第9章-2 新しい役割2
その温かい手の感触と甘い声に胸を締め付けられながら、私は逃げるように自室の扉を閉めた。
一人きりになり、ふかふかのベッドに横たわると、どっと深い疲労が押し寄せてくる。
目を閉じると、今日かけられた温かい言葉や褒め言葉、およびニクスの優しい手の感触が次々と蘇り、それが逆に私をひどく不安にさせた。
翌朝、私はあてがわれた自室の机に向かい、ムコール様から出された文字の練習をしていた。
手本の羊皮紙を見ながら、蜜蝋が塗られた書字板を尖筆で慎重に引っ掻く。そんな『体を動かさない仕事』という贅沢な時間になかなか慣れず、どこか落ち着かない気持ちを抱えていると、不意に控えめなノックの音が響いた。
「ティリアお嬢様。旦那様が、ドローイングルームへいらっしゃるようにと」
使用人の言葉に、私はビクリと肩を揺らした。
何か粗相をしてしまったのだろうか。怒られるのだろうか。
不安で胸のあたりが激しく鳴るのを感じながら、私は案内されるままに屋敷の廊下を歩いて一階へと向かった。
客間であるドローイングルームに近づくにつれて、普段の静かな館にはない、見知らぬ人々の気配を感じる。
そっと扉の向こうへ足を踏み入れた途端、中にいた彼らの姿に気圧されて、私は思わず扉の近くで立ちすくんでしまった。
泥だらけで魔物と戦っていた夜とはまるで違う、上質な生地で仕立てられた騎士団の礼装。
金糸の装飾や磨き上げられた革の長靴、腰に提げられた儀礼用の剣が、彼らが纏う洗練された屈強さを際立たせている。
騎士団長であるシルヴァン様が、数名の部下を従えて直々にタウンハウスへ訪問して来ていたのだった。
仮面を付けたままのムコール様は、そんな彼らを穏やかにもてなしていたが、扉の近くで縮こまる私に気が付くと、ゆったりとした様子で手招きをしてくれた。
そこへ、少し遅れて背後の扉から入ってきたニクスがひょっこりと顔を出した。
「シルヴァン、どうした? この前の活躍の御礼でもしに来てくれたのか?」
かつての『先生』へ向けて軽口を叩きながら、ニクスは気後れして動けないでいる私の手を優しく掴むと、一緒にソファの方へと引っ張っていってくれた。
そのままムコール様の隣に座ったニクスと軽く視線を交わした後、シルヴァン様は立ち上がり、私の前まで歩み寄ってきた。
「ティリアのお陰で、たくさんの人を危険から守ることが出来た」
立派な騎士様が、村の貧しい娘でしかない私に深々と頭を下げる姿に、私は戸惑うことしかできなかった。
「恩は必ず返す。困ったことがあったらなんでも言ってくれ」
シルヴァン様の後ろに立っていた部下の騎士たちまでもが、揃って私に向かって深く頭を下げた。
そんなふうに真っ直ぐな感謝と敬意を向けられると、戸惑いの方が勝ってしまう。
私は確かに、誰かを助けたくて、自分も手伝うとは言ったけれど、実際に危険を犯して戦ったのはシルヴァン様やムコール様とニクスだ。
こんなに立派な人たちから感謝されるような大層なことをした実感が持てなくて、身分不相応な感謝に身を縮めるばかりだった。
やがて、シルヴァン様たちは正式な御礼の言葉を残し、タウンハウスを去っていった。
彼らを見送った後のエントランスには、煌びやかな礼装の残像と、かすかな金属音がまだ空気に溶け残っているようだった。
嵐のような非日常が過ぎ去り、いつもの静けさを取り戻した応接室に戻ると、私は張り詰めていた息を長く吐き出した。
肩の力が抜けるような安堵と同時に、あんなに立派な人たちから向けられた真っ直ぐな感謝が、自分には不釣り合いなものに思えて胸がざわつく。
そんな私の落ち着かない様子に気付いたのか、ムコール様が優しく声をかけてくれた。
「彼も言っていたけれど、君の目は『祝福』された素敵なものだよ。君自身は『呪い』だと思っているようだけれどね」
「でも、私は、この目のせいでずっと……」
「呪いと祝福は対になっているものだからね。どちらかだけを見て悲観するのは、あまり良くない」
私の不安を溶かすように、仮面の奥から穏やかな声が降ってくる。
隣にいたニクスも、屈託のない笑顔で私を覗き込んだ。
「ティリアが気付かなければ、大変なことになっていたし、あの日のティリアはすごく頼もしかった。さすが俺のもう一人の『先生』だな」
二人の言葉は、どこまでも温かかった。
けれど、自室に戻って一人になると、その温かさすらも私を不安にさせた。
皆が私に優しくしてくれる。
ふかふかのベッドで眠り、温かい食事を与えられ、美しいドレスを着せてもらう。
雨の日に家の外へ締め出され、泥にまみれて働いていた村での日々が嘘のようだ。
でも、だからこそ怖い。
私が任されているのは、体を動かさない仕事だけだ。それは……仕事と言えるのだろうか。本当に私は誰かの役に立っているのだろうか?
今の私は、ただ与えられるだけの存在だとしか思えない。
ふと、お母さんからの言葉を思い出す。
「熱があるからって畑仕事をさぼっていいわけじゃないんだよ! 魔物のエサにされたくないのなら働きな」
そう言われて、ふらつく足で土を掘り起こした日々。
お父さんからだって、冷たい目とともに何度も怒鳴られてきた。
「何もない場所をじろじろ見る暇があるのなら、さっさと外へ行って薪でも集めてこい」
なにか……しなければ……。
みんなの役に立つことを、もっと……。
心と体にこびりついた村での記憶が、呪いのように私の心を縛り付け、得体の知れない焦燥感となって胸を内側から叩き続けていた。
翌日、私はいつも通りに自室の机に向かい、読書や文字の練習をしていた。
けれど、頭の中を埋め尽くす焦燥感が邪魔をして、どうしても手本通りに尖筆を動かすことができない。
じっとしていられず、たまらず部屋を飛び出した私は、廊下で使用人たちが膝をつき、布で床を磨いているのを見つけた。
「あの……私に、やらせてください」
私は彼女たちの傍にしゃがみ込み、手伝おうと手を伸ばした。
「お待ちください、ティリアお嬢様!」
年配の使用人が慌てた様子で私を止める。
「そのような真似はなさいませんよう。私どもの仕事がなくなってしまいます」
困惑した彼女たちの顔を見て、私はサッと血の気が引く思いだった。
仕事を手伝うどころか、私は彼女たちの邪魔をしてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい……!」
私はここでも、余計なことをして迷惑をかけるだけの存在なのだ。
逃げるように自室へと戻った私は、ベッドの隅に身を丸め、抱えた膝の合間に顔を埋めていた。
せっかく義理の娘にまでしてもらったのに。
温かいご飯をもらって、ふかふかのベッドを与えてもらったのに、何の役にも立てない。それどころか、良くしてくれる人の邪魔までしてしまった。
両親から浴びせられた冷たい声が、頭の中で何度も何度も響く。
――役立たず。お前なんかいらない。
息が詰まりそうな自己嫌悪に押し潰されそうになっていた午後、不意に扉越しに声が掛かった。
ムコール様が、自身の書斎へ私を呼んでいるというのだ。
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