第9章-3 新しい役割3
全身の血の気が引き、指先がひどく冷たくなる。
今度こそ、怒られるのだろうか。それとも流石に罰を与えられたりするのだろうか。
絶望的な想像に足をすくませながらも、呼ばれたからには、行かないわけにはいかなくて、私は這うようにしてムコール様の書斎へと向かった。
重そうな木の扉の前に立ち、まるで恐ろしい罰を待つ罪人のように、私はすっかり冷え切った手を強く握りしめた。
そう怯えながら扉を開いた私を、ムコール様は怒鳴りつけたりはしなかった。
彼は机に広げていた書物から顔を上げると、いつものように穏やかな眼差しを私に向ける。
「使用人たちから聞いたよ。君がとても塞ぎ込んでいると」
その静かな声に、私はビクリと肩を跳ねさせ、さらに強く両手を握りしめた。
怒鳴りはしないけれど……叱られるのだろうか。
きっと、使用人たちの仕事を邪魔した罰を与えられるに違いない。
そう怯え、張り詰めた緊張で息もできなくなりそうだった私に向かって。
「焦らなくてもいいんだよ、ティリア」
「え……」
思わず、変な声が漏れた。
ムコール様は、怒るどころか私の焦りを見透かしたように、静かに、優しく窘めてくれた。
手元にあるティーカップをそっと持ち上げながら彼はそのまま言葉を続ける。
「君が毎日一生懸命、本を読んで字を覚えていること……知識を増やすことも、今の君の立派な『仕事』なんだからね」
「本当に……そうでしょうか」
どうしても納得しきれずに呟いた私の言葉を、ムコール様はふんわりとした微笑みで遮った。
「せっかく義理の娘になったのだし、令嬢らしいことでもしてみるかい? 幸い、この街の館には人間の優秀な使用人たちがいる。彼女たちに頼んで、君に刺繍の手ほどきをしてもらおう」
「刺繍、ですか……?」
突然の提案に、私は戸惑いながら答えた。
「村で、破れた服の繕い物をしたことくらいしかありませんが……」
「繕い物ができるなら、針の扱いは知っているはずだ。教わって練習を重ねれば、すぐに上達すると思うよ」
ムコール様はゆっくりと瞬きをして、冗談めかした口調で続ける。
「私も聞いた話でしかないが、令嬢達は大切な人に刺繍のハンカチを送るらしいよ」
「大切な、人……」
「そうだねぇ、練習がてら私にも一枚作ってみるというのはどうかな? 娘から何か贈って貰うというのは私も経験が無いからね」
それは義務を強いるようなものではなく、ただ愉快そうな、柔らかな声色だった。
私に何かを作ってほしいと、楽しみに待っていてくれる人がいる。
その事実が、凍りついていた私の心を少しだけ温めてくれた。
「……はい。私でよければ、作らせてください」
「ああ、楽しみにしているよ」
安堵して息を吐き出した私を見て、ムコール様は思い出したように言葉を続けた。
「森の館へ帰ってからも、仕事がある方が良いかな?」
「えっ……」
「ニクスと二人で散歩がてら、森の見回りをしてくれないかい? 滅多にないことだけれど、稀に人が結界内で迷子になったりしているからね。見掛けたら森の出口まで案内をして欲しいんだ」
それは、もう一つの私への提案だった。
散歩がてらということで、きっと重要なことではないのだと思う。
けれど、一つ仕事を任されたということが、私にはとても嬉しかった。
「わかりました。……やってみます。あの、ムコール様……ありがとうございます」
私が深く頭を下げると、ムコール様は優しく頷いてくれた。
それから、私はムコール様の提案通り、タウンハウスの使用人たちを取りまとめている年配の女性から、刺繍を教わることになった。
初日の朝、私の部屋を訪れた彼女は、優雅に一礼をして私に声をかけてきた。
「本日から、ティリアお嬢様に刺繍の手ほどきをさせていただきます。よろしくお願いいたします」
優雅にお辞儀をする彼女に、私はガチガチに緊張しながら頭を下げた。
「は、はい。あの……よろしくお願いします」
普段は館を取り仕切る厳格な彼女だったが、不器用な私が何度も指を針で刺してしまっても、呆れることなく根気よく教えてくれた。
最初は細くて滑りやすい絹糸の扱いに戸惑い、何度ももつれさせてばかりだった。
「ここは糸を強く引きすぎず、ふんわりと円を描くように……そう、その調子です」
根気よくアドバイスをくれる彼女に、私は申し訳なさで縮こまる。
「あ、ありがとうございます……私、不器用で、何度も失敗してしまってごめんなさい」
思わず身を固くして謝罪を口にすると、彼女は手を止めて柔らかく微笑んだ。
「初めてのことは、上手に出来なくて当たり前です。みなさん、失敗しながら上達をしていくものです」
その穏やかで優しい言葉に、私は戸惑った。
失敗をしても、怒鳴られない。冷たい目を向けられることもない。
その事実が信じられないと同時に、強張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
それから数日掛けて、不格好ながらも布の上に小さな花が咲いたとき、私は思わず弾んだ声を上げてしまった。
「ティリアお嬢様は、上達が早いですよ。自信を持って下さい」
そう褒めてくれた彼女の言葉が、胸の奥にやわらかな温もりとなって広がっていく。
いつか、ムコール様にきちんとしたハンカチを贈れるようになりたい。
ニクスも……贈り物をしたら、よろこんでくれるだろうか。
その小さな目標が、私に確かな前を向く力を与えてくれていた。
そんなある日の午後、窓の外を眺めながら針を動かしていると、背後から聞き慣れた足音が近づいてきた。
「刺繍は順調かい?」
階段を上がってやって来たムコール様に声をかけられ、私は縫いかけの布をそっと持ち上げて見せた。
「はい。まだ不格好ですけれど……少しずつ、お花が縫えるようになりました」
「おお、本当だね。それはよかった。どんな花が咲くのか、完成を楽しみにしているよ」
私の手元を覗き込んだムコール様は、仮面の奥で嬉しそうに目を細めた。
誰かに自分のやったことを認めてもらえる、期待してもらえるという事実が、くすぐったくて心地よい。
そんな私の頭をポンと優しく撫でた後、彼は穏やかな声で告げた。
「こちらも用事が済んだし、明日にはタウンハウスを発とう。持ち物の準備をしておいておくれ」
その日の夜、私はあてがわれた自室で、小さな鞄に荷物を詰めていた。
静かな夜の空気に混じる、遠い街のざわめき。私を真っ直ぐに肯定してくれた立派な騎士様。厳しくも優しい使用人たち。そして、少しずつ形になってきた刺繍のハンカチ。
このタウンハウスで過ごした日々は、村での過酷な生活とはまるで違う、信じられないほど穏やかで温かいものだった。
私は机の上に置かれた、三日月の木彫りの髪飾りにそっと触れた。
「……明日はせっかくなので、これを着けていこうかな」
誰にともなくそう呟き、私は小さな決意を胸に眠りについた。
そして翌朝。
出発の身支度を整える際、私はあの年配の使用人にお願いして、銀色の髪に三日月の飾りを編み込んでもらった。
「とてもよくお似合いですよ、ティリアお嬢様」
鏡越しに微笑みかけられ、私は気恥ずかしさに俯きながらも、小さくお礼を言った。
玄関ホールには、滞在中に世話をしてくれた使用人たちが並んで見送ってくれた。
「あの、お世話になりました」
迷惑ばかりかけてしまったけれど、どうしても感謝を伝えたくて。
勇気を出してそう口にすると、あの年配の使用人は「それが私共の仕事ですから」と、温かい笑顔を返してくれた。
「またいつでもいらしてくださいね、ティリアお嬢様」
その言葉に胸を撫で下ろしていると、後ろからムコール様が声をかけてきた。
「君が望むなら、少し頻繁にこちらへ来ても良いよ。可愛い娘からのおねだりというやつも、体験してみたいからね」
ふんわりと微笑む仮面の奥の瞳に、私は照れくさくなって小さく頷いた。
温かい見送りの声と柔らかな空気を背に受けながら、私は迎えの馬車へと歩み寄る。
先に馬車の前で待っていたニクスは、私の姿を認めてエスコートしようと手を伸ばしかけ――ふと、その動きを止めた。
夜空に月が浮かぶような彼の不思議な瞳が、見開かれたように私の髪元へ釘付けになる。
次の瞬間、パッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「それ、着けてくれたんだな。……すげえ綺麗だ。やっぱりよく似合ってる」
まるで宝物でも見つけたかのような、混じりけのない言葉。
私はどう返事をしていいかわからず、カッと顔が熱くなるのを感じて思わず俯きながらも、小さく声を絞り出した。
「あ、ありがとう……」
ニクスは嬉しそうに目を細めると、私の手を取って馬車へと引き上げてくれる。
「俺たちの家へ帰ろう」
その自然な響きに、私は弾かれたように顔を上げ、小さく、けれどしっかりと頷き返した。
やがて馬車が動き出し、窓の外で少しずつ遠ざかっていく城下町の街並みを見つめながら、私は膝の上でそっと指を組み、その温かさを手放さないようにした。
この館での穏やかな日々が終わってしまう寂しさはあるけれど、今の私には、森の館で待っている新しい『仕事』がある。
隣には、同じ場所に帰るのだと言って笑ってくれる人がいる。
村にいた頃は、明日が来るのがあんなにも恐ろしかったのに。
今の私の心には、これからの日々に対する小さな、けれど確かな希望が灯っていた。
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