佐恵子1
周囲が闇から乳白色に染まり、石灰を入れたように消え出すと、カーテン越しの零れ陽が正幸の寝顔を映し出す。あれほど意欲的な活動をしている人とは思えない穏やかな表情だ。
半身を起こした彼女は「なぜ朔郎に会ったのだろう」と自問した。会いに行ったのではない、個展を見に行っただけと自分を誤魔化して起きると台所に向かった。
台所には朝の陽射しが裏窓を掠めて彼女に生気を与えるように今日も降り注いだ。
静かな湖面に石を落としたように、トーストの焼き上がる音とポットの沸騰を知らせる電子音が鳴った。たちまち乱れた湖面に慌ただしく波が立つように朝が始まる。
「あなた、朝よ!」
階下に立つ佐恵子の声が響いた。二階から正幸の声が返って来ると台所に戻った。
彼女が野菜を洗い皿に盛り付ける頃には、洗面を終えたパジャマ姿の正幸がキッチンテーブルに着いた。
「昨日も先に休んでしまってごめんなさい」
佐恵子はコーヒーカップに熱いコーヒーを入れながら砂糖のような甘い言葉を添えて出した。
正幸は上目遣いに佐恵子を見て軽く奥歯を噛み締めた。
「 気にすることはない、それよりかおりはもう学校に行ったのか」
「ええ……」
「 気にすることはない」とまた意味不明な言葉を繰り返した。彼はすぐにパンを頬張り、野菜とハムエッグを交互に食べ出した。
正幸は朔郎より良く喋る人だった。一緒になってからもそれは変わらなかったが最初の二人の子が死産すると、余程のショックだったのか仕事に埋没して口数も減って来た。それでも記念日やお互いの誕生日、その他の特別な日には、まめにその日に相応しい物を買って真っ直ぐ帰宅していた。単調な二人の生活だけに正幸の心遣いは嬉しかった。記念日と云う過去に執着して此の先の未来志向がぼやけて仕舞うのが悲しかった。何か有った日を大切にするのは良いが「これからどうするの」と云う先の事が脱落していた。
食事が済み正幸は居間で着替えると佐恵子は後片付けを始めた。
正幸はいつも自分でするから手間が掛からない。常に手際よく身なりを整えて行く。どんなに遅く帰宅しても飲み過ぎても、翌朝には上から下までビシッと決めて行った。最初はバサバサの頭でどうなるのか気を揉んでも数分で整髪した。




