第2部 間章-1 空気が変わる日
行き交う人々と石畳で舗装された街並み……大きな港街はエルダリア王国の王都と同じか、それ以上に賑わっていた。
抜けるような青い空の下、白い漆喰や、赤や黄色に塗られた色鮮やかな家々が、レンガ色の屋根を連ねて海へと続く斜面に沿って立ち並び、照りつける太陽の光を弾いてきらきらと輝いている。
ニクスが教えてくれた「磯の香り」は不思議だし、少し肌がベタベタするような気がするけれど、降り注ぐ日差しと風が運んでくる匂いはなんだかわくわくする。
ただ、あまりにも人が多くて、少し気後れしてしまう。
私が無意識に身を縮めていると、隣を歩くニクスが、人波から私を庇うようにすっと肩を寄せてくれた。
見上げると、彼はこの街の活気など慣れた様子で、珍しいものばかりで目を輝かせる私を少し得意げに見守っている。
子ども扱いされているようで少し恥ずかしいけれど、そのいつも通りの落ち着いた横顔を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
昨日の夜、いつもの紫の光だけじゃなくて、一瞬だけ夕陽に似た色の光が見えたような気がした。
けれど、きっと慣れない場所で疲れていた私の見間違いだったのかもしれない。
私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれるニクスは、時折こちらを気遣うように、安心させるような微笑みを向けてくれる。
その温かな気配に包まれているうちに、人混みにこわばっていた肩の力がすーっと抜け、深く息を吸い込む余裕が生まれてきた。
耳を澄ますと、行き交う人々の陽気な笑い声や、店先で値段を交渉する活気ある声が心地よく響いてくる。
安心して再び通りへと視線を向けると、そこには驚くような光景が広がっていた。
噂でしか聞いたことが無い獣の姿をした人たちや、見慣れない髪色をした人々が行き交い、少し歩を進めるたびに新しいものが次々と目に飛び込んでくる。
山や森ではみないようなカラフルな魚や果物も露店に並んでいて、本当にいくら見ていても見足りないくらいだった。
ふと、潮風に乗って陽気な呼び込みの声が聞こえ、私は一つの露店の前で足を止めた。
そこには、王都の宝石店にあるような豪奢なものではないけれど、貝殻や海の石を使った、素朴で可愛らしい品々がずらりと並んでいた。
白っぽかったり、ピンク色だったりする貝殻を丁寧に磨いて繋ぎ合わせた首飾りや、不思議な石があしらわれた腕輪に、私は思わず見入ってしまう。
「どうだいお嬢さん。この腕輪の石は、夜になると仄かに光る魔石なんだ。それにこっちは、ほんの少しだけ水に浮いていられる、漁師町ならではのお守りだよ」
店主の陽気なおじさんが愛想よく教えてくれる。
「このくらいの弱い効果が付与されている魔石なら、魔法使いや金持ちじゃなくても買える値段になっているんだ」
隣からニクスがそう教えてくれて、私はすっかり夢中になってしまった。
魔法使いじゃなくても手の届くささやかな魔法が、生活をこんな風に彩ってくれているなんて、驚きだった。
ニクスも私の隣に並んで身を乗り出し、「どれがいいと思う?」と真剣に並んだ品物を見つめている。
彼がふとこちらを向くと、至近距離にあの夜空のような紫の瞳があって、少しだけドキッとしてしまう。
彼の瞳の奥にある綺麗な金色の光は、昔森で出会ったあの優しい獣と同じように、柔らかく細められていた。
「……これが似合うんじゃないか?」
そう言ってニクスが選んでくれたのは、小さな桜色の貝殻と、仄かに光る魔石が交互に繋がれた腕輪だった。
「お兄さん、目が高いね! その石はうちでも特別綺麗に光るやつなんだ」
店主のおじさんにそう褒められると、ニクスは少し得意げに「だろ?」と笑って、銅貨を数枚取り出した。
彼がそれをおじさんから買って、私の手首にそっと通してくれた時、触れた指先の温かさとともに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
買い物を終えて再び市場を歩き出すと、どこからかお腹がぐうっと鳴ってしまいそうな、いい匂いが漂ってきた。
「腹減ったか? 何か食おうぜ。何がいい?」
ニクスが私の顔を覗き込んで、優しく聞いてくれる。
匂いの先を見ると、赤くてくるりと丸まった不思議なものや、分厚い白身魚を串に刺して焼いている屋台があった。
「あれは、なに……?」
私が遠慮がちに指差すると、ニクスは「エビって言うんだ。美味いぞ」と嬉しそうに教えてくれた。
屋台から湯気を立てる二本の串焼きを受け取ると、彼は少し背伸びをして市場の通りを見渡した。
「食べられそうな場所は、埋まっているな。あっちの方へ行ってみるか」
立ち止まって食べる場所が見当たらないとわかると、ニクスは空いている方の手で私の手をそっと引き、市場のにぎやかな通りから歩き出した。
向かったのは、荷下ろしが終わって少し静かになった、海に向かって突き出た細い石の道だ。
きらきらと光る水面を眺めながら、二人で並んで串焼きを頬張る。
「美味しい……!」
「だろ? 海の街の飯は美味いんだよ」
ニクスは満足そうに笑いながら、自分の分の串をあっという間に平らげてしまった。
私も、彼が美味しそうに食べる姿につられて、温かいエビの身をおずおずと、けれど一生懸命に口に運んだ。
ぷりっとした不思議な弾力と、とろりとした甘辛いソースの味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んでしまう。
初めての味にすっかり夢中になって、私は一生懸命に串の身を頬張った……その時だった。
「ティリア、ついてるぞ」
横から何気ない声が降ってきたかと思うと、ニクスの大きな手がスッと伸びてきた。
彼の長い指先が、私の口元に触れる。
どうやら、初めての味にすっかり夢中になっていて、口の端が汚れていることにまったく気がついていなかったみたい。
「あっ、ごめんなさい……」
私が慌てて手で拭おうとするより早く、ニクスの指が私の唇の端を優しくなぞって、ソースを拭い取ってしまった。
そして彼は、拭い取ったソースがついた自分の指を、そのままペロッと舐め取ってしまった。
「……っ!?」
あまりにも自然なその仕草に、私の頭は真っ白になった。
今までも頭を撫でられたり、手を引かれたりすることはあったけれど、今の触れ方は、これまでの優しい家族みたいな距離感とは全く違っていた。
唇の端に触れた彼の指先の少しざらついた感触と、それを自分の口へと運ぶひどく自然な仕草が頭から離れない。
ドクン、と胸の奥が大きく跳ねて、顔がぼわっと火に近づいたように熱くなる。
急に息の仕方がわからなくなって、私は目の前にいるニクスの顔をまともに見られなくなってしまった。
私が顔を真っ赤にして完全に固まっていると、ニクスが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
しかし、息もできずにいる私の様子を見て、彼もハッとしたように目を見開いた。
「あ……」
ニクスの動きがピタリと止まり、その褐色の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「……っ、ちが、今のは……」
私をリードしてくれていた時の余裕はすっかり消え失せ、ニクスは弾かれたようにパッと手を引っ込めた。
そのまま顔をそっぽに向けると、何か言い訳を探すように口をぱくぱくさせている。
私も、どんな顔をして彼を見ればいいのかわからなくて、ただ俯いて自分の靴の先を見つめることしかできない。
気まずい沈黙が少しだけ続いた後、ニクスが小さく「……帰るか」と呟く。
私はこくりと頷き、二人して逃げるように波止場を後にした。
来た時と同じにぎやかな市場の通りを抜けたはずなのに、周囲の楽しげなざわめきはちっとも頭に入ってこなかった。
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