第2部 第2章 サヴェールという名前
魔法院の中心にそびえる白い塔の中は、森の館の温かみのある空気とはまるで違い、どこか冷たく無機質な空気が漂っている。
案内されたのは、壁も床も真っ白な石で造られた簡素な待合室だった。
ムコール様は、「ティリアの能力を登録するための特別な羊皮紙をもらってくるよ。私の可愛い息子の定期報告も済ませてくるからね」と軽い調子で言い残し、一人で部屋を出ていってしまった。
身を翻した彼の肩口で、紫色の長い髪がさらりと美しくなびく。
パタンと扉が閉まり、部屋には私とニクスだけが取り残された。
ふと隣を見ると、長椅子に腰を下ろしたニクスが小さく息を吐き出している。
今日の彼は、魔法院を訪れるために少しかっちりとした外出用の服を着込んでいた。
どこか落ち着かないのか、彼が身じろぎをするたびに、肩まで伸ばした黒い髪が少しだけ揺れる。
二人きりになると、先ほどまで大勢の魔法使いが行き交う廊下で感じていた緊張が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
「疲れてないか、ティリア?」
向かいの長椅子に座っていたニクスが、私の顔を覗き込むようにして声をかけてきた。
その夜空に浮かぶ月のような紫と金色の瞳には、私を気遣う温かい光が宿っている。
「うん、大丈夫。少し緊張したけれど、ニクスが一緒にいてくれるから」
私が微笑んで答えると、ニクスは少しだけ照れくさそうに口元を緩め、大きな手で自分の後頭部を掻いた。
「魔法院は変な奴が多いからな。先生が戻るまで、俺がちゃんと付いててやる」
そう言ってくれる彼の存在が、私には何よりも心強い。
両親からですら忌み嫌われていた私が、こんな立派な場所に連れてこられても落ち着いていられるのは、間違いなく彼のおかげだ。
何気ない言葉をやりとりするうちに、待合室の冷たさが、少しだけ和らいでいった。
その時、静かな部屋にコンコンと、遠慮がちな、けれど確かなノックの音が響いた。
「先生か?いや、早すぎるな……」
ニクスがいぶかしげに眉をひそめながら立ち上がり、扉を開けた。
そこに立っていたのは、さっき塔の廊下ですれ違った、透き通るような青い瞳と銀色の髪を持つ尖り耳の魔法使いだった。
「……何の用だ」
ニクスの声が、一瞬にして低く冷たいものに変わった……にもかかわらず、その魔法使いはニクスの威圧感に怯むことなく、すっと部屋の中へと足を踏み入れた。
「仮面の御仁は不在か……。だが、ちょうどいい。確かめたいことがあったんだ」
彼はニクスの顔を食い入るように見つめ、小さく息を吐き出した。
「君の、祖父や先祖にサヴェールという魔法使いはいなかったか?顔立ちが似ている……血族のはずだ」
「人違いだと言っただろう」
ニクスは不機嫌さを隠そうともせず、冷たく言い放つ。
その間に流れるピリピリとした空気に、私はどうしていいか分からず、ただ長椅子に座ったまま両手をぎゅっと握りしめていた。
すると、魔法使いはさらに一歩踏み込んで、すがるように問いかけてきた。
「ならば、サヴェールが契約していた人造妖精と関係があったりするのか? 彼は百年前、急にいなくなってしまったんだ」
余裕のあった先ほどの態度は完全に崩れ去り、その端整な顔には明らかな焦りが浮かんでいるように見えた。
彼は切羽詰まったように息を吐き、隠しきれない動揺を滲ませて言葉を絞り出す。
「どうなったのか知らないか? ……私は彼の、友人だったんだ」
サヴェール。
人造妖精。
私の知らない名前と、過去にニクスの傍にいたらしい人の存在を匂わせる言葉に、私は小さく首を傾げた。
(契約って、なんだろう……?)
ムコール様とお父さんたちが交わしたような、羊皮紙にサインをするようなものなのだろうか。
わからないけれど、ムコール様やニクスと同じように妖精が視えて、魔法院で認められるほど優秀で立派な魔法が使えた人……そんな凄い人が、過去にニクスの傍にいたのだという事実が、私を少しだけ気後れさせた。
今の私とニクスの関係は、一体何なのだろう。
先生と生徒?
義理の家族?
それとも……。
名前のつかない曖昧な距離感が、急に心細く、焦れったく感じられて、私はきゅっと唇を噛みしめた。
「いい加減にしろ」
地を這うような、恐ろしいほど低い声が部屋を震わせた。
ニクスが私の前を完全に塞ぐように立ち塞がり、圧倒的な威圧感で魔法使いを睨みつけた。
「俺はサヴェールじゃない。あんたの昔話に付き合う義理もない」
ニクスはそう言い放つと、魔法使いの胸倉を掴まんばかりの勢いで扉の方へと追いやった。
「先生が戻る。もう出て行け」
冷たく拒絶するニクスの気迫に押され、魔法使いは小さく舌打ちをして廊下へと退いた。
バタン、と重い音を立てて扉が閉まり、再び部屋に静けさが訪れる。
「……変な奴を入れて悪かったな」
ニクスが振り返り、少しだけ気まずそうに私に声をかけた。
けれど、彼の様子は明らかにおかしかった。
いつもなら「怖くなかったか?」とすぐに私の顔を覗き込んでくれるのに、今の彼は私と目を合わせようとせず、どこか居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。
口数も少なく、長椅子に戻ってきても、私たちの間には気まずい沈黙が流れてしまった。
(ニクスは、サヴェールさんのことを聞かれて嫌だったのかな……)
私は彼にどう声をかけていいか分からず、ただ膝の上のスカートをぎゅっと握りしめていることしかできなかった。
すると、ニクスがぽつりと呟くように口を開いた。
第2章-2
「……気になるよな。でも、この話をするかは、俺が勝手に決めちゃいけない気がするから、先生を待とう」
そう言う彼の横顔は、ひどく思い詰めているように見えた。
重苦しい沈黙がしばらく続いた後、廊下から足音が近づき、部屋の扉が開かれた。
戻ってきたムコール様は、見知らぬ女の人を伴っていた。
栗色の髪を後ろでまとめ、飾り気のない簡素な服を着た人だ。
二人が私たちの前まで歩み寄ると、ムコール様は私に一枚の羊皮紙とペンを差し出した。
「これにティリアの名前を書けば、君の登録は終わりだよ」
私は言われた通り、教わったばかりの文字でぎこちなく自分の名前を書き込んだ。
すると、書き終えた文字がチカッと金色に光り、ペンを握っていた指先が一瞬だけカッと熱を持った。
「あっ……」
私が驚いて小さく声を上げ、自分の指先を見つめると、ムコール様が仮面の奥で楽しげに目を細める気配がした。
「驚かせてしまったね。それが魔法院に登録されたという証さ。……それにしても、字もずいぶん上手になってきたじゃないか」
思いがけず褒められ、私は照れくさくて小さく頷いた。
「よし、これで手続きは無事に終わったよ」
ムコール様はそう言うと、書き終えた羊皮紙をくるくると丸め、連れてきた女の人へと手渡した。
女の人は、受け取った羊皮紙を小脇に抱え、落とさないよう大切そうに持っている。
「ただ、ニクスの詳しい検査もすることになったから、今日は敷地内にあるゲストハウスで一泊して明日帰ることにしよう」
ムコール様からそう告げられ、私たちは頷いた。
「ゲストハウスへご案内します。こちらへどうぞ」
羊皮紙を抱えた女の人が、抑揚のない声でそう言った。
私たちは立ち上がり、静かに部屋を出て彼女の後を追う。
塔の内部はどこも似たような白い石造りの廊下が続いていて、もし一人だったらすぐに迷子になってしまいそうだ。
時折すれ違う魔法使いの人たちも、皆どこか足早で、それぞれが忙しそうにしている。
そんな少し緊張する空気の中をしばらく歩き、ようやく重厚な扉が外へと開かれた。
私たちは彼女に案内されるがまま、白い塔の外へ出た。
冷たい石の壁に囲まれた空間から解放され、外の空気を吸い込んで、私は小さく息を吐き出した。
塔の周りには、綺麗に切り出された石が敷き詰められた、まん丸い大きな広場があった。
広場は、真っ白なレンガを積み上げて造られた高い塀でぐるりと囲まれている。
その塀の一部に設けられた立派な門には、銀色の鎧を着た兵士が二人立っていた。
「来客三名をゲストハウスへ案内するように命じられています」
案内をしてくれる女の人が、抑揚のない声でそう告げながら、木でできた小さな札のようなものを兵士さんに差し出した。
(……ん?)
その時、彼女が腕を伸ばした拍子に服の袖が少しだけ捲れ、手首の内側に二本の赤い線のような模様が描かれているのが見えた。
不思議に思って私が目を瞬かせている間に、兵士さんは札を素早く確認し、「通れ」と短く応じて道を空けてくれた。
そうして私たちは、すんなりと門を通り抜けることができた。
門を抜けた先にあったのは、石レンガで作られた、とても丈夫そうで美しい建物だった。
村にある木と土でできた家とはまるで違う、お城の端っこを切り取ってきたような立派な造りに、私は思わずほうっとため息を漏らした。
ここが、私たちが泊まるゲストハウスなのだという。
中に入ると、廊下にはふかふかの絨毯が敷かれていて、歩いても足音がほとんど響かなかった。
案内された私用の客室は、村の家よりもずっと広くて、清潔なベッドや立派な木の家具が備え付けられている。
天井からは光蟲が入った角燈が吊るされていて、夕焼けのような温かい光で部屋を照らしてくれていた。
その優しい温もりに包まれて、私はようやく張り詰めていた息を深く吐き出すことができた。
寝室の位置を案内され、一息吐いた後、ムコール様やニクスと一緒に、ゲストハウスのダイニングへと向かった。
広いダイニングにいたのは、私たち三人と、世話をしてくれる魔法院の使用人たちだけだった。
彼らは城下町のお屋敷にいた人間味のある使用人たちとは違い、お喋り一つしない。
森の館にいる顔を隠した使用人たちのように、一言も会話を交わすことなく、ただ黙々と食事の準備を進めていた。
全員確認出来たというわけではないけれど、気をつけて見ると多くの使用人が手首に赤い二本の線を描いている。そういう決まりでもあるのかな……。
そんなことを考えながらも、ニクスやムコール様に聞く気にならず、静かで落ち着いた空間にほっとしながら、ニクスの隣の席に腰を下ろす。
席に着いてからすぐに運ばれてきたのは、ふかふかの白いパンと、お肉や野菜がたっぷりと入った温かいシチューだった。
「ほら、しっかり食っておけ。今日はよく頑張ったんだからな」
ニクスはそう言って、自分の取り分から大きなお肉を私の皿へと移してくれる。
ムコール様も、仮面の奥で目を細めながら優しく労ってくれた。
二人の温かい気遣いと美味しい食事の味に、胸の奥までじんわりと温かくなっていく。
食事がそろそろ終わりに差し掛かった頃、ニクスがスープを飲み干して不意にスプーンを置き、ムコール様に話しかけた。
「先生がいない間、あの耳長族の男が部屋に来て、サヴェールのことについて話していったんだ。それで、ティリアが気になっているみたいでさ」
ニクスは私の方を見てから、意を決したように息を呑み、言葉を続けた。
「先生から、サヴェールについて、ティリアに教えてやれないか?」
その温かな言葉に、私は思わず目を見張った。
昼間の、あの気まずくて曖昧な空気を、彼なりに解消しようとしてくれているのだ。
ムコール様は少し驚いたようにニクスを見つめ、それから可笑しそうに仮面の奥で目を細めた。
「君は、本当にティリアに甘いね……」
ふふ……と声を漏らして笑ったムコール様は私へと向き直り、いつも通りの穏やかな声で語り始めた。
「サヴェールというのはね、約百年前、この魔法院に所属していた中級魔法使いだよ。君と同じようにお隣さんを見ることが出来て、明確な自我を持つ前のニクスと契約を結んでくれた……とても優秀な人物だった」
ムコール様やニクスと同じように妖精が視えて、魔法院で認められるほど立派な魔法が使えた人。
そんな凄い人が、過去にニクスの傍にいたなんて……。
(私なんて、魔法も使えないし、お隣さんとだって話せないのに……)
サヴェールという人に対して嫉妬しているわけではない。
ただ、私に似ているようで、私よりもずっと立派だった人の存在に、胸の奥が少しだけざわめいた。
「ニクスと彼が間違われるのには事情があるのだけれどね……それは、また今度にしようか。君も今日は疲れているようだし」
そこへ、ムコール様が穏やかに笑いながらそう言って話を切り上げた。
少し肩をすくめた彼を横目に、ニクスが私の顔を覗き込むようにして視線を合わせてくる。
その月のように温かい紫と金色の瞳が、私の強張りを優しく解きほぐすように、そっと細められた。
「……サヴェールのこと、俺はほとんど知らないんだ。こうやって色々考えるようになったのは、サヴェールがいなくなった後だからさ」
私を安心させるように、ぽつりと語る彼の言葉に、胸のざわめきがすうっと引いていくのを感じた。
強張っていた緊張が、心の底からゆっくりと解けていく。
温かいシチューでお腹が満たされた安心感も手伝ってか、食事を終えて自分の部屋へ戻る頃には、心地よい眠気とともにすっかり身体が重たくなっていた。
窓の外がすっかり暗くなり、夜の帳が降りた頃。
あてがわれた客室で休む準備をしていると、コンコンと扉を叩く音がして、ニクスが私の部屋へ様子を見に来てくれた。
「ティリア、今日は一日、疲れなかったか?」
扉の前に立つ彼は、昼間の不機嫌さが少し抜けて、いつもの優しい声色に戻っていた。
「ううん、大丈夫。……ニクスこそ、今日はいきなり変な人が来て、嫌な思いをしたんじゃない?」
私が気遣うように尋ねると、彼は少しだけ目を丸くした後、ふっと表情を和らげた。
「俺は平気だ。ただ、あんたを変な奴に近づけちまったのが嫌だっただけだ。……守りきれなくて悪かった」
その温かな言葉に、胸の奥がきゅうっと甘く締め付けられる。
ニクスの隣に、過去特別な人がいたとしても、今、こうして私のことを一番に心配して、守ろうとしてくれているのは間違いないのだ。
「そんなことない。守ってくれて、ありがとう」
私が心から微笑むと、ニクスもホッとしたように目を細め、小さく頷いた。
「じゃあ、ゆっくり休んでくれ。おやすみ、ティリア」
「おやすみなさい、ニクス」
そう言って、私がふっと瞬きをした、その瞬間だった。
私の目に映る、彼を包み込む深い紫色の光の輪郭。
いつもなら月夜のように美しく揺らめくその紫色の光の中に、瞬きをしたほんの一瞬だけ、チラリと「夕陽のようなの光」が混ざって見えたのだ。
「え……?」
私は思わず小さく声を漏らし、もう一度確かめるように、そっと目を閉じて彼の光の輪郭を見つめ直した。
けれど、そこに映っているのは、いつもの深い紫色の光だけだった。
夕陽色をした光なんて、どこにも見当たらない。
「どうした?」
不思議そうに首を傾げるニクスに、私は慌てて首を横に振った。
「ううん、なんでもないの。気のせいみたい」
きっと、慣れない場所で疲れていて、見間違いをしただけだ。
そう自分に言い聞かせ、私は少しだけ早鐘を打つ胸の音を隠すように、そっと扉を閉めた。
毎朝7時半くらいに投稿しています。今日までは2話投稿しています。
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