第9章-1 新しい役割1
朝、目を覚ますと、枕元に置いた三日月の髪飾りが静かな光を放っているように見えた。
それをそっと手に取ると、昨夜のニクスの言葉が鮮やかに蘇ってくる。
『あんたの髪の毛、月の光で染めたみたいで綺麗だと思っていたから』
ずっと「老婆みたいで気味が悪い」と罵られ、両親があんなに嫌っていた私の銀髪を、彼は真っ直ぐな言葉で褒めてくれた。
その言葉で、強ばっていた体の力や、冷え固まっていた心が解けていく感覚が今も微かに残っている。
タウンハウスでの生活は、私にとって目眩がするほど穏やかだった。
しばらくその余韻に浸っていると、静かなノックの音とともに、メイドが朝の身支度を手伝いにやってきた。
いつものように身支度を整え、一階のダイニングへ向かうと、すでに朝食の席に着いていたムコール様とニクスが私を迎えてくれた。
「おはよう、ティリア」
ムコール様は穏やかに挨拶をして、優雅な手つきで紅茶を一口飲んだ。
「今日はいくつか流行の服も仕立ててきたらどうだい? 今回は『私の義理の娘』としての外出だから、ニクスだけじゃなくて護衛や他の使用人たちも一緒だよ」
普段ならお抱えの職人を屋敷へ呼ぶところを、私の気分転換を兼ねて、あえて街の店へ赴くように手配してくれたのだという。
同じテーブルで、行儀良くナイフとフォークを使いながら食事をしていたニクスが、にこやかに顔を上げる。
「今度はあんたから目を離さない。安心してくれ」
その頼もしい言葉とムコール様の計らいで、私は再び街へ出かけることになった。
朝食を終えて外出の準備が始まると、年配の使用人やメイドたちが、改めて私を『貴族の令嬢』として美しく着飾らせてくれた。
上質な生地で仕立てられた外出用のドレスに身を包み、両親によく罵られていた銀色の髪は、彼女たちの手によって滑らかに梳かれ、美しく結い上げられた。
「とてもよくお似合いですよ、ティリアお嬢様」
鏡の中にいる自分は、まるで見知らぬ他人のようだった。
緊張しながら玄関ホールへ向かうと、そこには迎えを待つニクスの姿があった。
普段の彼とは違う、貴族の若君のような上質な生地で仕立てられた立派な服。
少し長めの黒髪も今日はすっきりと結い上げられており、その美しさに私は思わず息を呑んで立ち止まってしまった。
足音に気付いたニクスが振り向く。
彼は私を認めた瞬間、夜空に月が浮かんだような不思議な瞳をわずかに見開き、そしてふっと柔らかく微笑んだ。
「いつも綺麗だが、今日はいっそう綺麗だな」
飾り気のない、真っ直ぐな言葉。
私がカッと顔を熱くして俯くと、彼は優しく手を取ってエスコートしてくれた。
屋敷の外に出ると、そこには家紋の入った豪奢な馬車が待っていた。
私たちが馬車に乗り込むと、数人の使用人たちが馬車の後部の従者台や御者台の横に乗り込み、静かに付き従ってくれる。
馬車に揺られて辿り着いたのは、前回歩いたような喧騒に満ちた庶民の市場ではなく、馬車から降りるのも躊躇われるような、高級な仕立て屋や宝石店が並ぶ美しく舗装された大通りだった。
付き従う使用人に案内されて立派な構えの仕立て屋へ足を踏み入れると、店内には見たこともないような色とりどりの美しい生地がずらりと並べられていた。
奥の部屋へ通されると、女性の職人たちが私の周りを囲み、手際よく紐や布を当てて体の寸法を測り始める。
村では他人の古着やボロボロの麻布しか着たことがなかった私は、自分のためだけに服が作られるという初めての経験に、ただ目を白黒させて戸惑うばかりだった。
「まあ、なんて美しい銀髪のお嬢様」
職人の一人が、鮮やかな青い生地を私の肩に当てながら、うっとりとしたため息を漏らす。
「見目麗しい、とてもお似合いのお二人ですね。旦那様のエスコートも堂々となさっていて素晴らしいですわ」
「だ、旦那様だなんて……そんな」
ニクスが夫だと間違われたことに恐縮して、私はどうしていいか分からず、ただ彼の背中に隠れるようにして俯いてしまった。
そんな私を見て、ニクスは朗らかに笑いながら軽口を叩いた。
「《《今は》》、確かに旦那様ではないな。義理の妹なんだ」
「まあ、そうでしたのね。でも、本当に可愛らしくて美しい妹君ですこと」
職人の言葉に、ニクスは「だから綺麗だって言っただろ」と自分のことのように得意げに笑い、私を覗き込むようにして優しく微笑みかけてくれた。
村にいた頃は、この髪も目も「老婆のようで気味が悪い」と遠ざけられ、忌み嫌われていたのに。
外の世界では、こんな風に真っ直ぐに綺麗だと言ってもらえる。
けれど、仕立て屋の大きな鏡に映る、美しい布を当てられた自分の姿を見るたびに、胸のつかえがちくりと疼いた。
綺麗に飾ってもらっても、私の中身は何も変わっていない。
これは全部、借り物の姿だ……という考えが頭から離れない。
やがて採寸が終わり、店員が付き添いの使用人に「ドレスの仕立て上がりは十日後になります」と丁寧にお辞儀をして申し送りをしている間も、私はずっと居心地の悪さを感じていた。
緊張から、無意識のうちに表情を強張らせてしまっていたのだと思う。
「少し疲れたか?」
ニクスが私の顔を覗き込み、心配そうに声をかけてきた。
本心を知られまいと、私はただ頷きながら「少しだけ……」と小さく答える。
「遠慮しないで、すぐ言ってくれ」
そう言ってニクスは、使用人たちに向き直った。
「ティリアも慣れないことで疲れている。そろそろ帰ろう」
彼がそう促してくれたおかげで、私たちは足早に仕立て屋を後にした。
帰りの馬車に揺られながら、私はずっと窓の外を眺めて黙り込んでいた。
タウンハウスに戻ると、玄関ホールで出迎えてくれたムコール様が穏やかに声をかけてきた。
「おかえり。良い気分転換になったかい?」
「はい。ありがとうございます。……私には、勿体ないくらいに」
取り繕うように笑って見せたものの、最後にはつい本音がこぼれてしまった。
しかし、ムコール様はそれに気付いた様子もなく、ゆったりと頷いた。
「それはよかった。私もしばらくこちらで用事があるからね。服が仕立て終わるまではこちらにいるつもりだよ」
そう言い残して、彼は私たちに背を向けると、階段を上っていった。
彼を見送った後、私はつい本音を零してしまった気まずさから、俯いてしまった。
しかし、振り返ったニクスは何も聞かず、ただ静かに、優しい瞳で私を見つめていた。
「部屋まで送る」
その短い言葉に込められた気遣いが痛いほどに伝わってきて、私は小さく頷いた。
「……ありがとう」
並んで廊下を歩きながら、ニクスは自室の前まで私を送ってくれた。
分厚い木の扉の前で立ち止まると、彼は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「ううん、平気。少し慣れない場所を歩いたから、疲れちゃっただけ」
これ以上彼に心配をかけたくなくて、私は無理に笑顔を作って首を振る。
ニクスは少しだけ納得のいかないような顔をしたけれど、やがてそっと私の頭に大きな手を乗せ、優しく撫でてくれた。
「……ゆっくり休めよ。何かあったら、すぐに俺を呼んでいいからな」
「ありがとう、ニクス」
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