第10章-1 交わらない理屈と、譲れない心1
タウンハウスから森の館へ戻った私は、教わったばかりの刺繍の練習をしながら、ニクスと共に森の見回りをするようになった。
木漏れ日の下、ベンチに座って不格好な手つきで針を進める私を、ニクスはいつも不思議そうに、けれど大人しく隣で眺めている。
時折、私が少しだけ上手く花びらの形を縫い上げると、彼は長い指でちょん、と布の端を突いて、目を丸くして感心したような顔をした。
タウンハウスで優しく教えてくれた年配の使用人の言葉を思い出しながら、私はひと針、ひと針、丁寧に糸を引いていく。
少しずつだけれど、真っ白な布の上に形作られていく不器用な花を見るたび、自分がこの館で『先生』としての役割を果たせているような気がして、肩の力が静かに抜けていった。
針が布を潜る小さな音と、風が葉を揺らす音だけが響く穏やかな時間の中で、誰かに必要とされ、期待されるということが、私にとっては冬の終わりにようやく差し込んだ柔らかな陽だまりのように、眩しく尊いものに感じられた。
けれど同時に、それは手のひらですぐに溶けて消えてしまう春の雪のように、ひどく心許ないものでもある。
いつか失ってしまうのが怖い。
それでも、こんな穏やかな日々が一日でも長く続いてほしいと、私は祈るように針を進めていた。
その日も、私は刺繍の入った布を大切に鞄にしまい、ニクスと共に結界の内側を歩いていた。
柔らかな風が吹き抜けた、その直後だった。
ふと、鼻の奥を刺すような、ひどく生臭い血の匂いが漂ってきた。
私は全身をびくりと跳ねさせ、ハッと足を止める。
その直後、前方の茂みの奥から、低いうなり声がいくつも重なって聞こえてきた。
そこには数匹の野犬のような獣が群がっていたけれど、私たちが近づくよりも早く、彼らは何かにひどく怯えたように森の深みへと逃げ去っていった。
獲物を放り出してまで逃げる彼らの必死な様子に、私は言いようのない違和感を覚えながら、足元の茂みを必死に掻き分けた。
腕にトゲが刺さるのも構わず駆けだした先、草むらの奥には、一人の男性がじっとりと湿った血だまりの中で無残な姿をさらして倒れていた。
身につけていた服はボロボロに引き裂かれ、剥き出しになった肌には、何かに鋭く抉られたような深い傷跡がいくつも刻まれている。
「……大丈夫ですか?」
私は反射的に駆け寄り、その人の傍らに座り込んだ。
返事はない。
ただ、ヒューヒューと喉を鳴らす浅い呼吸だけが、辛うじて聞こえてくる。
手や服が赤黒く汚れるのも構わず、私はぎこちないながらも男の傷口を確かめようとした。
「この人の仔は、迷子ではなくもうすぐ死ぬ。助ける必要があるか?」
頭上から落ち着いたニクスの声が降ってきた。
見上げると、背後に立つニクスが、不思議そうな顔で私を見下ろしていた。
その夜空に月が浮かんだような瞳は、私を冷たく突き放しているわけではない。
まるで、私が道端のただの石ころに一生懸命話しかけているのを、きょとんとして眺めているような、そんな無邪気な視線だった。
「形が崩れて、土に還るだけだろ? なんであんたはそんなに必死なんだ?」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ニクスの声には、悪意や冷酷さは微塵もなかった。
ただ、「なぜ終わろうとしているものに構うのか」が、彼にはまったく理解できないようだった。
彼にとって、命が終わることは季節が巡り、枯れ葉が土に還るのと同じ、単なる自然の現象に過ぎないのだろうか。
これまで私に優しく、温かく接してくれていた彼が、目の前の人間の死に対しては、助けようとする素振りさえ見せない。
それが冷酷さからではなく、彼にとっての当たり前なのだという事実に、私は戸惑い、彼と私の間にある見えない壁に胸が苦しくなった。
「まだ、生きているでしょう……? 血を止めないと……っ」
私は顔を上げ、彼を見据えながら喉の奥が引きつるような声で訴えた。
「……ニクスは、私が同じ状況でも、同じように見ているだけなの?」
私のその問いに、ニクスはぱちりと一度だけ瞬きをして、不自然なほどぴたりと動きを止めた。
少しの間黙り込み、彼の不思議な瞳が、初めて見る色を浮かべて小さく揺れた。
人間の死を、私がいなくなることを、彼は初めて自分に近い出来事として想像したのかもしれない。
「…………それは……」
ニクスは言い淀み、ゆっくりと首を横に振った。
「……同じことを、言わない。あんたがいなくなるのは……嫌だ」
絞り出すようにそう答えた彼は、自らの上衣を力任せに裂き、不器用な手つきで止血を手伝い始めた。
私は自分の手を強く握りしめ、彼のその痛々しいほどに不慣れな奉仕を、祈るような思いで見つめていた。
やがて、べっとりと血に染まった手を止め、ニクスが顔を上げた。
「……血、止まった。これ、どこに運べばいい?」
その声には、やり遂げた達成感も、怪我人を案ずる色もない。
ただ、私の顔色を窺い、「これでいいか?」と正解を求めるような、幼い響きが混じっていた。
足元を見下ろせば、男の呼吸は未だ浅く、青ざめた顔には死の影がちらついている。
「近くに村はある? それか、人が休めるような場所……。早くしないと、この人……」
私が焦りに声を震わせると、ニクスは少しだけ考え込むように視線を彷徨わせた。
「街道沿いに宿屋があったはずだ」
「とりあえず、そこに運んであげましょう」
私が頷くと、ニクスはこくりと応じ、男の身体へと手を伸ばした。
見ず知らずの怪我人を助けるという概念のなかった彼が、ただ私が悲しむのを嫌がって、ためらわずに従ってくれている。
その事実が、恐ろしくもあり、同時に胸の奥がぎゅっと締め付けられるほど不思議で、甘い痛みを伴って私を揺さぶっていた。
行き先が決まると、やがてニクスは血にまみれた怪我人の身体をゆっくりと抱え上げた。
彼自身の途方もない力からすれば、人間の体など羽のように軽いはずだ。
けれど彼は、私の必死な視線を気にするように、少しぎこちない手つきで慎重にその身体を支えていた。
結界を抜け、鬱蒼とした森の中を進む。
普段の見回りなら、道端に咲く珍しい花や、木々の間を抜ける風の心地よさについて笑い合うのに、今の私たちの間に会話はなかった。
ただ、ニクスが抱える男性の苦しげな呼吸と、私たちの足が枯れ葉を踏みしめる乾いた音だけが響いている。
険しい獣道を進むにつれ、私の足は次第に重くなり、呼吸も乱れ始めていた。
そんな私の様子を察したのか、ニクスは何度も足を止め、心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
私が大丈夫だと頷くたび、彼は納得のいかないような顔をしながらも、また前を向いて歩き出した。
気づけば、頭上の空はオレンジ色から深い紫色へと溶け始め、長い影が木々の間を縫うように伸びていた。
夕闇の冷気が肌を刺し始めた頃、ようやく木々の隙間から、古びた木造の建物が姿を現した。
軒先に吊るされた古い編み籠の中で、光蟲の淡い光がぽつぽつと明滅している。
街道沿いにぽつんと建つ、簡素な宿屋だった。
私たちが血まみれの男を抱えて戸を叩くと、出てきた白髪混じりの主人は、ひっ、と短い悲鳴を上げて後ずさった。
「ひどい怪我だ……っ! 一体、何があったんだい!?」
明日の朝は2話更新予定です。
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