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忌み子と蔑まれた魔眼の少女は、人外貴族に買われて極上の溺愛を知る  作者: こむらさき


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第2部 間章-2 空気が変わる日

 私も、どんな顔をして彼を見ればいいのかわからなくて、ただ俯いて自分の靴の先を見つめることしかできない。


 気まずい沈黙が少しだけ続いた後、ニクスが小さく「……帰るか」と呟く。

 私はこくりと頷き、二人して逃げるように波止場を後にした。


 来た時と同じにぎやかな市場の通りを抜けたはずなのに、周囲のざわめきはちっとも頭に入ってこなかった。

 私たちは魔法院の敷地へ戻るため、客待ちをしていた辻馬車へと逃げ込むように乗り込む。

 貸し切りの馬車なのだから、向かい合わせの席に座ればいい。そう思ったのだけれど、後から乗り込んだニクスは私と視線がぶつかった途端、不自然なほど素早く目を逸らした。

 そして一瞬だけ躊躇うように動きを止めた後、どうしていいかわからないといった様子で、逃げるように私のすぐ隣へとぎこちなく腰を下ろす。


 彼の重みで車体が小さく傾き、硬い木製の座面がぎしりと軋んだ。

 衣服の擦れるかすかな音とともに、体温が直接伝わってきそうなほどの大きな熱がすぐ真横に寄り添ってくる。

 やがて馬車が走り出すと、狭い車内にはガタゴトと車輪が石畳を叩く音だけが、やけに大きく響き始めた。

 肩が触れそうなほどお互いの気配が近くて、ぎゅっと握りしめた手からじわりと汗が滲んでしまいそうだ。

 息をする音さえ聞かれてしまいそうな距離感に耐えきれず、私は窓の外を流れる景色をぼんやりと見つめることしかできなかった。

 すると不意に、隣からぽつりと声が落ちてきた。


「……さっきは、悪かった」


 驚いて隣を見ると、ニクスは窓の外へ顔を向けたままだった。

 けれど、流れる黒髪の隙間から覗く耳の先が、さっきと同じようにほんのりと赤く染まっているのがわかる。


「そういうつもりじゃなかったんだけど……なんか、あんたの顔を見たら、勝手に体が動いてた」


 言い訳のように少し早口でそう言った後、彼はちらりとこちらへ紫の瞳を向けた。


「あんたは……嫌じゃなかったか?」


 不安そうに揺れる金色の光に見つめられて、私の胸の奥がまた大きく跳ねた。

 家族としての親愛なのか、それとももっと別の感情なのか、私自身にもまだ上手く言葉にできない。

 それでも、これだけははっきりと伝えなきゃいけない気がした。

 私は、膝の上でぎゅっと握りしめていた自分の手をそっと解いた。


「うん……嫌とかじゃ、なかった、よ」


 消え入りそうな声でそう答えて、座席に置かれた彼の大きな手に、自分の指先をそっと重ねる。

 ビクッと彼の肩が揺れたのがわかった。

 けれど、拒絶されることはなく、少しの間の後、私の小さな手は彼の温かくて大きな手で優しく包み込まれた。

 重なった手から伝わってくる熱に、顔が熱くなるのを感じながら、私はただ静かにその温もりを握り返した。


 辻馬車が停まったのは、魔法院の象徴である高い塔がそびえる、円形の広場へと繋がる大きな門の手前だった。


「お客さん、到着だよ」


 御者の明るい声とともに扉が開かれる。

 馬車を降りるため、私たちは繋いでいた手を一度そっと離した。

 指先から彼の熱が消えて少しだけ寂しさを感じていると、先に地面に降り立ったニクスが、私をエスコートするようにこちらへ向き直った。

 そして、先ほどまでの気まずさを振り払うように、再び大きな手を差し出してくれる。

 ためらいがちに差し出されたその手を取ると、彼は少しだけ照れくさそうに、けれどとても優しい顔で微笑んで「行こうか」と私を引いて歩き出した。

 もう一度繋ぎ直された手から伝わってくる熱。

 彼の大きな掌にすっぽりと包み込まれるような安心感に、また胸の奥が甘くトクンと鳴った。


 ふと顔を上げると、目の前には真っ白な石が積み上げられた巨大な門がそびえ立っている。

 首が痛くなるほど見上げても、まだその頂上は遠い。

 門の表面に彫り込まれた一角馬や太陽の装飾は、どこか見下ろされているような威圧感があって、両脇の角燈でぼんやりと光る不思議な石も、夕暮れの空気の中でひどく冷たく見えた。


 港町の親しみやすさとは全く違う、そのあまりにも巨大な門の姿に、私は思わず息を呑んで立ちすくみそうになってしまう。

 けれど、ぎゅっと握られた大きな手が「大丈夫だ」と伝えてくれるように、私を優しく前へと導いてくれた。

 ニクスがそのまま門番の前に進み出た、その時だった。


「ここから先は、招かれたものしか入れません」


 冷たく響いた厳格な声に、私はビクッと肩を揺らして、思わずニクスの背中の後ろに身を縮めた。

 けれど彼は慌てることなく、私を庇うようにすっと一歩前へ出ると、空いている方の手で懐からツルツルとした石の通行証を取り出す。

 門番はそれを丁寧に確認すると、それまでの硬かった態度を少し和らげて、恭しく頭を下げてくれた。

 門番が合図を送ると、ズズズ……と足元から伝わる低い地鳴りのような音を立てて、数人がかりでゆっくりと巨大な扉が開かれていく。

 まるで別の世界への入り口のようにぽっかりと開いた、荷馬車が二台は余裕ですれ違えそうなその重い門を、私たちは体を寄せるようにしてくぐり抜ける。

 その瞬間、肌を撫でる空気がふっと冷たく変わるのがわかった。

 外の港町の賑やかな喧騒は分厚い壁に遮られ、敷地内には嘘のようなしんとした静けさが広がっている。


 いつの間にか陽は傾き始め、夕陽のような光に染まった空が、真っ白な高い塔や広場の石畳に長い影を落とし始めていた。

 静まり返った広場の向こうでは、丈の長いローブをすっぽりと被った魔法使いたちが、足音を忍ばせるようにして行き交う。

 その傍らでは、簡素な服を着た人々が長い箒で石畳を掃き清め、あるいは足早に荷物を運んで立ち働いている。

 案内を待つわずかな時間、そんな異質な光景をぼんやりと眺めている私の手を、ニクスは決して離そうとしない。


 繋いだ手に込められた少しだけ強い力と、気まずそうに視線を彷徨わせる彼の横顔を見つめているだけで、胸の奥がくすぐったくなる。

 やがて、無地の麻布でできた、飾りのない丈の長い服を着た女性が音もなく近づいてきた。


 深く一礼した彼女が、ゲストハウスへの道を案内し始めようと静かに身を翻した時、その袖口から手首の肌がちらりと覗く。

 そこには、昨日私たちを案内してくれた人や、ゲストハウスで見かけた使用人たちと同じ、不思議な赤い二本の線が引かれていた。

 ここで働く人たちの目印なのかな、と私は心の中で小さく納得する。


 それまでニクスと繋いでいた手の熱さでいっぱいで、少しふわふわとしていた私の心が、その素朴な発見とともに、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻していくような気がした。

 静かな足取りで歩き出した案内人に続くため、ニクスの指先が名残惜しそうにゆっくりと滑り落ちていく。

 私たちの手は、ここでようやく自然に解かれた。


 少しだけ前を歩く彼の広い背中を見つめながら、私は自分の手をそっともう片方の手で包み込む。

 掌に残る微かな熱は、今日あった出来事が決して夢ではないのだと、優しく教えてくれているような気がした。

 ゲストハウスの自室に戻り、一人きりの静寂に包まれると、市場での出来事による胸のざわめきが再びゆっくりと押し寄せてきた。


 会議を終えたムコール様と合流し、三人で夕食を済ませたばかりだというのに、食事中も不意にニクスと視線がぶつかるたび、馬車の中で繋いでいた手のひらの熱を思い出してしまって、ちっとも味が分からなかった。

 明日はもう森のお屋敷へ帰る日だ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、私が寝間着に着替える準備をしていると、コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「ティリア、起きているか」


 扉の向こうから聞こえたのは、少しだけくぐもったニクスの声だった。

 私がそっと扉を開けると、彼は気まずそうに視線を彷徨わせた後、少しだけ長身を屈めて私の顔を覗き込んできた。


「今日は、楽しかったか?」


 こちらを窺う紫の瞳の奥で、金色の光が期待するように揺れている。

 どこかそわそわとしたその佇まいは、私の言葉を待ちわびているようだった。

 私が「うん、とっても楽しかった」と微笑んで頷くと、ニクスは心底ホッとしたように目を細め、パッと顔を輝かせた。


 そして彼は、少しだけ迷うように手を浮かせた後、いつもと同じように私の頭をポンと優しく撫でた。

 ただそれだけのことなのに、大きな掌から伝わる熱に急にカァッと顔が熱くなるのを感じて、私は慌てて俯いてしまった。


「……おやすみ」


 ニクスの声もどこかくすぐったげで、彼は少し早足で自分の部屋へ戻っていった。

 頭に残る温もりに、ほっと息を吐き出す。

 魔法院で「サヴェール」と呼ばれた時に一瞬だけ見えた気がしたあの夕陽色の光は、きっと私の見間違いだったに違いない。

 市場で不意に近付いた彼との甘い距離感を胸の奥で反芻しながら、私は火照る頬を冷まして静かに眠りについた。

毎朝7時半くらいに投稿しています。

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