表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
忌み子と蔑まれた魔眼の少女は、人外貴族に買われて極上の溺愛を知る  作者: こむらさき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/51

第5章 箱庭の目覚めと小さな棘

 冷たい雨の匂いと、生臭い血の気配はもう感じない。

 代わりに私を包み込んでいるのは、清潔なシーツの香りと、暖炉の火がはぜる微かな音だった。


 重い瞼をゆっくりと押し上げると、ぼやけた視界に薄暗い天井が映る。

 外はまだ暗いのか、部屋には光蟲ランプシーの淡い灯りがつけられていて、ここは、ムコール様が用意してくれた『先生用の部屋』……つまり、私の自室だとわかった。


 体を起こそうとすると、全身を鉛のようなだるさが襲った。

 無我夢中で嵐の森を走った足の裏が、熱を持ったようにズキリと痛む。

 痛みに顔をしかめながらそっと身を捩ったとき、ベッドの傍らに大きな影が丸まっていることに気がついた。

 私のわずかな寝返りの気配に弾かれたように、その影がガバッと顔を上げる。


「……よかった……目が覚めてくれて」


 掠れた、ホッとしたような声。

 部屋の中で、深い紫色の瞳の奥に金色の光を宿した、まるで夜空に月が浮かんでいるみたいに美しい目が、私を覗き込んでいる。


 いつもの、人間の青年の姿をしたニクスだった。

 彼の顔を見た瞬間、私の脳裏にあの嵐の森の光景が鮮明に蘇った。


 魔物を一撃で引き裂いた、恐ろしいほどの暴力。

 そして、その奥で優しく揺れていた深い紫の光。

 昔、村でひとりぼっちだった私に寄り添ってくれた獣。

 私を助けてくれた巨大な異形。

 目の前にいる優しそうな青年。

 それらすべてが、私の中で一つに繋がった。


「ニクス……あなたが、あの時の……」


「……悪かった」


 ニクスは私の言葉を最後まで聞かず、大きな体を小さく縮こまらせて、視線を彷徨わせた。


「あんたを、怖がらせるつもりじゃなかったんだ。ただ、あんたが死ぬんじゃないかと思って、頭が真っ白になって……」


 彼の言葉に、私の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。

 怖くないと言えば嘘になる。

 でも、それ以上に嬉しかった。

 勝手に屋敷を出た私を、雨の中助けに来てくれたのだから。


「……私を、助けてくれてありがとう」


 私が泣きながらそう言うと、ニクスはひどく狼狽したように目を丸くした。

 それから、節の立った長い指を伸ばし、壊れ物に触れるようにそっと私の頬の涙を拭ってくれる。


「その、村の外れで私が泣いていたとき、近くにいてくれたのはあなた?」


 私の問いかけに、ニクスは少し躊躇いながらも小さく頷いた。


「よかった。あのね、あなたのこと、ずっと気になっていたの。突然いなくなってしまったから」


 少し声に詰まった後、私は言葉を紡ぐ。


「私を慰めてくれていたあの獣は、死んでしまったと思っていたから。生きていて、よかった」


 私が言うと、ニクスは照れたように何かを言おうとして、口ごもった。


「あ、そうだ」


 ニクスは何かを思い出したようにハッとして、テーブルから温かい湯気を立てる厚手の陶器の杯を手に取った。

 ふと視線を横に向けると、サイドテーブルには何度も絞られた形跡のある布と、薬草の香りがする水が張られた陶器の水鉢が置かれていた。

 部屋の隅では、灰色の布を被った使用人たちが、ホッとしたように小さく揺れている。

 きっと、私が眠っている間、ニクスや使用人たちがずっとこうして看病してくれていたのだ。


「先生が用意してくれた薬だ。あんたは熱があるから、それを下げるために飲んだ方がいいんだってさ」


 彼が慣れない手つきで差し出してくれた杯を受け取ろうとした時、不意に静かな足音が部屋に入ってきた。


「おや、目が覚めたようだね」


 優雅な足取りで現れたのは、人間の姿をとったムコール様だった。


「ニクスが君の危機にどう動くか、少しだけ見守らせてもらったよ。怖がらせてしまったなら謝ろう」


 いつもと変わらない、柔らかくて親しみを感じてしまう声。

 勝手に屋敷を逃げ出した私を、怒っている様子は見当たらなかった。


「……ニクスが追い掛けたら大丈夫だとは思ったけれど、ずいぶんと無茶をしたみたいだねぇ。人の仔と関わるのは久し振りでね。しっかりと守れなくてすまなかった」


 私のために激昂してくれたニクス。

 徹夜で看病するよう使用人たちに指示し、私なんかのために薬まで用意してくれて、謝罪までしてくれたムコール様。


 私のためにニクスは嵐の中飛び出して危機を救ってくれた。

 それに、ムコール様派徹夜で看病するよう使用人たちに指示し、私なんかのために薬まで用意してくれただけでなく、謝罪までしてくれた。


 貧しい村では、熱が出てもただ神に祈ってやり過ごすしかない。

 薬なんて、それこそ領主様のような方々が口にする、一生縁の無いものだと思っていた。

 この人達は……少なくとも積極的に私を傷付けたりしないし、多少の失敗では私を壊したり、食べたりしないのかもしれない。


 ――けれど……温かい薬湯を一口飲んだ私の脳裏に、ふと、あの図書室で見つけた前任者の手記がよぎった。

 彼らが優しいのは本当だ。

 私を大切に扱ってくれていることも、疑いようがない。


 でも、あの『先代の先生』はどうなってしまったのだろう。


 ぐるぐると渦巻く不安を押し殺して視線を上げると、ニクスとムコール様が静かに私を見守ってくれているのがわかった。

 心配そうに私を覗き込む、夜空のようなニクスの瞳。

 こんな私に対して、見下すこともなく温かい態度で接してくれるムコール様は、春の日差しのように明るいラベンダー色の瞳で私を見つめてくれている。


 どうしてあんな手記があったのか、まだわからない。

 それでも、彼らの飾らない優しさに触れていると、戸惑いよりも先に、泣きそうになるほどの感謝が胸にこみ上げてくる。


 窓に当たる激しい雨や、木々を揺らす風の音が聞こえている。

 私はこんな嵐の中、我を忘れて勝手に屋敷を飛び出してしまったのだ。

 取り返しのつかないことをしてしまったという後悔と、彼らが助けてくれたという安堵で、胸がギュッと締め付けられる。


 この温かい優しさに、ずっと縋り付いていられたらどんなに幸せだろう。

 けれど、忘れてはいけない。

 私は、ニクスのために買われた『感情を学ぶための先生』だ。

 いつかその役割が終わった時、あの手記の主と同じように、ひっそりとこの館から消される日が来るのではないだろうか。


 聞きたい。

 でも、もし真実を聞いて、この温かい関係が壊れてしまったらと思うと、怖くて声が出せなかった。

 彼らに嫌われたくないという思いが、私の喉の奥に小さな棘のように刺さって、言葉を飲み込ませるのだった。

毎朝7時半くらいに更新予定です。

おもしろかったり、続きが気になったらブクマや評価よろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ