陰り逝く下弦の月1
思わず彼女の深淵に吸い込まれそうになった。
「私の好みをよく覚えていてくれたのね、それにこの部屋も昔のままで懐かしい」
「用件は?」
室内を見回す佐恵子に彼は単調に訊いた。
「相変わらず口数が少ないのね」
「男は無口な方が良いと言ったのは君だよ」
「あら、そうだったかしら」
彼女は笑った。
「まだこの前の吸血鬼のお礼をしてなかったわね」
「じゃあ手術は上手くいったのか」
「ええ、それでかおりがあなたに逢いたがってるの。もう一度病院へ来てくれない?」
朔郎は沈黙した。
「何か考える事があるの?」
「いや別に」
「別に、何なの」
「かおりが本当に会いたがってるのか。あの子は俺の事など今までは忘れて知らないはずだったのに」
かおりがいつ俺の事を知ったと云うのだろう。おそらく佐恵子が伝えたのは最近だと思うけど、しかしこちらから聞き出す勇気は無かった。
佐恵子との別れは突然何の前触れもなくやって来た。と云うよりある日、プツンと電話回線が切れたようなものだった。その日から何を言っても否定されたのだ。挙げ句の果てにこうして欲しいかったと好き放題に言い寄られて難癖をつけられた。もうこれは欠点のあら探しのようなものだった。要するにあなたを愛したのが間違いだったと突きつけられたのだ。突然、彼女の態度が別人に変わり果てて仕舞えばもう原因なんて解らない、掴めない。
別れを言い出す彼女にハッキリした理由があっても、言い渡された彼には寝耳に水であり、まして乳飲み子のかおりに別れを告げても無理にひとしい。ものごころ付いた頃に居る男が父親であっても何の違和感もない。




