第12章-1 小さな手仕事と冬の足音1
あの温かい手のひらで頭を撫でられ、泥のように冷たかった心が溶けていったあの日から、少しずつ時間が流れた。
あれから十分に休息をとらせてもらい、すっかり熱も下がった私は、ようやく一人でベッドから起き上がることができるようになっていた
少しだけふらつく足取りで自室の扉を開け、見慣れたロングギャラリーへと足を踏み出す。
窓から差し込む冬の淡い光が、磨かれた床を冷たく照らしている。
壁沿いに置かれた飾り棚に目を向けると、そこにはあの青い百合が活けられていた。
私が熱を出した日、ムコール様がサイドテーブルに飾ってくれたものを、ここに運び出したのだろう。
高い天井から吊るされた分厚い色硝子の照明の中で、光蟲が夕焼けのような光をゆっくりと明滅させている。
その重々しくも暖かな光の波の中で、青い百合は仄かに、けれど確かに美しい光を放っていた。
足を止めて花を見つめていると、不意に、すぐそばの扉が開く音がした。
振り返ると、自室から出てきたニクスと鉢合わせになる。
彼は部屋着姿の私を見た瞬間、驚いたように大きく目を見開いた。
「ティリア……もう、歩けるのか?」
大きな手が伸びてきて、私の両手をそっと、けれど逃がさないように包み込む。
彼の手は、私が三日間の眠りから目を覚ましたあの日と同じように、切実に震えていた。
「……良かった」
心底安堵したような声がこぼれる。
それから彼は、私を労わるような優しい眼差しになり、静かに言った。
「もう、自分を粗末にするようなことはしないでくれ」
あの日に聞いた言葉が、もう一度、深く静かに繰り返される。
ただの熱で、こんなにも心を痛めて、私のために必死になってくれる人がいる。
その事実に、強ばっていた指先がほのかにほどけ、私は彼を安心させるように、その大きな手をそっと握り返した。
「ニクス……ありがとう。心配をかけてしまって、ごめんなさい。もう、無茶はしないから」
私が約束するように微笑みかけると、ニクスは少しだけ安堵したように息を吐いた。
そんな私たちのやりとりを邪魔するように、するすると床を滑るような、不思議な音が廊下に響いた。
「やあ、二人とも。ティリアはすっかり元気になったようだね」
足元のほうから聞こえた声に視線を落とすと、小さなキノコの傘を揺らしながらムコール様が近づいてくるところだった。
彼は後ろに伸びた触手を引き摺りながら私の足元までやってくると、見上げるようにしてキノコの傘を傾けた。
「ティリア、君は寒迎祭は知っているかい?」
「ええと……放牧を終わらせて、冬支度をするお祭り、ですよね?」
私が村での記憶を頼りに答えると、横からニクスが補足するように言った。
「城下町の祭りは、出店も増えてずいぶんと賑やかになるんだ。この間行った揚げ菓子の屋台でも、祭りの時だけ出す特別な菓子があるらしいぞ」
そう言って、ニクスは少し期待したような眼差しを私に向ける。
彼も一緒に行きたいのだと伝わってきて、胸のつかえがふっと軽くなった。
「本格的な冬が来る前に、君の冬服も新しく誂えたいし、久し振りにタウンハウスにも顔を出したいしね。気晴らしに、一緒に行かないかい?」
ムコール様からの提案に、私は目を丸くした。
私のためにわざわざ服を誂え、祭りに連れ出そうとしてくれている。
かつての私にとって、冬はただ飢えと寒さに耐えるだけの、恐ろしい季節でしかなかった。
けれど、この温かい人たちと一緒に迎える冬は、一体どんな景色なのだろう。
胸の内に小さな明かりが灯ったように温かくなり、私はほんの少しだけ目を輝かせて、こくりと頷いた。
城下町へ行くことが決まってからというもの、私は少しだけそわそわとした気持ちで日々を過ごした。
新しい冬服をどんなものにするか話し合ったり、旅の荷物をまとめたりしているうちに、数日間はあっという間に過ぎ去っていった。
そうして、いよいよ出発の朝を迎えた。
身支度を整えて玄関ホールへと向かうと、そこには人間の姿をとったムコール様が立っていた。
顔の上半分を精巧な仮面で覆い、上質な外套を羽織ったその姿は、初めて私の村にやって来た時とまったく同じだ。
あの時は、得体の知れない恐ろしさにただ震えるばかりだった。
けれど、今は少しも怖くない。
むしろ、その姿を見るとなんだかほっと安心してしまう自分がいた。
「じゃあ、出発しようか」
ムコール様の声で、私たちは彼が手配した豪華な馬車に乗り込んだ。
道中、ニクスは私が少しでも寒がらないよう、過保護なほどに毛布を掛け直してくれた。
夜は街道沿いの宿屋で温かな食事と休息を取り、無理のないペースで馬車は進む。
そうして館を出発して三日が過ぎた頃、馬車の窓から見える景色は徐々に人の活気に満ちたものへと変わっていった。
やがて私たちは、ムコール様が所有するタウンハウスのある、賑やかな城下町へと到着した。
この街を訪れるのは二度目だったけれど、寒迎祭の準備で明るく活気づく街並みは、以前見た時とは全く違う表情をしていた。
人々が笑顔で冬の訪れを祝う祭りの風景は、飢えと寒さに耐えるだけだった私にはとても新鮮で、眩しく見えた。
タウンハウスに到着すると、留守を預かっていた使用人たちが私たちを温かく出迎えてくれた。
「ティリア様、お元気そうでなによりです」
以前、私に刺繍の手ほどきをしてくれた年配の使用人が、優しく目を細めて声をかけてくれる。
「はい。お久しぶりです、またお会いできて嬉しいです」
数ヶ月ぶりの再会に、私は自然と顔を綻ばせながら頷いた。
彼女たちの変わらない優しさに触れて、長旅の緊張がふっと解けていく。
私たちの荷物は、使用人たちが手際よくそれぞれの部屋へと運び込んでくれた。
あてがわれた部屋のふかふかのベッドに横たわると、馬車の揺れで溜まっていた疲れがゆっくりと溶け出していく。
明日のお祭りは、どんな景色が見られるのだろう。
そんな期待に胸を膨らませながら、私は深く静かな眠りについた。
翌朝、ダイニングには焼きたてのパンと温かいスープの良い香りが漂っていた。
三人で食卓を囲んでいると、ムコール様が優しく声をかけてきた。
「私は用事を済ませるために街の方へ行くけれど、君たちも一緒に行くのなら馬車に乗っていくかい?」
「城下町、ですか……」
お祭りを見てみたい気持ちはあったけれど、人の多さに気後れして私が少しだけ迷っていると、隣に座っていたニクスが真っ直ぐに私を見て目を細めた。
「せっかくだし行こう。先生が別行動になっても、今度は俺も離れたりしないから、大丈夫だ」
前にこの街へ来た時、彼と少しだけ離れた隙に、私が怖い目に遭ってしまったことを気にしてくれているのだろう。
彼からの心強い言葉に背中を押され、私は「はい」とこくりと頷いた。
外出が決まると、使用人たちはまるで自分のことのように張り切って、私の身支度を手伝ってくれた。
お祭りの人混みでも歩きやすいようにと用意されたのは、上質な深緑色のウールで仕立てられた、町娘風の可愛らしいワンピースと温かいケープだった。
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