第10章-2 交わらない理屈と、譲れない心2
主人は顔を真っ青にしながら、慌てて男を宿の中へと運び入れた。
私たちは「森の近くを通りかかったら、倒れていた」とだけ伝え、深くは語らなかった。
男の懐には革袋が結びつけられており、主人がそれを確かめると、中から銅貨といくらかの銀貨の音が鳴った。
主人は「これだけあれば、しばらくは面倒を見てやれる。あとはこっちでなんとかするよ」と請け負ってくれた。
私は深く頭を下げ、その言葉にすがるようにして宿屋を後にした。
夜の闇が深く降り始めた街道に出た途端、冷たい夜風が私の頬を撫でた。
あの男性を無事に預けられたのだという安堵が、重く沈んでいた心にようやく小さな光を灯してくれる。
目の前で命が消えてしまわなくてよかった。
ただそれだけのことが、今の私には何よりも得がたい救いのように感じられた。
けれど、安堵と共にそれまで必死に張り詰めていた心の糸が、ぷつりと音を立てて切れてしまった。
急激に押し寄せてきた疲労感に目の前がぐらりと揺れ、膝の力がカクンと抜ける。
「あっ……」
抗う間もなく泥だらけの地面に倒れ込むかと思ったその瞬間、強い腕が私の身体を横からふわりと掬い上げた。
「大丈夫か?」
見上げると、ニクスが今にも泣き出しそうなほど心配そうな顔をして、私を赤子のように軽々と腕に抱きかかえていた。
彼の手はとても温かく、胸に預けた耳からは、あたたかな胸の奥から響く、絶え間ないトクトクという音が伝わってくる。
「……ごめんなさい。ホッとしたら、急に力が抜けてしまって」
私が申し訳なさそうに答えると、ニクスは少しだけ目を細め、私を壊れ物を扱うようにしっかりと胸に抱き寄せた。
「気にするな。俺に任せてくれたら、すぐに家に着く」
そう言って、ニクスは大地を蹴った。
彼が本気を出すと、景色が恐ろしい速度で後ろへと流れていく。
自分の足で歩けば夜が明けてしまうほどに遠い森の道のりを、彼は風そのものになったように滑らかに、柔軟に、そして力強く駆け抜けていった。
やがて、木々の隙間から見覚えのある館の影が浮かび上がり、ニクスは玄関の前で私をそっと地面へと降ろしてくれた。
窓から漏れる温かな明かりを目にした瞬間、ようやく帰ってこれたのだという実感が安堵と共に込み上げてくる。
森の館の重い扉を開けると、ホールの飾り棚の上にちょこんと乗った、細い二本の腕が生えた小さなキノコが、ひょいと腕を振ってこちらを振り向いた。
「おや、ずいぶん遅かったね。それに、二人とも泥と血で酷い有様じゃないか」
キノコの姿をしたムコール様が、少し意外そうに、ひょいと傘を揺らした。
私は彼に、森で瀕死の怪我人を見つけ、街道の宿屋まで運んできた事の顛末を報告した。
「なるほど、変わったトラブルがあったんだねぇ。まあ、君たちまで獣や魔物に襲われなくてよかったよ」
ムコール様は穏やかな声でそう言うと、隣に立つニクスをじっと見つめた。
「ニクスも、一つ勉強になったね」
ムコール様にそう促されると、ニクスは戸惑ったように頷き、静かに言葉を返した。
「……ティリアに、死にそうな人の仔の扱いについて教えて貰えてよかった」
そう語る彼の腕が、私の肩を抱くようにそっと添えられ、ほんの少しだけ力が込められた。
「さあ、二人とも早く汚れを落としておいで。そのままだと、気分も良くないだろう」
ムコール様がそう告げると、ニクスが私の顔を覗き込み、低く落ち着いた声で言った。
「先にティリアが湯浴みをしろ。俺は後で平気だから」
「あ……ありがとう、ニクス」
私は彼に短くお礼を言うと、音もなく現れた灰色の布を被った使用人たちに導かれ、一階の廊下の奥にある湯浴み部屋へと向かった。
使用人たちの手際よい奉仕によって、髪にこびりついた泥や、服に染みた他人の血が、温かなお湯と共に洗い流されていく。
その丁寧な手つきに身を委ねながら、私はようやく、自分がどれほど張り詰めていたかを自覚した。
汚れを落とし、新しい服に着替えてから、二階の自室へ戻る。
一人になって静寂に包まれると、今日の出来事がゆっくりと頭の中を巡り始めた。
あの人がその後どうなるのか、私には分からない。
でも、あのまま見捨てずに済んだことには、少しだけホッとしていた。
そして何よりも、助けるべきだと思わなかった他人を、私が悲しむからという理由で、止血をして遠い宿まで運んでくれたこと。
帰り道、倒れそうになった私を、大切に抱きしめて運んでくれたこと。
その優しさがどうしようもなく嬉しくて、胸の奥が甘く痺れるように温かかった。
けれど同時に、息が詰まるほどの不安がこみ上げてくる。
彼は決して冷酷なわけではないけれど、命が終わることに対する考え方は、私とは根本的に違うのだ。
今は、私がムコール様に雇われた彼の『先生』だから……。
その役割があるから、自分の理屈を曲げてまで私の言うことを聞いてくれる。
でも、もし私が彼をがっかりさせたら?
期待に応えられず、この館に見合うだけの価値を証明できなかったら?
いつかこの優しさが終わってしまったらと思うと、恐ろしくて、私は身震いするように毛布を引き寄せた。
私には、彼から向けられる途方もなく大きな好意に見合うだけの価値なんて何もないのに。
答えの出ない不安が、疲労した頭の中でぐるぐると回り続けていた。
今日は二話更新です。よろしくお願いします。
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