第2部 第3章-2 体が勝手に動いた
そんな甘い沈黙を破るように、私たちの背後でギィッと重い扉が開く音がした。
振り返ると、薄灰色の上着を着た、鈍い銀色の髪を持つ猫背の男性が部屋から顔を出していた。
長い髪の隙間から覗く耳は、先が尖っている。私たちの検査をするためのお医者様だろうか。
「……ティリアさん。まずは君からだ、中へ」
尖り耳のお医者様は、少し気怠そうな声で私を呼んだ。
ニクスと顔を見合わせると、彼は「大丈夫だ。何かあっても、俺がいるからな」と優しく微笑んでくれた。
その言葉に頷き、私は一人で部屋の中へと足を踏み入れた。
部屋の中は薬草の匂いが充満していて、いくつもの不思議な道具が並んでいる。
気怠げにのそのそと動くお医者様は私を椅子に座らせると、見慣れない不思議な道具を取り出した。
杖の先端に透き通る石が取り付けられたようなその道具は、お医者様が何か小さな声で呟くと、パッと小さな太陽みたいに明るい光を放つ。
何をされるのだろうと身を硬くしている私などお構いなしに、彼はその光を当てて、じっくりと私の目を覗き込んだり、口の中を調べたりしている。
緊張でぎゅっと膝の上のドレスを握りしめながら、私はふと部屋の隅へと視線を向けた。
そこには、木漏れ日みたいな色のドレスを着た小さな隣人たちがふわりと浮かび、こちらを興味深そうに眺めている。
彼女たちは楽しげにクルクルと宙を舞い、お医者様の肩のあたりを飛び回ったりしているのだけれど、彼自身はそれを気にする様子もなく、淡々と手元の紙に何かを書き留め始めた。
痛いことをされるのではないかと身構えていたけれど、それだけで、私の検査はあっけなく終わってしまった。
「次は君だ、ニクス」
入れ替わるようにして呼ばれたニクスは、面倒くさそうに部屋に入ってきた。
私は部屋の隅で、彼の検査が終わるのを待つことになった。
お医者様はニクスに対しては目や口の中を見ることはせず、机の上に置かれた橙色の水晶に手をかざすように指示を出した。
ニクスが大きな手をかざすと、水晶の内側がぼんやりと光り、お医者様はそれをじっと観察して何やら記録をつけている。
やがて、お医者様は水晶から視線を外して小さく息を吐いた。
「お疲れさま。魔物による浸食の気配無し。異常もなし。女の子の方の目は……隣人からの祝福だね」
そう告げると、彼は鈍い銀色の髪を片手でかき上げ、ちらりと私の方を見た。
中性的で見目麗しい顔立ちの中で、若葉のような色の瞳が瞬きとともに静かに揺れる。
シルヴァン様にも言われた「不吉な目ではなく、祝福なのだ」というその言葉に、私は少しだけホッとして胸を撫で下ろした。
お医者様は再びニクスに向き直ると、顎を細い指でさすりながら口を開く。
「君は、まあ……特別製だからねぇ。多少ゆらぎがあるのは仕方ないけれど、頻繁に検査に来るように」
「……わかってる」
ニクスが不服そうに鼻を鳴らして答えたが、お医者様は気にする素振りも見せずに出した道具を引き出しや棚に戻していく。
部屋の中にいる、木漏れ日色のドレスを着たお隣さんたちは、お医者様の手に戯れ付くようにふわりふわりと飛んでいる。けれど、彼はそれを意に介さずに作業を続けてから、こちらを振り向いた。
「私の方からムコール殿には伝えて置くから、好きに時間を潰すといい。なにやらお偉方は面倒な会議をしているようだから、夕方までかかるはずさ」
そう言いながら、お医者様は小さな白いツルツルとした石の札をニクスに手渡すと、くるりと背を向けて部屋の奥へと戻っていってしまった。
特にすることもなくなった私たちは検査室を出て、再び冷たい石造りの廊下へと戻ってきた。
夕方まで時間を潰すと言っても、この魔法院の中で私たちが居心地よく過ごせる場所があるとは思えない。
どうしようかと顔を見合わせていると、ニクスが手の中の白い石札を軽く放り投げてキャッチし、私に向かってにっと笑いかけた。
「なあ、ティリア。魔法院の中は息が詰まるだろう?」
「えっ?」
「せっかくだ。近くの市場へ行ってみないか? 美味しいものもあるかもしれないぞ」
その提案に、私の心はパッと明るくなった。
「うん、行きたい!」
私が嬉しそうに頷くと、ニクスは満足げに目を細めた。
私たちは冷たい塔を背にして、歩き出す。
階段を下って、塔の出入り口へ向かう。入ってきたときと同じ小さな門を抜けようとしたところで、見張りの兵士に声をかけられた。
けれど、ニクスがお医者様から貰った白い石札を提示すると、兵士はすぐに道を開けてくれた。
多分だけれど、あのツルツルとした石は、特別な通行証の代わりになるみたい。
「ティリア、あれに乗っていこう」
「わかった」
広場を囲む大きな門を抜けた先で乗り合いの馬車を見つけたニクスに手を引かれて、私は足早に彼の後を追う。
私たちはたくさんの人が乗っている馬車へ駆け足気味で乗り込んで、外の街を目指すことにした。
ガタゴトと揺れる馬車から外を眺めると、美しく舗装された石畳の道や、綺麗に管理された花壇が次々と後ろへ流れていく。
やがて、子供たちや私と同じくらいに見える若い男女がたくさん歩いている、大きな建物の集まる敷地が見えてきた。
「あれは?」
私が不思議に思って指差すると、ニクスが教えてくれた。
「あれが、魔法院の学院だ。通りの向かいにあるのが、生徒の暮らす寮になってる」
赤、青、緑、灰色の四色に分かれた屋根の大きな建物を指差してニクスはそう教えてくれた。
ニクスが言うには、貴族も平民も関係なく、様々な子供たちがあの寮で共同生活をしているらしい。なんだか不思議な感覚だった。
その学院の敷地を仕切る大きな門を一つ抜けると、通りには出店や露店が立ち並び、行き交う人々の活気ある声が聞こえてきた。
見たことも無い魚や、果物、それに色とりどりの布地や民芸品が並べられていて、ここも一つの街みたいだなって思う。
やがて馬車は、魔法院全体を囲むさらに巨大な門をくぐり抜け、小さな森へと入っていく。
木漏れ日の降る森の道をのんびりと進むにつれて、風に混じって、今まで嗅いだことのない不思議な匂いが鼻をくすぐった。
「なんだか、しょっぱいような……不思議な匂いがする」
私が不思議に思って呟くと、隣に座るニクスの肩まで伸びた黒髪が、馬車の窓から吹き込む風にふわりと靡いた。
彼は楽しそうに目を細め、私に向けて優しく微笑んでくれる。
「あれは潮の香り、磯の匂いだな。海が近いんだ」
「海……!」
ムコール様から話に聞いたことしかない、果てしなく広がるという水面。
初めて嗅ぐその匂いに、私の胸は期待で大きく高鳴った。
やがて森の木々が途切れ、視界が一気に開ける。
そこには、キラキラと太陽の光を反射する海と、活気に満ちた大きな港街の景色が広がっていた。
間章-1 空気が変わる日
行き交う人々と石畳で舗装された街並み……大きな港街はエルダリア王国の王都と同じか、それ以上に賑わっていた。
抜けるような青い空の下、白い漆喰や、赤や黄色に塗られた色鮮やかな家々が、レンガ色の屋根を連ねて海へと続く斜面に沿って立ち並び、照りつける太陽の光を弾いてきらきらと輝いている。
ニクスが教えてくれた「磯の香り」は不思議だし、少し肌がベタベタするような気がするけれど、降り注ぐ日差しと風が運んでくる匂いはなんだかわくわくする。
ただ、あまりにも人が多くて、少し気後れしてしまう。
私が無意識に身を縮めていると、隣を歩くニクスが、人波から私を庇うようにすっと肩を寄せてくれた。
見上げると、彼はこの街の活気など慣れた様子で、珍しいものばかりで目を輝かせる私を少し得意げに見守っている。
子ども扱いされているようで少し恥ずかしいけれど、そのいつも通りの落ち着いた横顔を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
昨日の夜、いつもの紫の光だけじゃなくて、一瞬だけ夕陽に似た色の光が見えたような気がした。
けれど、きっと慣れない場所で疲れていた私の見間違いだったのかもしれない。
私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれるニクスは、時折こちらを気遣うように、安心させるような微笑みを向けてくれる。
その温かな気配に包まれているうちに、人混みにこわばっていた肩の力がすーっと抜け、深く息を吸い込む余裕が生まれてきた。
耳を澄ますと、行き交う人々の陽気な笑い声や、店先で値段を交渉する活気ある声が心地よく響いてくる。
安心して再び通りへと視線を向けると、そこには驚くような光景が広がっていた。
噂でしか聞いたことが無い獣の姿をした人たちや、見慣れない髪色をした人々が行き交い、少し歩を進めるたびに新しいものが次々と目に飛び込んでくる。
山や森ではみないようなカラフルな魚や果物も露店に並んでいて、本当にいくら見ていても見足りないくらいだった。
ふと、潮風に乗って陽気な呼び込みの声が聞こえ、私は一つの露店の前で足を止めた。
そこには、王都の宝石店にあるような豪奢なものではないけれど、貝殻や海の石を使った、素朴で可愛らしい品々がずらりと並んでいた。
白っぽかったり、ピンク色だったりする貝殻を丁寧に磨いて繋ぎ合わせた首飾りや、不思議な石があしらわれた腕輪に、私は思わず見入ってしまう。
「どうだいお嬢さん。この腕輪の石は、夜になると仄かに光る魔石なんだ。それにこっちは、ほんの少しだけ水に浮いていられる、漁師町ならではのお守りだよ」
店主の陽気なおじさんが愛想よく教えてくれる。
「このくらいの弱い効果が付与されている魔石なら、魔法使いや金持ちじゃなくても買える値段になっているんだ」
隣からニクスがそう教えてくれて、私はすっかり夢中になってしまった。
魔法使いじゃなくても手の届くささやかな魔法が、生活をこんな風に彩ってくれているなんて、驚きだった。
ニクスも私の隣に並んで身を乗り出し、「どれがいいと思う?」と真剣に並んだ品物を見つめている。
彼がふとこちらを向くと、至近距離にあの夜空のような紫の瞳があって、少しだけドキッとしてしまう。
彼の瞳の奥にある綺麗な金色の光は、昔森で出会ったあの優しい獣と同じように、柔らかく細められていた。
「……これが似合うんじゃないか?」
そう言ってニクスが選んでくれたのは、小さな桜色の貝殻と、仄かに光る魔石が交互に繋がれた腕輪だった。
「お兄さん、目が高いね! その石はうちでも特別綺麗に光るやつなんだ」
店主のおじさんにそう褒められると、ニクスは少し得意げに「だろ?」と笑って、銅貨を数枚取り出した。
彼がそれをおじさんから買って、私の手首にそっと通してくれた時、触れた指先の温かさとともに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
買い物を終えて再び市場を歩き出すと、どこからかお腹がぐうっと鳴ってしまいそうな、いい匂いが漂ってきた。
「腹減ったか? 何か食おうぜ。何がいい?」
ニクスが私の顔を覗き込んで、優しく聞いてくれる。
匂いの先を見ると、赤くてくるりと丸まった不思議なものや、分厚い白身魚を串に刺して焼いている屋台があった。
「あれは、なに……?」
私が遠慮がちに指差すると、ニクスは「エビって言うんだ。美味いぞ」と嬉しそうに教えてくれた。
屋台から湯気を立てる二本の串焼きを受け取ると、彼は少し背伸びをして市場の通りを見渡した。
「食べられそうな場所は、埋まっているな。あっちの方へ行ってみるか」
立ち止まって食べる場所が見当たらないとわかると、ニクスは空いている方の手で私の手をそっと引き、市場のにぎやかな通りから歩き出した。
向かったのは、荷下ろしが終わって少し静かになった、海に向かって突き出た細い石の道だ。
きらきらと光る水面を眺めながら、二人で並んで串焼きを頬張る。
「美味しい……!」
「だろ? 海の街の飯は美味いんだよ」
ニクスは満足そうに笑いながら、自分の分の串をあっという間に平らげてしまった。
私も、彼が美味しそうに食べる姿につられて、温かいエビの身をおずおずと、けれど一生懸命に口に運んだ。
ぷりっとした不思議な弾力と、とろりとした甘辛いソースの味が口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んでしまう。
初めての味にすっかり夢中になって、私は一生懸命に串の身を頬張った……その時だった。
「ティリア、ついてるぞ」
横から何気ない声が降ってきたかと思うと、ニクスの大きな手がスッと伸びてきた。
彼の長い指先が、私の口元に触れる。
どうやら、初めての味にすっかり夢中になっていて、口の端が汚れていることにまったく気がついていなかったみたい。
「あっ、ごめんなさい……」
私が慌てて手で拭おうとするより早く、ニクスの指が私の唇の端を優しくなぞって、ソースを拭い取ってしまった。
そして彼は、拭い取ったソースがついた自分の指を、そのままペロッと舐め取ってしまった。
「……っ!?」
あまりにも自然なその仕草に、私の頭は真っ白になった。
今までも頭を撫でられたり、手を引かれたりすることはあったけれど、今の触れ方は、これまでの優しい家族みたいな距離感とは全く違っていた。
唇の端に触れた彼の指先の少しざらついた感触と、それを自分の口へと運ぶひどく自然な仕草が頭から離れない。
ドクン、と胸の奥が大きく跳ねて、顔がぼわっと火に近づいたように熱くなる。
急に息の仕方がわからなくなって、私は目の前にいるニクスの顔をまともに見られなくなってしまった。
私が顔を真っ赤にして完全に固まっていると、ニクスが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
しかし、息もできずにいる私の様子を見て、彼もハッとしたように目を見開いた。
「あ……」
ニクスの動きがピタリと止まり、その褐色の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。
「……っ、ちが、今のは……」
私をリードしてくれていた時の余裕はすっかり消え失せ、ニクスは弾かれたようにパッと手を引っ込めた。
そのまま顔をそっぽに向けると、何か言い訳を探すように口をぱくぱくさせている。
私も、どんな顔をして彼を見ればいいのかわからなくて、ただ俯いて自分の靴の先を見つめることしかできない。
気まずい沈黙が少しだけ続いた後、ニクスが小さく「……帰るか」と呟く。
私はこくりと頷き、二人して逃げるように波止場を後にした。
来た時と同じにぎやかな市場の通りを抜けたはずなのに、周囲の楽しげなざわめきはちっとも頭に入ってこなかった。
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