第2部 第4章 使い魔のいたずらと帰還
翌朝、身支度を終え、簡素で動きやすいドレスに着替えた私は、朝食をとるためにダイニングへと足を向ける。
部屋に入ると、温かいスープの匂いとともに、すでにテーブルについているニクスの姿が目に入った。
昨晩の出来事を思い出して少しだけ緊張した面持ちの彼に、「おはよう」と声をかけようとした――その瞬間。
バンッ! と乱暴な音を立てて、ダイニングの重い扉が勢いよく開け放たれる。
青みがかった灰色のローブを着た尖り耳の魔法使いが、血相を変えて飛び込んでくる。
その後ろから、少し焦ったような足取りでムコール様が追いかけてくるのが見えた。
「待て! そっちへ行ったぞ!」
彼が切羽詰まった声で叫んだのと、私の視界の隅で、淡く光る粉をまとった塊が動いたのはほぼ同時だった。
気づけば、立ち上がろうとしたニクスと私の間に、手のひらに乗るほどの小さな「何か」が宙に浮いていた。
赤や緑が複雑に混ざり合った不思議な色のドレスを着た、羽の生えた小さなお隣さんだった。
お隣さんは悪びれる様子もなくクルクルと宙を舞うと、ニクスの耳元にすり寄り、何かを囁くように口を動かした。
次の瞬間、パッと淡い光の粉のようなものが弾け飛んだ。
「――っ、ティリア!」
むせ返るほど強い、花の蜜のような甘ったるい香りの粉が辺りに散らばり、私は思わずむせてぎゅっと目を閉じた。
その瞬間、強い力で腕を引かれる。
粉から庇うように、彼が私を自身の胸元へと抱き寄せてくれた。
視界が塞がれる直前、駆け込んできたムコール様もまた、私たちを庇うようにスッと腕を伸ばしてくる気配を感じる。
いつもなら冷静なムコール様まで慌てるなんて、いったい何が起きたというのだろう。
そのまま咳き込みながら固く目を閉じた私の視界の裏に、不意に信じられない光景が浮かび上がった。
私を抱きしめる彼からは、いつもなら夜空のように穏やかな深い紫色の光の輪郭が視える。
それなのに、今はその内側に、まるで夕焼けのような眩しい夕陽色の光がじわじわと滲み出し、元の色と混ざり合い始めていた。
私が知っている彼のものではない、その不思議な光が、いつもの穏やかな色をすっかり飲み込んでしまったように見えた。
いったいどうして、ニクスの中にこんなものが?
そんなありえない光景に戸惑い、慌てて目を開けて彼の顔を見上げようとした。
けれど次の瞬間、私を力強く抱きしめてくれていたはずの腕が、突き放すように唐突に離された。
「……え」
突き放されたような感覚に戸惑いながら視線を上げると、彼は私からスッと距離を取り、乱れた服の皺を払っていた。
その動きは、無造作で飾り気のないいつもの彼のものではなく、指の先まで隙のない、静かで滑らかなものだった。
彼はゆっくりと私を見下ろし、口元に薄く柔らかな微笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
それはひどく丁寧で、淀みのない声だった。
けれど、そこにはいつも私に向けてくれる無邪気な温かさは微塵もない。
私という人間を全く知らない、ただのすれ違った他人に向けられるような、綺麗で冷たい言葉。
その響きに私が背筋が凍りつくのを感じて固まっていると、不意に彼はハッとしたように目を瞬かせた。
「……いや、違う。ティリア、大丈夫か?」
彼がぐっと身を乗り出し、いつもの心配そうな顔つきで私の顔を覗き込んでくる。
その声は紛れもなく私が知っているニクスのものだったけれど、ほんの一瞬見せたあの見知らぬ誰かのような態度のせいで、私はどう反応していいか分からず、ただ呆然と彼を見つめ返してしまった。
一方、飛び込んできた魔法使いは、指先から放った光る糸で宙を舞うお隣さんを捕らえ、厳しく叱りつけていた。
拘束されたお隣さんは必死に身振り手振りで口を動かし、何か言葉のようなものを紡いでいる。
魔法使いも、追いついてきたムコール様も、そして私を覗き込んでいたニクスでさえ、その言葉に反応して微かに顔を顰めたり、呆れたようにため息をついたりしていた。
けれど、彼らには通じているらしいその言葉は、私には言葉としての意味を全く成さず、ただ甲高い音の羅列にしか聞こえない。
一人だけ会話から取り残されているという疎外感に、きゅっと胸が痛む。
そんな騒ぎの中、目の前の「彼」は再びふっと表情を消すと、私から視線を外し、静かな足取りでムコール様の隣へと歩み寄った。
いつもなら「先生」と呼んで気安く隣に立つはずの彼が、一歩下がった位置に控え、恭しく背筋を伸ばしている。
ムコール様を見つめるその横顔は、ほんの少しだけ長い睫毛を伏せ、どこか甘やかく微笑んでいるように見えた。
しっとりと濡れたような瞳の奥で揺れる光は、昨日私に向けてくれた初々しい熱とはまるで違う、ずっと深く、大人びた色を孕んでいる。
ひどく大切そうに、ただ一人だけを映すようなその表情が、私にはどうしようもなく遠く感じられた。
見知らぬ彼から放たれるただならぬ気配を感じ取ったのか、ムコール様も仮面の奥の目を微かに見開いたように見えた。
ほんの少しの間だけ、二人の間に言葉のない静かなやり取りが交わされたような気がする。
私だけが取り残されてしまったような、息の詰まる時間が流れる。
けれど、ムコール様がすぐにいつもの柔らかな態度に戻って魔法使いの方へと向き直ったことで、その空気はふっと途切れた。
「事情はわかったし、君たちにはどうしようもないこともわかった。こちらで対処するから、立ち去ってくれると助かるよ」
そう言って、いつものように穏やかな声で促す。
すると、新雪のように明るい銀色の髪と碧い目をした尖り耳の魔法使いは、お隣さんと共に深く頭を下げた。
「ほんの……いたずらのつもりだったらしい。本当にすまなかった」
魔法使いは申し訳なさそうに謝罪すると、そのまま足早に部屋から出て行った。
バタン、と扉が閉まり、ダイニングには再び静寂が戻った。
壁際に控えている数人の使用人たちは、今の騒ぎにも全く動じることなく、ただ人形のように無言で立ち尽くしている。
その異様な空間の中で、見知らぬ「彼」は、ムコール様を見つめ続けていた。
時折ハッとしたように私を見てニクスの顔に戻るけれど、すぐにまた、見知らぬ『誰か』の熱を帯びた視線でムコール様へと向き直ってしまう。
二人の様子を見ていると、まるでずっと昔からそうであったかのように思えて、私が入り込む隙間なんてどこにもない気がした。
彼が私の知らない誰かになってしまったように思えて、胸の奥がギュッと締め付けられるように痛む。
どうしようもない寂しさと焦燥感が、私の足元からじわじわと這い上がってきていた。
騒ぎが収まった後も、彼から漂う見知らぬ誰かの気配が消えることはなかった。
昨日の夜、私を優しく気遣ってくれた彼とは、まるで違う人みたいで戸惑いが隠しきれない。
それでも、ここにいる理由はない。もともとの予定通り、私たちは魔法院を発つことになった。
それぞれの自室から僅かな荷物を持って再び合流する。
その時、彼は私ではなく、真っ直ぐにムコール様の方を見ていた。
いつも私だけに向けてくれていたあの瞳が、別の誰かを熱っぽく見つめていることがこんなにも息苦しいなんて……。
昨日まで当たり前のように繋いでいたはずの大きな手は、今は触れることすら許されないほど遠く感じられる。
私はその見知らぬ彼にどう声をかけていいか分からず、ただ無言で俯き、鞄の持ち手をきつく握りしめるしかなかった。
そうして重たい沈黙を抱えたまま案内されたのは、ここへ来た時と同じ、小さな真っ白な部屋だった。
窓一つないその部屋で、ムコール様が静かに白い壁に手を触れる。
すると、硬いはずの壁が水面のように波打って歪み、あっという間にひび割れた古い大樹の樹皮へと変わってしまった。
ぽっかりと口を開けた真っ暗な木の洞からは、来た時と同じ、深く甘い土の匂いが漂ってくる。
行きと同じように、またここを通って帰るみたいだ。
「とりあえず、帰ってから色々と話すことにしよう」
ムコール様が私にそう優しく告げると、次にニクスの方へと視線を向けた。
「……君も、それでいいね?」
「はい、ムコール」
澱みなくそう答えたニクスは、直後、ハッとしたように頭を振って顔をしかめた。
「……じゃない。先生、わかった」
言い直した彼の声は、どこかひどく不安定に揺れている。
それから彼は、ためらうように少しだけ手を浮かせた後、私の手をそっと取ってくれた。
ムコール様が迷いなく暗闇へと足を踏み入れ、ニクスに手を引かれた私もそれに続く。
足元に点在する光る苔や紫色をした糸のようなものが、淡く道を照らしている。
けれど、来た時に感じたあの温かい安心感は、今の私の中には少しもなかった。
数日前にお屋敷を出た時は、ニクスが私の手を優しく包み込み、「はぐれないようにな」と何度も気遣って振り返ってくれたのに、今は違う。
手は繋がれているのに、時折ふっと体温が消えたように冷たくなり、私を引く力が他人のように強張る瞬間がある。
暗い道を進む間、彼が私を振り返ってくれることはなかった。
彼はただ無言で、前を歩くムコール様の背中を、熱に浮かされたようなひどく熱っぽい視線でじっと見つめ続けている。
繋がれた右手からは、ひどく不安定な熱と冷たさが交互に伝わってくる。
すぐ隣を歩いているはずの彼が、暗闇の奥、手の届かない遠い場所へ行ってしまったように思えて、私はただ必死にその大きな手を握り返すことしかできなかった。
毎朝7時半くらいに投稿しています。
少しでもおもしろかったり、気になったらブクマや評価をよろしくお願いします




