第2部 第5章-1 分離
あれから数日が経ち、私はサンルームの明るい光の中で、蒼百合の貴婦人へ渡すための刺繍に黙々と向かい合っていた。
ムコール様が私のためにと惜しげもなく用意してくれたのは、村にいた頃には見たこともないような、鮮やかで美しい青色に染められた高価な絹糸だ。
チクリ、チクリと針を進めると、真っ白なハンカチの上に少しずつ青い百合の花びらが形作られていく。
そうして滑らかな糸を無心に引く時間だけが、胸の奥で絶えず渦巻いている不安を、ほんの少しだけ和らげてくれるような気がした。。
その不安の種というのは、最近のニクスの様子だった。
一日のうちで、彼が私の知らない「サヴェール」という人の気配を纏う時間が、少しずつ長くなっているように思えてならない。
唐突に大人びた微笑みを浮かべたり、難しい本を静かに読み耽ったりする彼を見るたび、胸の奥がちくりと痛む。
私の知っている、あの明るくて優しいニクスが、どこか手の届かない遠くへ押し流されてしまうような気がして、ひどく息苦しくなってしまう。
一方で、ムコール様はニクスを助けるために、色々と手を尽くしてくれているのが伝わってきた。
書斎に籠もって分厚い本を何冊も広げたり、時折、人間の姿をとってどこかへ出かけたりと、私の見えないところで忙しなく準備を進めてくれているのがわかる。
そうして数日が過ぎたある日の午後、サンルームの扉が静かに開き、人間の姿をとったムコール様が入ってきた。
「なんとか、準備が整ったよ」
彼はいつも通りの柔らかな声でそう告げると、私と、部屋の隅で静かに本を読んでいたニクスを見た。
「ティリア、ニクス。地下の広間へ行こうか」
その言葉に、私はきゅっと手元の布を握りしめ、小さく頷いた。
いよいよ、彼の中からサヴェールさんを切り離す儀式が始まる。
不安と緊張で早鐘のように打つ胸を必死に押さえつけながら、私はゆっくりと立ち上がる。
私たちはムコール様に導かれ、あの巨大なキノコの本体が鎮座する、薄暗い地下の広間へと足を踏み入れた。
淡く光る紫色の糸のような道標が、シンと静まり返った広い地下室をぼんやりと照らしている。
ひんやりとした空気が肌を撫でるたび、これから始まる儀式への恐怖がじわじわと足元から這い上がってくるようだった。
その重苦しい静けさの中で、不意に隣を歩いていたニクスの足が止まる。
どうしたのだろうと私が振り返った瞬間、彼をまとっていた空気が、ぞっとするほど冷たくて艶やかなものへと一変した。
彼がゆっくりと顔を上げると、夜空に月が浮かんでいるような不思議な瞳が、熱に浮かされたような、どこか甘い色を帯びている。
少しずつ彼を蝕んでいたサヴェールさんの存在が、ついに大好きな彼を完全に飲み込み、手の届かない遠くへ連れ去ってしまったようで、私は息を呑んで立ち尽くしてしまう。
すっかり別人のようになってしまった彼は、静かな、けれど淀みのない足取りでムコール様へと歩み寄る。
普段の彼なら絶対にしないような、ひどく大人びて優雅な仕草だった。
そして、愛しいものに触れるような手つきで、ムコール様の白い手をそっと握る。
「ムコール、僕のために動いてくれたのなら、とても嬉しいよ」
それは、紛れもなくサヴェールさんという「見知らぬ大人の男性」の、甘く熱を帯びた声だった。
私には決して向けられないその親密な声色に、胸の奥が冷たい手で掴まれたように痛む。
ムコール様は仮面の奥で僅かに目を瞬かせたようだったけれど、すぐにふっと口元を緩め、いつものような穏やかな態度のまま彼の手を優しく払い除けた。
「……さて、感傷に浸るのはこれくらいにしておこうか」
そのムコール様の声に弾かれたように、ニクスの身体がビクッと大きく揺れた。
「っ……!?」
彼は激しく頭を振り、顔をひどく歪ませて荒い息を吐き出す。
そして、ハッとして私の方を振り向くと、大きな歩幅で駆け寄ってきた。
「……ティリア」
しゃがれた、切羽詰まった声だった。
彼は私の両手を、すがるようにぎゅっと握りしめた。
その大きな手は、迷子になった子供のようにひどく震えている。
見下ろしてくる彼の瞳は、私をよく知っている、大好きなニクスのものだった。
「……俺、怖いんだ。ちゃんと、元に、戻りたい」
ぽつりとこぼれ落ちた声は、輪郭を失いそうなくらいに弱々しく揺れていた。
ぎゅっと結ばれた唇と、すがるような瞳。
いつもなら私の前で絶対にそんな弱音を吐かない彼が、今どれほど心細い思いをしているのかが痛いほど伝わってくる。
私は少しでもその不安を和らげたくて、彼の大きな手を力強く握り返し、真っ直ぐに見つめ返した。
「大丈夫。絶対に、私がニクスを助けるよ」
私が迷いなくそう告げると、ニクスは泣きそうな顔で目を細め、深く息を吐き出して頷いた。
私たちのやり取りを静かに見守っていたムコール様が、ふっと目を細める気配がした。
「じゃあ、そろそろ儀式をしようか」
穏やかなその声とともに、ムコール様が床に向けて指を弾くと、地下の土がうごめき、太いキノコの根のようなものが絡み合って、あっという間に大人一人が横たわれるほどの頑丈な木の寝台を作り出した。
「ニクス、そこへ横になっておくれ」
ムコール様は静かにそう促すと、少しだけ声を落として彼に問いかけた。
「魂をいじくるからね、すごく痛いと思うけれど、耐えられるかい?」
その言葉に、ニクスの身体がびくりと震えた。
彼は固く唇を引き結び、握りしめた拳を微かに震わせている。
いつもなら痛みに顔をしかめない彼が、まるで叱られるのを待つ子供のように肩を強張らせていた。
「……ああ」
掠れた短い返事とともに、彼は小さく頷いた。
その声の震えや、ぎこちない足取りから、彼が抱える恐怖がひしひしと伝わってくる。
私は彼を少しでも安心させたくて、繋いでいた手をもう一度ぎゅっと握りしめてから、そっと指先を離した。
ニクスは一度だけ私を振り返り、深く目を瞑って、震える息を細く吐き出した。
そして、ムコール様の言葉に従い、静かに寝台へと身を横たえた。
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