第8章-3 忌み子の瞳と、肯定の光3
ギィッと嫌な音を立てて分厚い木の扉が開かれ、中から腐った泥のような悪臭が漂う。
そして、引き締まった黒い体に鋭い耳を立てた、狼より少し小柄な犬の形をした魔物たちが一斉に飛び出してきた。
訓練された騎士団の方々でさえ、剣を抜く暇もないほどの一瞬の出来事。
街の中に魔物が放たれてしまう。
そう思って私が息を呑んだ瞬間。
「おやおや、まさか考えなしに魔物を放つなんてねぇ」
のんびりとしたムコール様の声が響き、彼の手にした杖が石畳を軽く叩いた。
途端に、路地裏の入り口と出口を塞ぐように、淡いラベンダー色の光の壁が一瞬だけ浮かび上がり、すぐに暗闇に溶け込んだ。
何が起きたのかわからず目を丸くする私に、ムコール様が穏やかに教えてくれる。
「魔物が外へ出ないように、結界を張ったんだよ」
そして、私の隣にいたはずのニクスが一歩前に出た。
「魔物は俺に任せてくれ。ティリアには近付けさせない」
彼はそう言って、どこか楽しそうに笑いながら、飛ぶような速さで荷馬車の前へと躍り出た。
人間の姿のままだというのに、その身のこなしは、あの黒い獣と同じようなしなやかさと恐るべき瞬発力を持っていた。
荷台から跳び出してきた一匹目の犬型の魔物の首を、彼の長い指がいとも容易く掴み上げ、そのまま石畳へ叩きつける。
グチャリ、と硬いものの砕ける鈍い音が響き、石畳に叩きつけられた魔物は完全に沈黙した。
「ひぃっ……化け物……!」
恐怖に顔を引き攣らせた男たちが、腰の剣を引き抜こうとする。
しかし、それより早くシルヴァン様が踏み込み、流れるような剣捌きで男たちの武器を弾き飛ばし、あっという間に制圧していった。
残りの魔物たちも、ニクスの人間離れした素早さと強さの前には、抵抗する間すら与えられなかった。
魔物が街で暴れることもなく、誰一人血を流すこともなく、一つ目の拠点は静かに制圧された。
「見事だ、ティリア。君の目がなければ、間違いなく魔物は街に放たれていただろう」
縛り上げられた悪党たちを部下に任せながら、シルヴァン様は私に向かって深く頷いた。
「だが、これだけ大掛かりな密輸だ。拠点がここ一つとは限らない。……ティリア、まだ探れるだろうか?」
「はい。……あっちの区画にも、同じように暗い青の光が集まっている場所があります」
私が目を閉じて指差すと、シルヴァン様は力強く頷き、再び騎士たちに指示を飛ばした。
それから私たちは、馬車で王都の裏通りを巡り、同じ調子でいくつも魔物を積んだ荷馬車を探し当てていった。
私の目で隠された魔物を見つけ出すと、ムコール様が即座に結界を張って退路と被害の拡大を防ぎ、騎士団の方々とニクスの手で瞬く間に制圧していく。
街の暗闇の中から、禍々しい暗く青い光がどこにも見えなくなるころには、すっかり夜が更けていた。
すべての制圧を終え、広場に停めた馬車の前で、シルヴァン様が私たちに向かって深く頭を下げた。
「ムコール殿、ニクス。二人の協力に心から感謝する。被害を出すことなく事態を収拾できたのは、あなた方のおかげだ」
「なに、新しい『先生』の初舞台だからね。私も良い暇つぶしになったよ」
「感謝するならティリアにしてくれ。先生と俺だけだったら、もっと時間がかかっていただろうからな」
ムコール様が飄々と笑い、ニクスがカラッと笑ってシルヴァン様に答える。
すると、シルヴァン様は私の方へと向き直り、その鋭くも温かな瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「ティリア。君の目は、祝福を受けた素晴らしい能力を持っているのだな。お陰で助かった」
「え……」
「君の勇気に感謝する。今日はゆっくり休んでくれ」
不吉だと忌み嫌われていた私の目を「祝福を受けた素晴らしい能力」だと言ってくれた。
その言葉に、私は胸がいっぱいになり、ただ深くお辞儀をすることしかできなかった。
私の力が、本当に役に立った。
不安でいっぱいだったけれど、それでも誰かを守るための力になれたのだという実感が、疲労で重くなった体に、ほのかな温かい灯りをともしていた。
深夜、タウンハウスへと帰り着くと、玄関にはまだ明かりが灯っており、起きて待っていた使用人たちが温かく出迎えてくれた。
「お仕事だと伺っております。遅くまで本当にお疲れ様でございました」
使用人の女性が労いの言葉と共に、冷えた体を温めるためのお湯と手拭いを用意してくれていた。
丁寧に体を拭いてもらい、肌触りの良い寝着に着替えさせてもらう。
さらに、胃に優しい温かいスープまで用意されており、それを一口飲むと、こわばっていた肩から少しずつ力が抜けていった。
身支度を終えて、あてがわれた自室のベッドに腰掛ける。
気泡が混じり、僅かに波打つ古いガラス窓越しに、柔らかく揺らめくような月光が差し込んでいた。
長い一日だった。
あの雨の夜、七枚の金貨と引き換えに両親に売られた日から、私の世界は目まぐるしく変わり続けている。
膝の上に置いた自分の手を見つめると、指先がまだ微かに震えていた。
倉庫の暗闇で見た、あの禍々しい青い光。
剥き出しになった魔物の牙や、嫌な粘り気を持った唸り声を思い出すと、背筋に冷たいものが走る。
……それでも、勇気を出して良かった。
もし私が「視えない」と嘘をついて逃げていたら。
もし、不吉だと思われるのが怖くて、あの荷馬車を指差さなかったら。
今頃、この美しい街のどこかで、誰かが悲鳴を上げていたかもしれないのだ。
『君の目は、祝福を受けた素晴らしい能力を持っているのだな』
シルヴァン様が真っ直ぐに私を見て放った言葉を思い出し、喉の奥がぎゅっとなる。
村ではずっと、呪われていると言われていた。
お父さんもお母さんも、私のこの目を見るたびに顔を顰め、気味の悪い子だと遠ざけた。
そんな私の目が「祝福」だなんて、考えたこともなかった。
暗い闇を視るためのこの力が、誰かを守るための力になれるなんて……。
コンコン、と。
不意に、控えめなノックの音が部屋に響いた。
「ティリア、起きてるか?」
扉の向こうから聞こえたのは、ニクスの声だった。
「うん、起きてるよ」
私がベッドから降りて静かにドアを開けると、そこには普段着のシャツに着替えたニクスが立っていた。
彼はニコニコと嬉しそうな笑顔で、私と視線を合わせた。
「今日は遅くまで、疲れただろ。大丈夫だったか?」
「大丈夫。ニクスこそ、腕は本当に痛くないの?」
「言っただろ? 俺は頑丈だから、大丈夫だって。……それより、これ」
ニクスはそう言って、背中に隠していた片手をスッと私の前に差し出した。
彼のしなやかで男らしい掌に乗っていたのは、美しい三日月を象った、小さな木彫りの髪飾りだった。
丁寧に磨き上げられた滑らかな木肌が、窓から差し込む月光を受けて淡く輝いている。
「これ……どうしたの?」
「街に出た時、露店であんたがこれを見てたから」
ニクスは嬉しそうに笑って、真っ直ぐに私を見た。
「あんたの髪の毛、月の光で染めたみたいで綺麗だと思っていたから、似合うと思って」
その言葉に、私は息を呑んだ。
ずっと「老婆みたいで気味が悪い」と罵られ、自分でも大嫌いだった私の髪。
それを彼は、こんなにも迷いのない言葉で肯定してくれた。
背中に張りついていた冷たさが、春の陽差しを浴びた雪みたいにほどけていく感覚だった。
「……ありがとう、ニクス。とっても、嬉しい」
髪飾りを受け取ると、ニクスはパッと顔を輝かせ、あの優しい黒い獣と同じように、嬉しそうに目を細めた。
窓の外では、静かな夜の闇を照らすように、美しい月が輝いていた。
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