第4話「クリア、そして」
どこへ向かっているのか、蓮にはわからなかった。
エルフは迷わず歩く。
木々の隙間を縫うように、獣道にも満たない細い踏み跡を進んでいく。
地図もコンパスも見ない。ただ、体が道を知っているような歩き方だった。
蓮はその三歩後ろをついていった。
(怪我をしているのに、足が速い。)
左肩をかばう様子はある。腕をあまり振らず、少し体を傾けて歩いている。
でもペースは落ちない。
痛みには慣れているのか、それとも——こういう生き物なのか。
どちらなのかは、まだわからなかった。
―――――――――――――――――
十五分ほど歩いたとき、木々がまばらになった。
視界が開ける。
小さな川だった。
幅は三メートルほど。水は澄んでいて、川底の石がはっきり見える。
流れは緩やかで、水音が低く続いていた。
エルフは川岸に座り込んだ。
右手で川の水を掬い、顔を洗う。
それから、左肩の包帯をそっと確認した。
血は滲んでいない。
蓮はそれを確認して、ひとつ息を吐いた。
川岸の岩に腰を下ろす。
エルフとの間に、自然な距離を保ちながら。
スマホを取り出す。
QUESTの画面を開いた。
QUEST #001「人物の救助」
進捗:████████░░░░ 67%
変わっていない。
(まだか。)
「救助」の残り三分の一が何なのか、蓮にはまだ見えていなかった。
処置は終えた。
安全な場所——川のそばという意味では、水もある。
あとは何だ。
エルフが何かを言った。
振り向くと、川を指差していた。
それから蓮を指差す。
飲め、ということだろうか。
蓮は川に近づき、水を掌で掬った。
冷たい。
飲めるかどうか判断できない——現代の感覚では川の水をそのまま飲むのは躊躇する。
でも、ここは現代ではない。
少し考えて、口をつけた。
冷たくて、かすかに甘い。
悪くない。
エルフが短く何かを言った。
さっきより声のトーンが柔らかかった。
からかっているような気もしたし、そうでない気もした。
―――――――――――――――――
しばらく、川のそばで過ごした。
エルフは目を閉じていた。
休んでいるのか、それとも何かを感じ取ろうとしているのか——わからない。
蓮はスマホのメモ帳を開き、今起きていることを箇条書きにし始めた。
・AIアプリ「Aria」に質問→異世界に転送される
・スマホはそのまま手元にある。電波なし、コンパスは動く
・クエストをクリアすると帰れる(らしい)
・エルフ女性と遭遇。矢が刺さっていたので処置した
・言葉は通じない
・QUEST進捗:67%
書き出してみると、状況が少し整理された。
Ariaに頼れないなら、自分で考えるしかない。
それはわかっている。
でも、「自分で考える」という行為が、こんなに重く感じたのは初めてだった。
(Ariaがあれば、今すぐ「救助クエストの残り条件は何ですか」って聞けるのに。)
聞けない。
だから考える。
「救助」とは何か。
傷を治す。安全な場所に連れて行く。それだけか?
——いや。
蓮は顔を上げた。
エルフを見た。
目が合った。
エルフはまだ目を閉じていると思っていたが、いつの間にか開いていた。
こちらを見ている。
蓮はスマホの画面をエルフに向けた。
メモ帳ではなく、QUESTの画面を。
数字の「67」と、進捗バーが見えるはずだ。
エルフには意味がわからないだろう。
でも、蓮は何かを確かめたかった。
エルフは画面を見て、また蓮の顔を見た。
短く、何かを言う。
問いかけのイントネーションだった。
蓮はスマホを自分に向け直し、メモ帳を開いた。
棒人間を二人描く。
一方の棒人間の頭に矢印を描いて、遠くへ向かっているように見せる。
「帰る」という意味のつもりだった。
エルフはその絵を見た。
しばらく、じっと見ていた。
それから——何かを決めたような顔で、立ち上がった。
蓮を見て、短く言う。
それから、森の奥へ向かって歩き出した。
ついて来い、ということだと思った。
―――――――――――――――――
五分ほど歩いたとき、開けた場所に出た。
草地だった。
直径で十メートルほどの円形の空き地。
木々に囲まれていて、空が丸く見える。
西の空が、少しずつ橙色に変わり始めていた。
エルフは空き地の中央に立ち、空を見上げた。
何かを呟く。
低い声で、でも明確に——何かを言った。
その瞬間、蓮のスマホが振動した。
画面を見る。
QUEST #001「人物の救助」
進捗:████████████ 100%
クリア条件達成——帰還の準備が整いました。
「……」
思わず息を止めた。
(ここが、安全な場所だったのか。)
エルフが連れて来た場所。
彼女が「ここなら大丈夫だ」と判断した場所。
それがクリア条件の残りだった。
「救助」とは——怪我を治すことではなく、安全な場所まで届けること。
最後まで、エルフ自身がそれを決めることだった。
スマホが光り始めた。
あの白い光だ。
足元から視界が白く塗りつぶされていく。
エルフがこちらを向いた。
光の中で、銀色の髪が揺れた。
何かを言おうとして——やめた。
蓮は小さく手を上げた。
「また来るかもしれない」
そう言った。
通じない言葉で、また言った。
光が全身を包んだ。
―――――――――――――――――
気づいたら、自分の部屋の床にいた。
天井。見慣れた蛍光灯。
棚に並んだ参考書。机の上のコップ。
スマホの画面を確認する。
午前三時二十二分。
転送される直前は午前一時過ぎだったから——二時間以上が経過している。
(異世界では、もっと長くいた気がする。)
正確な時間の差はまだわからない。
でも、ズレがあるのは確かだ。
蓮はリュックを下ろし、床に座ったまま天井を見た。
Ariaのアプリを開く。
QUESTのクリア記録は、残っていない。
昨夜送ったメッセージがあるだけだ。
「エルフってどんな生き物?」
送信済み。
既読なし。
まるで何もなかったかのように。
蓮はしばらくそのままでいた。
川の水の冷たさが、まだ掌に残っている気がした。
翌朝、大学へ向かう電車の中で、蓮はAriaを開いた。
昨夜のことが頭にあった。
クエストのこと。エルフのこと。
翻訳魔法の話を、エルフが途中で何か言いかけていた気がした。
あれは何だったのか。
指が動いた。
「翻訳魔法って何?」
送信した。
一秒後——電車の窓の外の景色が、消えた。
電車の中で送っちゃうんですね蓮くん……
自業自得とはいえ、タイミングが最悪すぎる(笑)
次話はいよいよ2回目の転送です。
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