第11章-2 蒼き百合の来訪者2
「ふふ……。それに、あの造り物の獣が言っていた《《代償》》を気にしているのかしら?」
ニクスが眉間に皺を寄せて言っていた『代償』という言葉を思い出し、私はびくりと身を強張らせた。
けれど、甘く囁きかけてくる彼女の幾つもの瞳から目を逸らすことができず、私はまるで何かに操られるように、ゆっくりとこくりと頷いた。
「そんな大したものじゃなくていいの。そりゃあ、わたくしたちの仲間には目玉や腕や舌を欲しがる子もいるけれど」
彼女は朗らかにそう言って、信じられない言葉に目を見開く私に、さらに顔を近づけてきた。
「小さなお願いには、小さな代償でいいのよ。例えば、ほんの少し、命をくれるだとか」
まるで綺麗なリボンでもおねだりするかのような、甘く軽やかな響きだった。
けれど、あまりにも恐ろしいその言葉の意味に、私は思わず身をすくめ、後ずさる。
血の気が引き、指先がひどく冷たくなるのを感じた。
「銀の髪の仔、あなたのものじゃなくてもいいわ。この館のみんなは長生きだもの。誰かの命をほんの少し分けてくれるだけでいいの。そうしたら、わたくしの特別なお花をあげましょう」
蒼百合の貴婦人は、まるで私を喜ばせる素敵な提案でもしているかのように、心底楽しそうな声で囁き続ける。
「わたくしのお花はね、枯れないし、美しいし、暗い場所ではほんのり光るのよ」
枯れない美しい花。
その言葉に、私の心は小さく揺らいだ。
私に価値がないのは、彼女の言う通りだ。
だからこそ、もし私がこのお隣さんの願いを聞き入れて機嫌を取り、その珍しいお花を手に入れれば、みんなの役に立てるかもしれない。
ムコール様はほめてくれるだろうか。
ニクスも、喜んでくれるだろうか。
けれど……もし命を削ったせいで私が死んでしまったり、動けなくなってしまったら、どうなるのだろう。
やっと見つけた『先生』としての役割すら果たせなくなり、この館での居場所を失ってしまうかもしれない。
自分のたった一つの価値を失ってしまうことの方が恐ろしくて、私は躊躇いながらも、ゆっくりと首を横に振った。
「死ぬようなことはしないわ。わたくしは人の仔が好きだもの」
彼女は私の不安を見透かしたように、甘い声でそう囁いた。
「少しって……命を分けたら、私はどうなるのですか?」
恐る恐る尋ねると、彼女は顔の百合を揺らしてクスクスと笑った。
「そうね……もし、あなたから貰うのなら……ええと、少し熱が出るくらいかしら?」
熱が出るくらいだというその言葉に、私は張り詰めていた息をわずかに吐き出した。
死ぬわけではないのなら、少しくらいの熱は私が我慢すればいいだけのことだ。
「あなたも喜ぶ、紫胞子の殿方も、あの造り物の獣も喜ぶ、わたくしも人助けが出来て喜ぶ、みんな幸せでしょう?」
その時、サンルームの扉が開いた。
入ってきたニクスは、私たちの姿を見ると不思議そうに立ち止まった。
「まだ帰っていなかったのか?」
ニクスは首を傾げて、蒼百合の貴婦人に声を掛ける。
「やり残したことがあるのよ」
蒼百合の貴婦人はニクスに微笑みかけると、そっと私の耳元に唇を寄せた。
「きっと、彼も喜ぶわよ。あなたも恩返しが出来たら嬉しいと思わない?」
『恩返し』という言葉が、泥のような私の心に決定的に染み込んでいく。
実の親にすら疎まれ、居場所のなかった私をこの温かい館に置いてくれた彼らに、私は今まで何も返せていない。
何か少しでも役に立てればと足掻いていたけれど、本当に返せているのかずっと不安だった。
もしこの枯れない花を渡すことができれば、少しは恩返しになるだろうか。
少し熱が出るくらいだと、彼女は言っていた。だから大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
綺麗なお花は宝石みたいに高価ではないのだし、本当に少し体が怠くなるくらいで済むのかもしれない。
私がここで取引に応じれば、このお隣さんも怒らせずに済む。
それに何より、あの綺麗な髪飾りのお礼として、ニクスにお花を渡したい。
頭の中でいくつもの言い訳を並べ立て、私はぎゅっと手を握りしめた。
微かに息を呑む自分の音が、やけに大きく聞こえる。
私は、掠れそうになる声を必死に紡いだ。
「あの、お花……もらいます。綺麗なお花を下さいな」
「……ティリア?」
ニクスが、信じられないものを見るような声で呟いた。
私の言葉の意味を理解した瞬間、彼は血相を変えて叫んだ。
「駄目だ!!」
彼の紫色の瞳の、その中心にある金色の部分が、限界まで大きく見開かれている。
いつも温かい彼の顔が、信じられないほど悲痛に歪んでいた。
ニクスは弾かれたように駆け寄り、乱暴な手つきで私の肩を強く後ろへ引っ張った。
けれど、それより早く、私は蒼百合の貴婦人の差し出した青い手を取っていた。
その冷たい指先が触れた瞬間、私の中で何かがすっと引き抜かれるような感覚がした。
視界がふらりと揺れ、身体の奥から急激な熱が立ち上ってくる。
そう戸惑いながらも、心配しなくても大丈夫なのに……と、遠のく思考の中でぼんやりと思う。
今にも泣き出しそうなニクスの顔を不思議に思いながら、私は静かに意識を手放した。
次に気がついたとき、私はひどい寒気に震えていた。
重い瞼は開かず、身体の節々がひしひしと痛む。
少し熱が出るだけだと聞いていたのに、今まで生きてきた中で一番高いかもしれない、ひどく苦しい熱に息が詰まる。
苦しさに呻き声を上げることもできず、ただ熱に浮かされていると、ぼんやりとした意識の中に話し声が聞こえてきた。
「先生……このままじゃ、ティリアが……! いっそ、あちら側へ……」
途切れ途切れに聞こえるのは、切羽詰まったニクスの震える声だった。
「……駄目だよ……そんなことをすれば、彼女は私たちとも、人の仔とも違うものになってしまう……」
それに答える、ムコール様の重苦しい声。
あちら側って、どこ?
違うものって、何?
少し熱が出るくらいだと、彼女は確かにそう言って笑っていたのに……、それなのになぜ、こんなにも身体が燃えるように熱くて、苦しいのだろう。どうして、ニクスはあんなにも悲痛な声を出しているのだろう。
ぐるぐると回る熱を持った思考をまとめることもできず、私は逃げるように、再び深い闇の中へと沈んでいった。
どれくらいの時間が経ったのか。
再び重い瞼をこじ開けると、窓の外は茜色に染まり、部屋の中には静かな夕暮れの光が差し込んでいた。
ほんの少し、眠ってしまったのだろうか……。
ひどくぼやけた視界に真っ先に飛び込んできたのは、ベッドの傍らに座り込み、私の手を力強く握りしめているニクスの姿だった。
彼は顔を伏せ、今にも泣き出しそうに肩を震わせている。
「ニクス……」
掠れた声で呼んで、私は重い腕をゆっくりと伸ばし、彼の頬をそっと撫でた。
びくりと顔を上げたニクスの、紫の中に金色を宿した瞳は、泣きはらしたように赤くなっていた。
どうしてそんなに悲しい顔をしているのだろう。
不思議に思いながら視線を巡らせると、サイドテーブルの上に、あの青い百合の花が飾られているのが見えた。
薄暗い部屋の中で、その花は仄かに、けれど確かに青い光を放っている。
「あの……髪飾りの、お返し……」
私は、息も絶え絶えになりながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「お花を……もらって、きたの……」
それを聞いた瞬間、ニクスの顔がさらに痛ましげに歪んだ。
「……お返しのために、自分を粗末にしないでくれ」
彼の手が、私の頬に添えられた手をきつく握りしめる。
その声は、ひどく涙ぐんでいた。
「粗末になんて、そんな……」
私はただ、少しくらいの熱を我慢すればいいと思っただけなのに。
私のその言葉を遮るように、ニクスは震える声で言った。
「三日も寝たきりだったんだぞ……」
え?
三日?
私は信じられない思いで、もう一度、茜色に染まる窓の外を見た。
あのサンルームでの出来事から、もう三日も経っていたというのだろうか。
呆然とする私の耳に、微かに扉が開く音が届いた。
視線を向けると、ムコール様がいつものように小さなキノコの傘を揺らしながら、静かに部屋へ入ってくるところだった。
「目が覚めたようだね」
ムコール様はベッドの脇まで来ると、いつもの穏やかな声でそう口にした。
「君は……自分を粗末にするきらいがあるね」
その静かで優しい言葉に、私は返す言葉が見つからず、ただ小さく息を呑んだ。
「ニクスも、人の命の尊さは十分に学べたと思うよ」
ムコール様は、私の手を握ったまま俯くニクスと私を交互に見比べて、そう付け加えた。
私を心配して三日間も付き添ってくれていたのだと、ようやく理解が追いついてくる。
「少し熱を出すくらいなら……そう、思ったんです。迷惑をかけて、ごめんなさい」
こんなにも迷惑をかけてしまったというのに、どうして彼らは怒るどころか、深く悲しんでくれているのだろう。
私なんかのためにひどく傷ついたような顔をしているニクスと、穏やかに見守ってくれるムコール様に戸惑いながら、私は掠れた声で小さく謝った。
すると、私の手を握っていたニクスの手に、震えるような力がこもった。
彼は弾かれたように顔を上げ、すがるような切実な瞳で私を見つめ返してくる。
「俺は……先生も、きっと……あんたが何か耐えたり、辛い目に遭うのを求めていない。それに、迷惑だなんて思っていない」
言葉を探すように紡がれた、けれどひたむきなその思いに、私は息を詰まらせる。
そんな私たちを見守るように、ムコール様が優しく問いかけてきた。
「あの気まぐれな客人を怒らせないように、無理にお願い事をしたのかい?」
私が申し訳なさに耐えきれず控えめに頷くと、ムコール様は細長い腕を私の方へと伸ばしてきた。
――叩かれる。
両親と暮らしていた頃の痛みの記憶が反射的に蘇り、私は無意識のうちにぎゅっと目を瞑って体を強張らせた。
けれど、私の頭に触れたのは、痛みではなく、弾力のある柔らかな手のひらだった。
ムコール様は、怯えて強張る私の頭を、驚くほど優しくポンポンと撫でてくれた。
「自分を大切にする方法や、お隣さんとの接し方も、これからゆっくり学んで行こうね」
その温かい言葉と手のひらの感触に、強ばっていた肩がゆっくり下がり、吐く息もやわらいでいった。
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