佐恵子と有美子1
朔郎の事は正幸と一緒になってから考える事すら佐恵子は忘れかけていた。それが今は泉のように「なぜなの」と湧いて来る。
頬に当たる秋の風が益々過去を呼び起こして想い出を連れ戻しに来る。連れ戻された想い出が心を掻き回し始めるととても仕事にならない。
狂ったように照りつける夏の太陽の下を、黙々と歩き続ける二人の姿が脳裏に去来した。
口下手なあの人らしいと初めて言葉らしい言葉を交わした大学受付での彼の姿が浮かぶと、今朝の憂鬱な心境がもう心の何処にも残っていなかった。それほどあの時の朔郎が懐かしかった。
募る懐かしさが別の友を呼び込む。佐恵子は急に昔の友達に会いたくなった。仕事が終わりブイテックを閉めると時間は早いが有美子と約束した喫茶店『篝火』へ入った。
この店は定年後の退職金で始めたマスターが一人でやっていた。表通りから少し外れた細い道に面しており中は広く無いが静かな店である。カウンターとテーブル席が三つで十人も入ればいっぱいになる。しかし今までいっぱいになったのを見た事もなかった。
佐恵子は入り口に近いカウンター席に座りコーヒーを注文した。
「今日は特製のブレンドですよ。いい豆が入りましてね。さっき試しに飲んであなたの好みに合うと思い煎れました」
とマスターは珈琲を出した。
「あたしの好みが解るなんて、マスターとも長い付き合いになったのね」
「ええ、長いですよ」
マスターは一枚の写真を取り出した。それは夕暮れに染まる穂高だった。
「これを貴方に貰ったのが十年以上も前でしたからね」
「まだこんな写真を残していたのですか」
「ええ、良い写真ですからね」
それは朔郎が昔に撮った写真だった。




