第2部 第1章-2 春の兆しと、魔法院からの招待状
あれから三日後、いよいよ私たちは、魔法院へと出発することになった。
「日帰りでもいいし、数日泊まるにしても向こうで大抵のものは手に入るから、軽装でもいいからね」
ムコール様にそう言われたものの、本当に鞄一つ持たずに来てしまった私は、なんだか落ち着かなくて自分の服の裾をぎゅっと握りしめた。
「準備は出来たみたいだね。さあ、行こうか」
出発の場所として彼に案内されたのは、なぜか玄関ではなく家の地下だった。
屋敷の地下にあるワインセラーの奥にある大きくて重たい扉が、ギギギと鈍い音を立てて開かれると、その向こうには真っ暗な洞穴のような場所がぽっかりと口を開けている。
深く甘い、古い土と花が混ざったような香りがふわりと流れ込んでくると、私はこれから向かう未知の場所への緊張に小さく息を呑んだ。
足元には、前にも見た微かに発光する苔や紫色の糸みたいなものが道標のように点在している。
ムコール様と出会ったあの夜は恐怖で目を向ける余裕もなかったけれど、今はその不思議な光景に思わず目を奪われてしまった。
「ほら、はぐれないようにな」
不意に、横にいたニクスが私の手をそっと包み込んでくれた。
少しだけ前を歩く彼の大きく温かい手が、強張っていた私の指先をゆっくりと解し、しっかりと導いてくれる。
先頭を歩くムコール様は、慣れた足取りで迷いなく道を奥へ奥へと進んでいく。
静かに先導してくれる彼の足跡をたどるように、私はニクスの歩幅に合わせてゆっくりと足を踏み出した。
洞穴のずっと奥の方には、ラベンダー色の不思議な光がぼんやりと浮かんでいる。
初めてここを通った時は、暗闇に潜む不気味な気配と獣のような低い唸り声に、足がすくんで一歩も動けなくなるほど恐ろしかったはずだ。
それなのに今は不思議なほど静かで、少しも怖くない。
繋いだ手から伝わるニクスの体温と、一定のリズムで響く静かな足音が、私に「一人じゃない」と教えてくれるからだ。
彼にしっかりと手を引かれるまま、不思議な静けさに包まれた暗がりをただ進んでいく。
時折、ニクスが気遣うように私を振り返ってくれるのが嬉しくて、私はその度に小さく頷き返した。
どれくらい、そうして歩いただろうか……。
やがて、大きな木の洞のような場所をくぐるムコール様の後を追い掛けると――ふいに、真っ白な光が目に入った。
「っ……」
思わず目を細めた私の肌を、どこか冷たく、無機質な空気が撫でる。
地下特有の湿った土の匂いは、すでにどこにもなかった。
おそるおそるまばたきをして周囲を見渡すと、たどり着いたのは壁も床も真っ白で四角い、小さな部屋だった。
歩いた時間は普段過ごしている森のお屋敷の周りを一周するよりも短かったはずなのに、馬車で数十日はかかるという遠い場所へ一瞬で移動してしまったなんて、なんだか足元がふわふわして、不思議でそわそわしてしまう。
「……ここが、魔法院」
私が緊張で思わず呟くと、隣に立つニクスが気遣うように私の肩を引き寄せた。
「魔法院の中心にある、白い塔の内部だよ。特別に許可をもらったんだ」
前を歩いていたムコール様が、いつものように外出用の仮面で顔を隠したまま振り返る。
「本来なら、敷地の外にある森などに転移してから、馬車に乗って移動をするんだ」
魔法院のことはよくわからないけれど、どうやらとてもすごいことらしい。
私が驚いて小さく瞬きをしていると、隣にいたニクスが言葉を続けるように口を開いた。
「そうだな。近くに大きな港街もある。帰りに寄っても良いな」
ニクスはぽんぽんと私の頭を撫でて、優しく笑いかけてくれた。
二人の気遣いのおかげで、少しだけ緊張が解けていく。
ふう、と小さく息を吐き出した私を確かめるように、ニクスがもう一度優しく手を引いてくれた。
再び歩き出したムコール様の後を追い、私たちは白い部屋の出口へと向かった。
部屋の外に出ると、そこは長く続く石造りの廊下だった。
青みがかった灰色や青色のローブを着た人たちや、鎧を着た人たちが行き交っている。
「鎧を着ているのは、見張りの兵士達だね」
物珍しさに私が視線を彷徨わせていると、ムコール様が優しく教えてくれた。
その言葉に頷いていると、隣にいたニクスが少しだけ眉をひそめる。
「ローブを着ているのは魔法使いだ。それにしても、相変わらずヒトの子が多くて落ち着かないな」
見慣れない光景に戸惑う私を安心させるように、二人はそうやって代わる代わる声をかけてくれる。
すれ違う人たちは、仮面をつけたムコール様や私たちの方を見て、遠巻きにヒソヒソと話しているけれど、近付いてくる気配はない。
やがて、案内をしてくれるという青みがかった灰色ローブの魔法使いがこちらへ近づいてきた。
彼は私たちの前で立ち止まると、深く丁寧にお辞儀をする。
「ムコール様とニクス様、そしてティリア様ですね。ご足労いただきありがとうございます。こちらへどうぞ。手続きのための準備は出来ています」
促されるまま、私たちは彼の後を追うことになった。
その途中、石造りの廊下の角を曲がった先でのことだった。
向こうから歩いてきた一人の魔法使いが、ふと私たちの前で足を止める。
人の姿に化けた時のムコール様のように尖って長い耳と、新雪のように輝く銀色の髪、そして透き通るような青い瞳をしている。
これが、ムコール様に教えてもらった『耳長族』という方々の一人なのだろうか。
彼は信じられないものを見るような目でニクスをじっと見つめ、小さく唇を震わせる。
「……サヴェールなのか? いや、しかし……」
ぽつりとこぼれ落ちたその名前に、ニクスは面倒くさそうにポリポリと髪を掻き、深々と溜め息を吐いた。
まったく心当たりがないというよりは、またかと言わんばかりの態度だ。
対するムコール様は、仮面の奥で何を考えているか分からないまま、いつもの柔らかな声色で告げる。
「人違いです。ヒトである彼が、今も生きているはずはないでしょう」
足を止めることなく発せられたその穏やかな言葉に、魔法使いはハッとしたように道を譲った。
二人はまったく動じることなく、そのまま真っ直ぐに歩みを進めていく。
突然の出来事と見知らぬ名前に戸惑う私だけが、すっかり取り残されたような気分で、慌てて二人の背中を追いかけた。
(サヴェールさんって、誰だろう……?)
小さな疑問が、胸の奥にチクリと刺さった。
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