佐恵子の葛藤1
「あれは事実じゃあないんだ。二人が最後に登った山で起きたことは……」
佐恵子は暫く座敷机の端を見詰めた。そして急に顔を起こした。
「どう事実と違うと云うの」
「十四年前に君に言ったのは……」
佐恵子も友美もじっと正幸を見つめた。
「実は立場が逆だったんだ」
公にすればとっくに時効が成立してチャラになるのに、あの人に対して、もう取り返しがつかなくなったと佐恵子は嘆いた。
「嘘よ! 嘘に決まってるわ !」
と十四年前に言いたかった。それを何を今更、そんな真実は受け容れられない。朔郎に背を向け続けた長い年月をどう繕うの、と佐恵子は哀しそうな瞳をした。正幸は相変わらず平静だった。というよりどう対処すべきか結論が出なかった。
「どうしてそう言い切れるんだ。北村の事は君より俺の方が付き合いは長いんだぜ」
と正幸は虚しく反論した。
心の付き合いはあたしの方が長いのよ。その違いは愛情と友情の違いかしらと佐恵子は心の中で叫んだ。
「そうですけど、あなたは本当の朔郎さんを知らないわよ。あの人はあたしに心の底を見せても、あなたには絶対見せなかった」
「だからどうだって言うんだ。それほど知り尽くしている男をどうして捨てたんだ」
「今さらそんなこと言うのッ。あたしの責任だと言うのッ」
佐恵子の哀しみが伝わったのか、正幸の顔が初めて崩れて微かに瞳と口元が不安げに揺れた。
「佐恵子! 俺にも、親にさえも心を開かなかった男が君だけには初めて心を開いたんだ。そんな男から云い逃れするのか……。あいつはもう誰も信じない。あいつは貝になってしまっているんだ」
正幸は瞼の力が抜けるように視線を落とした。
友美はずっと卓にあるコーヒーカップを両手で飲まずに持ち続けていた。
「じゃ、なぜ、あなたはあの時、わたしに優しくしたの」
「苦しんでいる君を見てられなかった」
「それでッ」
「友情よりも貴いものを知った。いや、君が教えたようなものだった」
「そんな……、そんな言い方ないわ!」
「事実、あの時は、君次第だったんだ」
「今さらそんなこと言わないで!」
佐恵子は込み上げてくる嗚咽に必死に耐えた。




