第14章-4 2つの恐怖4
「これにどんな効果があるかは、明日のお楽しみということにしておこう」
ムコール様は穏やかにそう言いながら、そのペンダントを私の首にかけると、見えないように服の内側へとそっと隠してくれた。
「君の『元』両親には、大切な私の娘を傷付けた報いを受けてもらうことにしよう。ティリア、もう少しだけ我慢をしてもらうことになるが、いいかい?」
明日、どんなことが起こるのか私にはわからない。
不安で言葉に詰まる私を安心させるように、ムコール様はひっかき傷のついた腕をそっと撫でてくれた。
その温かな手のひらと静かで揺るぎない声が、強張っていた私の心をゆっくりと解きほぐしていく。
「……はい。私、ここに残ります。大丈夫です」
私がまっすぐに彼を見つめて頷くと、ムコール様は満足そうに微笑んで、静かに納屋を出ていった。
残された私は、再び冷たい床に横たわる。
けれど、もう一人ではなかった。
ニクスは人間の姿に戻ることはなく、大きな獣の姿のまま、私の背中を包み込むように寄り添ってくれた。
彼の柔らかい毛並みから伝わる穏やかな温もりが、冷え切った身体をゆっくりと溶かしていく。
暗闇の中で両親の戻りを待つのは、やっぱり足がすくむほど恐ろしい。
冷たい声や叩かれた痛みが蘇ってきて、時折、指先がひどく震えてしまう。
けれど、背中に感じる大きな息遣いと確かな鼓動が、私を一人にはしなかった。
怖い。でも、絶対に大丈夫。
明日の朝になれば、彼らが必ず助けに来てくれる。
私はニクスの温もりの中で、二人がくれた約束を胸に抱きしめ、静かに夜明けを待った。
凍えるような長い夜が明け、木板の隙間から白々とした光が差し込み始めた頃。
不意に外から重い足音が響き、かんぬきが外される音がした。
私がびくりと肩を揺らすと、背中に寄り添っていたニクスは、影のように身体を小さくすると、板壁のわずかな隙間からするりと外へと抜け出していった。
大丈夫だという彼らの言葉を胸の中で何度も繰り返し、私は一人、冷たい床の上で身を縮めた。
乱暴に扉が開け放たれ、朝の冷気とともに、わざとらしく泥を被った両親が納屋に入ってくる。
「さあ、行くぞ。余計な口を利いたらどうなるか、分かっているね」
お父さんが無言で私の手足の荒縄を乱暴に解き、床に放り捨てた。
すかさずお母さんが私の腕をきつく掴み、強引に立ち上がらせる。
私は怯えたふりをして――半分は本当に怯えながら――両親に引きずられるようにして、村の外れからマナーハウスへと歩かされた。
早朝の冷たい空気が、破られた服の隙間から容赦なく肌を刺す。
恐怖で足がもつれてつまずく度に、お母さんは「さっさと歩きな!」と私の腕を強く引っ張り、お父さんは背中を乱暴に小突いてきた。
その度に身体の節々が痛み、息が詰まりそうになる。
やがて村の中心部へ近づくにつれ、騒ぎを聞きつけた村人たちが次々と家から出てきた。
「おい、あれティリアじゃないか……」
「確か、魔物に攫われたって……」
「助かったのか? ひどい怪我だ……」
好奇と哀れみの混じった視線とひそひそとした囁き声が、四方から私に突き刺さる。
彼らに悪意はないのだと分かっていても、人々のざわめきは私の心をさらに萎縮させ、身体の震えを強めた。
もつれる脚を必死に動かし、ようやくマナーハウスの門前へと辿り着く。
館を囲む柵の向こう、広い前庭にはすでに騒ぎを聞きつけた村の大人たちが集まり始めていた。
両親は門に立つ見張りの騎士を見つけるなり、わざとらしく地に伏せ、悲痛な声を張り上げた。
「魔物に攫われた娘を、私たちが命がけで助け出しました!」
お父さんのその声に、集まった村人たちがどよめく。
「可哀想なティリア、もう大丈夫だからね」
お母さんが大げさに涙を浮かべて私を抱き寄せるけれど、その手は逃げないように私の腕をきつく捻り上げていた。
その時、前庭の奥にある館の玄関扉がゆっくりと開いた。
中から現れたのは、冷たい眼差しをしたシルヴァン様だった。
そしてその後ろには、静かに仮面の奥の目を細めるムコール様と、深い怒りを押し隠したような無表情のニクスが続いている。
三人の姿を見た瞬間、張り詰めていた胸の奥がふっと温かくなる。
両親は、身分の高い騎士とムコール様の姿を認めるなり、卑屈な笑みを浮かべて地面に膝をついた。
「おお、騎士様、そしてムコール様。森で恐ろしい魔物に襲われていた娘を、無事に保護いたしました!」
お父さんが大げさに声を張り上げると、お母さんもそれに同調するように泣き真似を始めた。
「昨日の夕暮れ時、この子が突然、恐ろしい咆哮を上げる巨大な魔物に攫われてしまったのです」
お父さんは、さも本当に恐ろしい出来事に遭遇したかのように声を震わせた。
「私たちは夜通し暗い森の中を探し回り、魔物の群れが巣で眠っている隙を突いて、命がけでこの子を奪い返してまいりました」
昨日の夕暮れ時に私がいなくなったということ以外は、すべて事実とは違う言葉だった。
「どうか、親のこの必死の働きに、慈悲深い御恩賞を……」
私に良くしてくれたムコール様からお金を騙し取ろうとする悲痛なふりを聞いて、私はいたたまれずに顔を伏せた。
シルヴァン様は彼らの言葉を遮ることもなく、しばらく黙ってその芝居がかった懇願を見下ろしていた。
「ほう。恐ろしい魔物の群れから、命がけで娘を救い出したと」
静かな確認の声に、両親はしめたとばかりに深く頷いた。
「ええ、ええ! それはもう恐ろしい爪を持った獣で……この子が引き裂かれそうになったところを、私たちが間一髪で!」
お父さんの得意げな言葉を聞き終えると、シルヴァン様は呆れたように鼻で笑った。
「なるほど。だがおかしいな」
その冷徹な声色に、広場の空気がぴんと張り詰める。
「魔物の巣を完全に沈黙させたのは昨日の日暮れ前だ。君たちが『娘がさらわれた』と騒ぎ出したのはその数刻後……存在しない魔物から、どうやって彼女を救い出した?」
その鋭い宣告に、お父さんの顔からさっと血の気が引くのが見えた。
「そ、それは……隠れ潜んでいた残りの魔物が……」
「見苦しい。その恐ろしい爪でやられたという傷もだ」
しどろもどろに言い訳を重ねようとする両親を、シルヴァン様は容赦なく追い詰める。
「傷は浅く、衣服の破れ方も不自然。魔物の攻撃なら肉が抉れるはずだ。……ただの木片か何かで付けた偽装の傷だろう」
図星を突かれ、お母さんが息を呑む音が聞こえた。
そこへ、シルヴァン様たちの傍らに控えていたニクスが静かに進み出ると、私の腕をそっと取った。
彼は服の袖を優しくまくり上げると、荒縄で擦れて赤く腫れ上がった私の手首の痕を、村人たちの前にはっきりと晒した。
「魔物が、人間を荒縄で縛るのか?」
ニクスの低くドスを効かせた声に、集まっていた村人たちの間にざわめきと非難の声が広がり始める。
周囲の空気が一変したことに焦ったのか、両親はさっと血の気を引かせて必死に顔を見合わせた。
「そ、そんな出鱈目な言いがかりを! 私たちはただ、娘を……」
「ティリア、私が持たせていた御守りがあるね?」
残り1話で第一部は完結予定です。
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