一方で朔郎は3
あれは母が大根を煮込んでいたから冬だった。母は大根の煮物が好きで気候が寒くなると長い時間を掛けてグツグツと大根をよく煮ていた。頃合いを見ては鍋を上下に振っては器用に大根を裏返しては水を足して一服していた。その時に火加減を見たままで母がふと漏らした「冥加の悪い事だけはせんときや」と言った言葉が印象的だった。あの時はうなづいたが今も佐恵子の真意は解けず、ただ白髪が増え出した母のこの懐かしい光景だけが重なった。あの時は年老いた母を安心させてやりたいという想いだけが残った。だが今は綾子との将来だけが募った。
「本当に分からないんだ」
「でもその兆候は有ったんでしょう」
佐恵子に陰りはなかった。ただ夏なら晴れた青空から急に降る夕立のような激しさは秘めている。よく晴れた乾き切った冬空でも急に降る時雨を、狐の嫁入りとはよく言ったもんだ。
「ない、彼女の場合は痕跡すら全く残さなかった。そんな場合は返って逆行動を取り、こっちにしてみれば突然の出来事に映ってどうすればいいか戸惑うだけだった」
自然か相手ならいっとき物陰に身を寄せればいいが、佐恵子が相手では静まるまで心を寄せる場所がなかった。
「なぜそのままにしないで追いかけなかったの」
振り返らさせてもあの人は夜叉のように行く手に立ちはだかって、追う人の気持ちを萎えさせてしまう人なんだ!
「追えば彼女は遠のく。だから常に心を通わせていなけゃあ追う意味がないんだ。だから彼女の心に僕の入る余地がなかった」
今でも、と言い掛けると綾子は詮索を止めて、彼女は満面の笑顔で励ましてから店を出て駅に向かった。
二人は手を握りしめたままホームで電車を待った。若くは無いが手の温もりだけは、新たな門出を間近に控えた二人には、真摯に向き合う気持ちが伝わった。




