第6章-3 城下町への旅立ちと契約3
「そう。この羊皮紙にサインをして、神殿に養子縁組の誓約書を提出する。そして貴族院の家系図に登録さえしてしまえば、君は今日から立派な私の娘として扱われるんだよ」
娘、という思いがけない言葉に、私は思わず目を見開いた。
隣に座るニクスも、突然の話に驚いたようにムコール様を見つめている。
「君を下働きとして使うつもりはないし、良ければ私の義理の娘になってくれないか? ニクスのお嫁さんとしてでもいいのだけれど……」
ムコール様は、仮面の奥で柔らかい微笑みを口元に浮かべて、冗談めかして言った。
「先生! 何言ってんだ!」
隣でニクスが顔を真っ赤にして叫び、ムコール様の肩を軽くバンッと叩いた。
「痛いじゃないか、照れ屋な息子殿」
「あんたが変なこと言うからだろ……!」
ニクスは文句を言いながらも、チラリと私の顔を様子見するように、気まずげな視線を向けてくる。
私は広げられた羊皮紙をじっと見つめた。
私を下働きとして扱わないための、あくまで形式的な体裁なのだろう。
それでも、彼らが私に向けてくれる優しさは、きっと本物なのだと思う。
けれど、自室のクローゼットに残されたあの服や、図書室の奥で見つけた血に染まった手記のことが、どうしても頭の片隅から離れてくれなかった。
もし私が『娘』として用済みになったら、あるいは彼らの機嫌を損ねてしまったら……やっぱりあの服の持ち主と同じように、消されてしまうのだろうか。
心の奥底に刺さった疑念の棘が、チクリと痛む。
ムコール様の「ニクスのお嫁さんに」という言葉も、きっと彼なりの冗談だ。
照れて慌てているニクスを見ても、急にこんなことを言われて、彼だって困っているはずだと思ってしまう。
「……はい。私で、いいのでしたら。……よろしく、お願いします」
声を振り絞って答えると、ムコール様は満足そうに深く頷いた。
私は差し出されたペンを受け取り、羊皮紙をじっと見つめた。
自分の名前を文字として書けるようになったのは、この館に来てムコール様に教わってからのことだ。
流麗な文字が並ぶ美しい羊皮紙の上に、私の不格好な文字を並べるのは、ひどく恥ずかしくて顔が熱くなる。
それでも、私は教えられた通りに、一画ずつ丁寧に、今の自分にできる精一杯の力で自分の名前を書き込んでいく。
すぐに叩いてきたり、家の外に放り出すお父さんとお母さん。
私が叩かれていても、ただ怯えて視線を逸らすだけの妹。
そんな本当の家族たちよりは、まだムコール様とニクスの方が、ずっと家族らしい……。
思わず、そんなことを考えてしまった。
どうせ帰る場所なんてないのだから、今はただ、この得体の知れない優しさに縋るしかなかった。
私が最後の一画を書き終えると、ムコール様は満足げに深く頷き、手に持っていた羊皮紙を大切そうに丸めた。
「私は明日、この書類を神殿へ届けなければいけないんだ。このサインに祝福を授けて貰い、形式的にとはいっても、貴族院に認めて貰わないといけないからね」
神殿というのは言葉だけ知っている。
村の小さな祠とは違う、王都にあるという巨大な石造りの聖域。
そんな場所に、私の書いた不格好な名前が運ばれていくのだと思うと、誇らしさよりも、どこか場違いなことをしてしまったような居心地の悪さが胸を掠めた。
「というわけで、明日はニクス。君がティリアを連れて、城下町を案内してあげなさい。結界の中なら魔物も出ないし、君がいれば悪い輩も近寄らないだろう?」
「任せてくれ。ティリアが食べたいと言っていた揚げ菓子も食べさせてやるからな」
ニクスは私を見て楽しそうに目を細め、隠しきれない尻尾を振るような無邪気さで嬉しそうに笑った。
「頼もしいね。まあ、危険はないはずだ。君もティリアと楽しんで、色々と学んでおいで」
「ああ、わかったよ先生」
ニクスはドンと胸を張り、自信ありげにムコール様に答えた。
その裏表のない態度に、私は少しだけ戸惑った。
彼は私が急に「ムコール様の娘」という立場になることを、少しも嫌がっていないようだ。
役立たずで何も出来ない私が、上辺だけとは言っても彼と対等な立場になるのを、何故すんなりと受け入れてくれるのだろう。
下働きだってするつもりなのに、どうして彼らは私にここまで良くしてくれるのだろうか。
ただの厄介者である私を受け入れてくれる彼らには、風変わりではあるけれど、確かな優しさはあるように思えてきた。
その後、私は人間の使用人たちに案内され、タウンハウスでの初めての夜を過ごした。
長年住み継がれたような、どこか雑然とした温かみのある森の館とは違い、この邸宅の磨き上げられた廊下には煌びやかな調度品が隙なく整然と並んでいる。
私を「お嬢様」と呼ぶ彼女たちに「長旅で汗もかかれたでしょう」とあれこれ世話を焼かれ、温かいお湯を張った広い浴室へ連れて行かれた。
そこで丁寧に身体を洗ってもらった後、ダイニングルームと呼ばれる立派な部屋で、ムコール様とニクスと三人で夕食を取った。
最初からすべての料理がテーブルの上に並べられていた森の館とは違い、ここでは使用人たちが、綺麗に飾り付けられた料理を順番に運んできてくれる。
まるで夢の中の出来事のようで、ずっと足が宙に浮いているような気分だった。
案内された三階の客室のベッドは、森の館のものと同じようにふかふかだった。
目を閉じると、羊皮紙に書いた自分のぎこちない文字が思い浮かぶ。
すぐに用済みになる……というわけではないと思っていいのだろうか。
あの恐ろしい『血塗られた手記』や、前の先生の遺品らしき『大きすぎる男性物の服』は、森の館のクローゼットに置いたままだ。
けれど、あの場所からどれだけ遠く離れても、不安が完全に消えるわけではない。
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