陰り逝く下弦の月3
「それで彼は裏切りの代償として死をもって償ったのか」
「そんな言い方しか出来ないの。でも”あの時に“事実を知ってもあなたのところへは戻れなかった」
「じゃあなぜ何ひとつ、そんな素振りを見せないで”あの時“は去った」
『決して嫌いで別れるのじゃないのよ』と云うあの時の言葉は嘘だったのか。もうあのように偽善者ぶるのは止めてほしい。
「あの頃のあなたは向上心が麻痺して没落しても、あなたは魂の叫びを求めようとはしなかった。でもあの頃の正幸は違った」
「違う。ぼくは君の魂の叫びに応えようと北の海まで行った」
「その苦労は認めるわ、でも……」
珍しく佐恵子は次の言葉に躓いた。
「……それより、ねえこのピアノ曲は何て云うの」
ベートーベンのピアノソナタ月光は第三楽章に入っていた。話の腰を折られた朔郎はムッとした。佐恵子は正幸の死を知らせてから何故か落ち着きを取り戻していた。
「曲は『ベートーベンのピアノソナタ月光』それより原因はなんだったんだ」
佐恵子の切れ長の眼は大きく見開き、その瞳には満々と輝く笑みを堪えていた。こうなっては手遅れだ佐恵子に呑まれてゆく。
「『月光』そう云えばさっき時雨空から一瞬あなたの写真にあった下弦の月がちらっと見え隠れしていたの。あの翳りゆく月の光、それに似て良い曲ね」
佐恵子は突然、定まらない瞳を宙に浮かせて、飲みかけた紅茶をコタツ机に叩き付ける様に置いた。
「……分からない人ね !」
正幸の死を告げてから佐恵子の口調は時折変わった。彼女は正幸を追い詰めたもう一人の自分と戦っている。だが朔郎には突然の発作の兆候として捉えた。
「急に君はなにを言ってるんだ !」
佐恵子は我に返ったように宙に舞ってた瞳が朔郎の前でピタリと止まった。
「だからもう原因はなくなったって言ったでしょう」
朔郎の荒い口調に拘らず彼女は整然として穏やかに応えた。そして慈愛に満ちた瞳は不惑を前にした歳を消し去るのには十分だった。
朔郎は佐恵子のこの瞳の主張を拒めなくなった。魅力と云うより魔力だ。その美しさは審美性を通り越し、半ば狂気を帯びている。魅入られたように朔郎の心は落城してゆく。十四年の歳月を掛けた執念と云う牙城が崩れ去る。
ふたりが寄り掛かるのにはもう時間は要らなかった。
雨はスッカリ止み、窓から陰りかけた下弦の月が、それでも惜しみなく注いでいる。




