第12章-3 小さな手仕事と冬の足音3
ニクスは私に向かってそう言うと、迷いなくひょいと子供を抱き上げた。
そして、周囲を鋭い視線で見渡すと、すぐに通りの向こうを指し示した。
「あそこの屋台の陰だ。茶色いコートを着た赤い髪の女が、血相を変えてウロウロしてるぞ」
「本当だ! ちょっと声をかけてきます!」
赤い髪の男性は、ニクスの高い視点からの的確な指示に目を丸くした後、「すぐに行ってきます!」と迷うことなく人混みを掻き分けて駆けていった。
見ず知らずの子供のために一生懸命になってくれるその背中を見送りながら、私は温かい気持ちで小さく息を吐いた。
ほどなくして彼が連れてきた母親は、ニクスに抱き上げられた子供を見るなり、泣き崩れるようにして駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」と涙ながらに我が子を強く抱きしめるお母さんの姿に、本当に見つかってよかったと心から安堵する。
何度も何度も頭を下げて感謝しながら帰っていく親子を見送った後、男性は安心したように顔を綻ばせ、私に向かって優しく微笑んだ。
「君がすぐに気づいてあげて良かった。優しいんですね」
彼からの気負いのない称賛に、私は戸惑って少しだけ俯いた。
「あ、申し遅れました。僕はルークと言います。君たちは?」
「私は、ティリアです。彼は……」
私が隣に立つニクスとの関係をどう説明すべきか一瞬迷い、以前この街の仕立て屋を訪れた時のことを思い出した。
あの時、私たちは夫婦に間違われ、ニクスが私のことを「義理の妹」だと訂正してくれていた。
だからここでも、そう紹介するのが一番自然なはずだ。
「私の、兄なんです。血は繋がっていませんが……」
私がそう紹介すると、ルークは納得したように微笑んだ。
「なるほど。高い場所からあの子のお母さんを見つけてくれて、本当に助かりました」
ルークは私の隣に立つニクスを見て、感心したように言った。
急に「兄」と紹介されたことに少し戸惑ったのか、ニクスは一瞬だけパチリと瞬きをした。
けれど、すぐにいつもの落ち着いた態度に戻り、ルークに向かって口を開いた。
「俺はニクスだ。……こちらこそ、母親を連れてきてくれて助かった」
「とんでもない! お互い様ですよ、ニクスさん」
ルークは明るく笑い、それから少しだけ真面目な顔になって私を見た。
「どうでしょう、ティリアさん。もしよければ、僕が少しお祭りの案内にお誘いしても?」
彼からの親切な申し出に、私がどう答えるべきか戸惑って隣を見上げると、ニクスは口を固く引き結び、少しだけ目を伏せていた。
私を庇うようにすぐ傍に立ってくれているのに、どこか遠くへ行ってしまいそうな、ひどく静かな気配だった。
いつもなら、色々なことを決めて私の手を引いてくれる彼なのに、今はただ押し黙ったまま、私に返答を委ねているようだった。
「あの……」
私が不安になって、ニクスの服の袖をそっと引こうとした時、人混みを割って見知った長身の騎士が現れた。
「ルーク。警備の持ち場を離れて何をしている」
祭りの警備体制を視察中だった、シルヴァン様だった。
ルークは慌てて姿勢を正し、シルヴァン様に向かって敬礼をした。
「し、シルヴァン団長! 申し訳ありません、迷子になった子の母親を探していて……」
どうやら彼は、シルヴァン様の部下の騎士だったらしい。
シルヴァン様は呆れたように息を吐いた後、ふと私たちの存在に気がついて目を丸くした。
「なんだ、君たちも街に来ていたのか。……奇遇だな、『お兄さん』」
シルヴァン様はニクスを見て、少しだけからかうように口の端を上げた。
「《《今は》》まだ兄なだけだ」
ニクスが真っ直ぐに言い返すと、シルヴァン様は愉快そうに喉を鳴らした。
「えっ、団長のお知り合いだったんですか!?」
驚くルークに、シルヴァン様は「ああ」と頷いた。
「ムコール殿の縁者だ。彼らは私の客人のようなものだから、無礼のないようにな。……さあ、母親探しが終わったのなら、持ち場へ戻れ」
「は、はい! それではティリアさん、僕はこれで! また後で!」
ルークは屈託のない笑顔で私に手を振ると、慌ただしく人混みの中へと駆けていった。
シルヴァン様の知り合いなら、きっと彼も立派で誠実な方なのだろう。
「やれやれ、騒がしい部下で済まなかったね。それでは、良いお祭りを」
シルヴァン様も私たちに軽く手を挙げ、警備の巡回へと戻っていった。
嵐のように現れては去っていった二人の騎士を見送った後、私は隣のニクスを見上げた。
彼は少しだけホッとしたように表情を緩めると、気を取り直したように私に向かって優しく微笑んだ。
「色々あったが、とりあえず揚げ菓子でも買いに行くか?」
その穏やかな声といつもの優しい眼差しに、私の中にあった戸惑いもふっと溶けて消えていく。
「……はいっ!」
私が嬉しそうに頷くと、ニクスはそっと私の手を握り、再び祭りの賑わいの中へと歩き出した。
甘くて温かい揚げ菓子と、ニクスが教えてくれたヒイラギの葉を模した可愛らしい焼き菓子を買い、二人で屋台を見て回る。
そうして夕刻を知らせる鐘が鳴る頃、私たちは約束通り市庁舎前の広場へと向かった。
広場に停まっていた馬車には、すでに用事を済ませたムコール様が待っていた。
「おかえり。二人とも、楽しめたみたいだね」
ムコール様からの穏やかな声掛けに、私は手にした焼き菓子の包みを大事に抱えながら、「はい!」と笑顔で頷いた。
そうして無事にムコール様と合流し、私たちは行きと同じ馬車に揺られてタウンハウスへと帰還したのだった。
お祭りから数日が経ち、タウンハウスでの滞在も終わりに近づいていた頃。
私は日中のほとんどを、温かい日差しが差し込む部屋で、年配の使用人から刺繍の手ほどきを受けて過ごしていた。
数ヶ月かけて少しずつ進めていた、ムコール様へ贈るためのハンカチの刺繍を仕上げるためだ。
何度も糸を絡ませ、そのたびにやり直して、ようやく形になった小さな模様。
森の館に連れてきてもらったあの日から、私が彼にもらったものは数え切れない。
だからこそ、今の私にできる精一杯の感謝を込めたかったのだ。
「ティリア様、とてもお上手になりましたね」
目を細める彼女に励まされながら、私は祈るような気持ちで最後の一針を縫い終えた。
やがてお茶の時間になり、私は刺繍が完成した約束のハンカチを、少しだけ緊張しながらムコール様へ差し出した。
こんな不格好なものを贈られて、迷惑ではないだろうか。
そんな不安で胸をどきどきさせながら、私は言葉を紡ぐ。
「あの、あまり上手ではないかもしれませんが……ムコール様への、お礼です。私を助けてくださって……本当にありがとうございました」
ムコール様は少し驚いたようにハンカチを受け取ると、そこに施された不器用な刺繍の模様をじっと見つめ、静かに目を細めた。
「タウンハウスで初めて針を持ってから、季節がふたつ巡っただけだというのに……素晴らしい手仕事だ。君は物覚えがとても良いみたいだね。大切にするよ」
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