第8話「名前を、聞いた」
QUEST #002「翻訳魔法の習得」
進捗:████░░░░░░░░ 33%
老人がまた石板に液体を塗り始めた。
二回目だ。
一回目と同じ動作に見えるが、今度は少し丁寧に、時間をかけている。
細い筆が石板の溝をなぞるたびに、かすかな音がした。
高くて細い音。
虫の声に少し似ている。
蓮は石板を膝の上に置いて、その音を聞いていた。
何かが、少しずつ変わっている気がした。
気がする、という程度だ。
でも確かに——耳の奥が、さっきより開いている感じがする。
老人が筆を置いた。
石板を持ち上げて、光に透かすように確認する。
それからゆっくり蓮に返した。
温かい。さっきより温度が上がっている。
老人が口を開いた。
「今日はここまでだ」
はっきり聞こえた。
蓮は思わず老人の顔を見た。
老人は表情を変えずにカップを口に運んでいる。
「聞こえたか」という顔すらしていない。当たり前のことが起きた、という態度だ。
——今日はここまで。
つまり、まだ終わっていない。
蓮はスマホを確認した。
QUEST #002「翻訳魔法の習得」
進捗:██████░░░░░░ 50%
半分。
―――――――――――――――――
老人が立ち上がり、奥の部屋へ消えた。
しばらく戻ってこない。
蓮はカップに残った液体を一口飲んだ。
温かくて、少し苦い。薬草茶の類だろうか。
日本で飲んだことのある味とは違うが、不快ではなかった。
カップを両手で包んで、蓮はぼんやりと考えた。
今、現実では何時だろう。
電車の中から転送されたのが朝だった。
授業は一限から入っていた。もう終わっている時間のはずだ。
友達からLINEが来ているかもしれない。
教授からのメールも。
——考えても意味がない。
帰れるのはクエストをクリアしたときだけだ。
今できることをやる。それだけだ。
蓮とエルフだけになった。
沈黙が落ちた。
外から風の音がする。どこかで子供の声がして、遠ざかっていった。
エルフがカップを置いた。
蓮を見た。
何か言おうとして——言わなかった。
また少し間があって、今度は口を開いた。
音が来た。
意味の輪郭が来た。
「……お前は、どこから来た」
そう聞こえた。
蓮は一秒、自分の耳を疑った。
でも間違いない。そう言った。
「日本、です」
エルフが目をわずかに細めた。
「ニホン」という音を繰り返した。意味がわからない、という顔だ。
当然か。
蓮はメモ帳を開いた。
地球の丸い形を描いて、小さな島を書き加えた。
それを指さして「ここ」というジェスチャーをした。
エルフは画面を見て、また蓮を見た。
「遠いのか」
「……かなり遠いと思います」
エルフが小さく息をついた。
感想なのか、納得なのか。どちらにも聞こえた。
―――――――――――――――――
しばらく沈黙が続いた。
会話が途切れた、というより——二人とも次の言葉を探している感じだった。
蓮はふと思った。
この人の名前を、まだ知らない。
最初に会ってから何日も経っている。
森で矢を抜いて、川辺で休んで、村まで来た。
ずっと「エルフ」としか呼んでいない。
頭の中でも。
蓮はメモ帳に書いた。
棒人間の自分を描いて、そこに「蓮」と書いた。
それを指さして、自分の胸を叩いた。
エルフが画面を見た。
「レン」
音が来た。
自分の名前が、この世界の言葉で発音された。
なんか、変な感じだ。悪くはない。
蓮はメモ帳のエルフの棒人間を指さした。
「?」と書いた。
エルフが画面を見た。
少し間があった。
警戒、ではない。考えている。
それから口を開いた。
音が来た。
意味が来た——ではなく、音だけが来た。
翻訳魔法がまだ50%だからか、固有名詞は変換されないのか。
でも音ははっきり聞こえた。
「……もう一度、言ってもらえますか」
エルフが繰り返した。
蓮はメモ帳に音をそのままカタカナで書き留めた。
三文字。
――リエナ。
蓮はその文字を見て、エルフを見た。
「リエナ、さん」
エルフが——リエナが——少し目を見開いた。
驚いた顔だった。
初めて見る種類の表情だった。
何かを言いかけて、止めた。
その代わりに、ゆっくり頷いた。
深く。一度だけ。
スマホが振動した。
QUEST #002「翻訳魔法の習得」
進捗:█████████░░░ 75%




