるさが襲った。
無我夢中で嵐の森を走った足の裏が、熱を持ったようにズキリと痛む。
痛みに顔をしかめながらそっと身を捩ったとき、ベッドの傍らに大きな影が丸まっていることに気がついた。
私のわずかな寝返りの気配に弾かれたように、その影がガバッと顔を上げる。
「……よかった……目が覚めてくれて」
掠れた、ホッとしたような声。
部屋の中で、深い紫色の瞳の奥に金色の光を宿した、まるで夜空に月が浮かんでいるみたいに美しい目が、私を覗き込んでいる。
いつもの、人間の青年の姿をしたニクスだった。
彼の顔を見た瞬間、私の脳裏にあの嵐の森の光景が鮮明に蘇った。
魔物を一撃で引き裂いた、恐ろしいほどの暴力。
そして、その奥で優しく揺れていた深い紫の光。
昔、村でひとりぼっちだった私に寄り添ってくれた獣。
私を助けてくれた巨大な異形。
目の前にいる優しそうな青年。
それらすべてが、私の中で一つに繋がった。
「ニクス……あなたが、あの時の……」
「……悪かった」
ニクスは私の言葉を最後まで聞かず、大きな体を小さく縮こまらせて、視線を彷徨わせた。
「あんたを、怖がらせるつもりじゃなかったんだ。ただ、あんたが死ぬんじゃないかと思って、頭が真っ白になって……」
彼の言葉に、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、それ以上に嬉しかった。
勝手に屋敷を出た私を、雨の中助けに来てくれたのだから。
「……私を、助けてくれてありがとう」
私が泣きながらそう言うと、ニクスはひどく狼狽したように目を丸くした。
それから、節の立った長い指を伸ばし、壊れ物に触れるようにそっと私の頬の涙を拭ってくれる。
「その、村の外れで私が泣いていたとき、近くにいてくれたのはあなた?」
私の問いかけに、ニクスは少し躊躇いながらも小さく頷いた。
「よかった。あのね、あなたのこと、ずっと気になっていたの。突然いなくなってしまったから」
少し声に詰まった後、私は言葉を紡ぐ。
「私を慰めてくれていたあの獣は、死んでしまったと思っていたから。生きていて、よかった」
私が言うと、ニクスは照れたように何かを言おうとして、口ごもった。
「あ、そうだ」
ニクスは何かを思い出したようにハッとして、テーブルから温かい湯気を立てる厚手の陶器の杯を手に取った。
ふと視線を横に向けると、サイドテーブルには何度も絞られた形跡のある布と、薬草の香りがする水が張られた陶器の水鉢が置かれていた。
部屋の隅では、灰色の布を被った使用人たちが、ホッとしたように小さく揺れている。
きっと、私が眠っている間、ニクスや使用人たちがずっとこうして看病してくれていたのだ。
「先生が用意してくれた薬だ。あんたは熱があるから、それを下げるために飲んだ方がいいんだってさ」
彼が慣れない手つきで差し出してくれた杯を受け取ろうとした時、不意に静かな足音が部屋に入ってきた。
「おや、目が覚めたようだね」
優雅な足取りで現れたのは、人間の姿をとったムコール様だった。
「ニクスが君の危機にどう動くか、少しだけ見守らせてもらったよ。怖がらせてしまったなら謝ろう」
いつもと変わらない、柔らかくて親しみを感じてしまう声。
勝手に屋敷を逃げ出した私を、怒っている様子は見当たらなかった。
「……ニクスが追い掛けたら大丈夫だとは思ったけれど、ずいぶんと無茶をしたみたいだねぇ。人の仔と関わるのは久し振りでね。しっかりと守れなくてすまなかった」
私のために激昂してくれたニクス。
徹夜で看病するよう使用人たちに指示し、私なんかのために薬まで用意してくれて、謝罪までしてくれたムコール様。
私のためにニクスは嵐の中飛び出して危機を救ってくれた。
それに、ムコール様派徹夜で看病するよう使用人たちに指示し、私なんかのために薬まで用意してくれただけでなく、謝罪までしてくれた。
貧しい村では、熱が出てもただ神に祈ってやり過ごすしかない。
薬なんて、それこそ領主様のような方々が口にする、一生縁の無いものだと思っていた。
この人達は……少なくとも積極的に私を傷付けたりしないし、多少の失敗では私を壊したり、食べたりしないのかもしれない。
――けれど……温かい薬湯を一口飲んだ私の脳裏に、ふと、あの図書室で見つけた前任者の手記がよぎった。
彼らが優しいのは本当だ。
私を大切に扱ってくれていることも、疑いようがない。
でも、あの『先代の先生』はどうなってしまったのだろう。
ぐるぐると渦巻く不安を押し殺して視線を上げると、ニクスとムコール様が静かに私を見守ってくれているのがわかった。
心配そうに私を覗き込む、夜空のようなニクスの瞳。
こんな私に対して、見下すこともなく温かい態度で接してくれるムコール様は、春の日差しのように明るいラベンダー色の瞳で私を見つめてくれている。
どうしてあんな手記があったのか、まだわからない。
それでも、彼らの飾らない優しさに触れていると、戸惑いよりも先に、泣きそうになるほどの感謝が胸にこみ上げてくる。
窓に当たる激しい雨や、木々を揺らす風の音が聞こえている。
私はこんな嵐の中、我を忘れて勝手に屋敷を飛び出してしまったのだ。
取り返しのつかないことをしてしまったという後悔と、彼らが助けてくれたという安堵で、胸がギュッと締め付けられる。
この温かい優しさに、ずっと縋り付いていられたらどんなに幸せだろう。
けれど、忘れてはいけない。
私は、ニクスのために買われた『感情を学ぶための先生』だ。
いつかその役割が終わった時、あの手記の主と同じように、ひっそりとこの館から消される日が来るのではないだろうか。
聞きたい。
でも、もし真実を聞いて、この温かい関係が壊れてしまったらと思うと、怖くて声が出せなかった。
彼らに嫌われたくないという思いが、私の喉の奥に小さな棘のように刺さって、言葉を飲み込ませるのだった。
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