第2部 第3章-1 体が勝手に動いた
魔法院の朝は、森の館のような小鳥のさえずりや草木の匂いではなく、石造りの廊下を忙しなく歩く靴音で始まった。
簡単に朝食を済ませた私たちは、ムコール様に先導され、ゲストハウスを出て再び白い塔の中へと足を踏み入れる。
昨日、ゲストハウスへ向かう時はほぼなんの手続きも必要なかったけれど、塔へ入る時は違った。
ゲストハウスから中央の丸い広場へ入る所で兵士たちに簡単な身体検査をされ、塔の入り口でも列に並んで検査を受けたのだ。
さらに、ムコール様が入り口で何かを記入しているのも見えた。
「私たちは招かれている側だからね。まだ簡単に入れる方だよ」
そう笑ったムコール様が、私たちが入る小さな門の横にある、大きな門に並ぶ人たちを指して仮面の奥の目を細めた。
「悪いのだけれど、少し面倒な会議に呼ばれてしまってね。ニクスの検査もあるけれど、ついでにティリア、君の検査も行うことになったから、一緒に行くと良いよ」
塔の中へ入ったところで、ムコール様は歩みを止めると、少し困ったように仮面の奥の目を細めてそう言った。
突然のことに私が驚いて目を瞬かせていると、隣にいたニクスが「わかった」と短く頷く。
ムコール様は「ごめんね」とポンと優しく私の頭を撫でて、足早に別の廊下へと消えていってしまった。
遠ざかる彼の背中を見送りながら、ムコール様も色々と忙しくて大変なのだなと、私は少しだけ同情してしまった。
どうすればいいのだろう……と視線を彷徨わせていると、ニクスと目が合った。
そのままニクスと顔を見合わせ、ぽつんと立ち尽くしているところへ、静かな足音がこちらへ近づいてくる。
昨日ゲストハウスへ案内してくれた、栗色の髪をした女の人だった。
「ニクス様、ティリア様……検査のお部屋へご案内いたします」
彼女は抑揚のない声でそう告げると、私たちが返事をするより先に、くるりと背を向けて歩き出した。
慌てて後を追いながら、私は「昨日ぶりですね」と気を使って声をかけてみたのだけれど、彼女は前を向いたまま一言も返してくれなかった。
不思議に思って私が首を傾げていると、隣を歩くニクスがそっと教えてくれた。
「この人たちは、命令にないことは話せないんだ」
その言葉に、私は少しだけ驚いて、前を歩く彼女の背中を見つめた。
言われてみれば、一定の振り幅で揺れる彼女の腕も、石の床を叩く規則的な足音も、人間らしい感情がすっぽりと抜け落ちているように思える。
そんな無言の背中に導かれるまま、私たちは塔の内部の冷たい階段をゆっくりと上っていった。
行き交う魔法使いの方々は皆、青みがかった灰色のローブを纏い、難しい顔をして考え事をしてばかりいる。
そんな彼らとすれ違うたび、魔法院のローブを着ているわけでもないニクスと、簡素なドレス姿の私がいかに場違いであるかを突きつけられているようで、次第に心細さが募っていった。
飾り気のない冷たい石造りの廊下を歩きながら、私は隣を進むニクスの横顔をそっとうかがった。
昨晩の出来事が、どうしても頭から離れなかったからだ。
彼に「おやすみなさい」と言った直後、瞬きをしたほんの一瞬だけ、彼を包む紫色の光の輪郭に、見知らぬ「夕陽に似た光」が混ざって見えた。
きっと慣れない場所で疲れていて、見間違えただけだ。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥に小さな不安の棘が刺さったままで、私の足取りは自然と重くなってしまう。
やがて、そんな不安を抱えたまま、私たちは少し開けた廊下のような待合場所に出た。
「こちらの部屋の前でお待ちください」
女の人は抑揚のない声でそう告げると、踵を返して歩き去ってしまった。
規則的な足音が遠ざかると、少し開けたその空間は、音もなくしんと静まり返った。
高い天井と、どこまでも続くような白い石の壁。
エルダリア王国のタウンハウスとも、森の館とも違う、冷たくて張り詰めた空気に、私は思わずドレスの裾をきゅっと握りしめた。
隣を見ると、ニクスはすぐに椅子に座ろうとはせず、少しだけ険しい顔をして周囲の通路を警戒するように見回している。
彼もまた、この魔法院の空気に居心地の悪さを感じているのかもしれない。
私を庇うようにすぐ傍に立ってくれている彼の存在にホッと息を吐き、ようやく壁際の椅子に腰を下ろそうとした、その時のことだった。
「おお、君か! 君が、妖精だけではなく魂の輪郭を視認できるという例の!」
不意に、背後から弾んだ声が響いた。
驚いて振り返ると、女の人と入れ替わるようにして、壮年の魔法使いがこちらへ小走りに近づいてくるところだった。
丁寧に繕われた年季の入ったローブを着て、くすんだ金色の縁の分厚い眼鏡の奥で目を輝かせている。
どうして私のことを知っているのだろうと戸惑う暇もなかった。
「素晴らしい、実に素晴らしい。妖精の眼薬を使用せずに、妖精が見えるだけでなく、生物の気配を光の輪郭で捉える症例は、過去の文献にもなかなか無く――」
彼は息継ぎも忘れたように早口でまくしたてながら、ずいずいと私に距離を詰めてくる。
悪意や害意がないのは、私にもすぐに分かった。
ただ純粋に、珍しいものを見つけて夢中になっているような、子供みたいな好奇心。
しかし、私にとって、立派なローブを着た大人の魔法使いは、それだけで圧倒されてしまう存在だ。
「あの、ええと……」
私は後ずさりながら、どう断ればいいのか分からず、困惑して愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「少しだけ、その瞳の構造を近くで見させてもらえないだろうか。いや、ほんの少し魔力を通して眼底の反応を……」
魔法使いが探求心に突き動かされるまま、私の顔へ向かって手を伸ばしてきた、その瞬間だった。
スッ、と、私の目の前の視界が、大きな背中によって完全に遮られた。
「――っ」
ニクスだった。
彼は私を庇うように、魔法使いと私の間に無言で割り込んだのだ。
その広い背中は、まるで主人の前に立ちはだかる大きな猟犬のように、私を外の脅威からすっぽりと隠してくれていた。
「な、なんだね、君は」
突然立ちはだかった高い壁に、魔法使いが驚いて手を引っ込める。
「この人は、嫌がっている」
ニクスの声は、ひどく平坦で、静かだった。
怒鳴り声を上げたり、物を壊して脅したりするわけでもない。
ただ、「これ以上近づけば決して許さない」という静かで底知れない怒りが、私を庇うその広い背中と、深く低い息遣いからひしひしと伝わってきた。
立派な大人であるはずの魔法使いが、ハッとしたように息を呑み、額にじわりと冷や汗をにじませて一歩、後ずさる。
「お、おお……これは失礼した。あまりにも珍しい体質だったもので、つい我を忘れてしまってね……悪かったよ」
魔法使いは気まずそうに咳払いをすると、逃げるように足早に廊下の奥へと去っていった。
パタパタという足音が遠ざかり、再び静けさが戻ってくる。
「……行ったぞ」
ニクスが振り返り、少しだけ緊張を解いたように息を吐いた。
その顔には、先ほどまでの壁のような冷たさは微塵もなく、いつもの私を気遣う優しい色が浮かんでいた。
見知らぬ大人に気圧されて縮こまっていた私を、彼は当たり前のように庇ってくれた。
少し遅れてその事実に気が付くと、胸の奥からじわじわと、心の底を温めるような感情が湧き上がってきた。
「……ありがとう、ニクス」
私が心からホッとして微笑みかけると、ニクスは少しだけ目を丸くした後、パッと花が咲いたように嬉しそうな顔をした。
「本当か? 余計なお世話じゃなかったか?」
「余計なお世話なんてそんな……。私、どう断っていいか分からなくて困っていたから……ニクスが守ってくれて、すごく嬉しかった」
私がそう伝えると、ニクスは照れくさそうに自分の後頭部を大きな手で掻いた。
「そうか。……なら、よかった」
彼は素直に安堵したように息を吐き、それから、自分の手のひらを不思議そうに見つめた。
「でも、変なんだ」
「変って?」
「あんたが困っているのを見た時……頭で『どうしよう』と考える前に、体が勝手に動いていたんだ」
ニクスは、少しだけ眉をひそめて、自分の内側に湧き起こった感覚を探るように言葉を紡ぐ。
「あんたの言葉を聞く前に、あんたを守らなきゃって……それしか、考えられなかった」
彼は視線を私に戻すと、夜空のような紫に金色の光を浮かべた瞳で、私をじっと見つめた。
「……あんたのことになると、なんだか自分が、よくわからなくなる」
それは、深く考えずに出た、彼自身の素直な戸惑いの言葉みたいだった。
その真っ直ぐな言葉が意味するものを、彼はまだ知らない……のだと思う。
私自身も、胸の奥でトクンと跳ねたこの甘い痛みに、どう名前をつけていいのか分からなかった。
ただ、彼が私のために「よくわからなくなって」くれているということが、今の私には、ひどく泣きたいくらいに嬉しかった。
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