エルフ王国 - 11
祭りの前日。
エルフの国全体が、慌ただしい活気に包まれていた。
王の誕生日を祝うため、街のあちこちで人々が準備に追われている。
色とりどりの花が道を飾り、巨大な木々の間には旗が吊るされ、職人たちは街中に飾り付けを施していた。
王が未だ行方不明のままでも……祭りは予定通り開催されることになっていた。
アウエルたちの一行も、準備を手伝っていた。
すべてのエルフが外来種族を歓迎しているわけではなかったが、それでも多くの者たちは感謝の笑顔を浮かべながら彼らの手を借りていた。
街の中央には、巨大なエルフ王の像が立っていた。
何人かの作業員がその台座を飾る中、アウエルは黙々と像の周囲に花飾りを結びつけていた。
彼は一人で作業していた。
「……手伝おうか?」
突然、後ろから聞き覚えのある声がした。
アウエルは振り返りもしなかった。
「いらない」
像の陰から、シルフィーが小さな笑みを浮かべながら顔を覗かせた。
「……本当に全部一人で飾るつもりなの?」
アウエルはただ頷いた。
それでもシルフィーは彼の隣に立ち、黙って作業を眺めていた。
シルフィーは後頭部を掻いた。
「それで……明日は何か予定あるの?」
「ない」
「答えるの早いね」
シルフィーは小さくため息をついてから、再び笑顔を浮かべた。
「じゃあ……一緒に祭りを見て回らない?」
「嫌だ」
「……また?」
「そうする理由がない」
「でも楽しいよ」
シルフィーは賑わう通りを指差した。
「屋台もあるし、いろんな催し物もある。それに夜には花火もあるんだよ」
「絶対に楽しめるって保証するよ」
アウエルはそこでようやく手を止めた。
ゆっくりとシルフィーを見る。
「聞いてくれ」
「君が俺を誰だと思っているのかは知らない」
彼の声は相変わらず穏やかだった。
「でも、俺は君の昔の仲間じゃない」
シルフィーの笑顔が、ゆっくりと消えていく。
「君が俺を見る目は気づいている」
「俺の顔に、別の誰かを重ねようとしているだろ」
彼女は視線を落とした。
「だから、もうやめてくれ」
「俺はそいつじゃない」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
シルフィーは無理に小さな笑みを浮かべた。
「……分かってる」
「本当に……分かってるんだよ」
「君が彼じゃないってことは」
「……なら、それらしく接してくれ」
アウエルは再び像の飾り付けを始めた。
シルフィーはその場に数秒立ち尽くしたあと、静かに背を向け、その場を離れていった。
人混みに消える直前、彼女は小さく呟いた。
「……頑張ってるんだけどな」
そして翌日――待ちに待った祭りが、ついに始まった。
過去二ヶ月の重苦しい空気とは打って変わり、街は笑い声で溢れていた。
子供たちは通りを駆け回り、商人たちは威勢よく商品を売り込んでいる。
街中には音楽が響き、演奏者や芸人たちが人々を楽しませていた。
女子たちは、祭りの屋台が並ぶ人波の中へすぐに姿を消していった。
一方、アウエルは大通りの近くにある小さな喫茶店で、一人静かに座っていた。
窓越しに、外で続く祭りを眺めている。
そこへ、メイドが紅茶の入ったカップを運んできた。
「お待たせいたしました」
彼女は丁寧にカップを置き、礼儀正しく一礼した。
エルフとは違い、彼女の腕の一部は茶色い毛に覆われており、垂れた犬の耳と、後ろでゆっくり揺れるふさふさの尻尾があった。
獣人だった。
アウエルは頷き、紅茶を一口飲んだ。
メイドは少し迷ったあと、再び口を開いた。
「あの……このお祭りに参加するのは初めてですか?」
アウエルは顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「王様の誕生日祭です」
彼女は温かな笑顔を浮かべた。
「今年が初めてですか?」
「……ああ」
彼女の笑顔がさらに明るくなる。
「本当ですか。では、どうか楽しんでいってくださいね」
彼女は窓の外へ目を向けた。
「……とはいえ」
「今年は少し寂しいですけどね」
アウエルも彼女の視線を追った。
「……王が行方不明だからか?」
彼女は小さく「ワン」と鳴いた。
「いつもなら……陛下自ら街を歩いてくださるんです」
「みんなに声をかけて……」
「エルフだけじゃありません」
「どんな種族に対しても、平等に接してくださる方でした」
「私たちみたいな獣人にも」
彼女は小さく笑った。
「私が陛下に会ったのは一度だけなんですけどね」
その笑顔には、どこか寂しさが混じっていた。
「だから……早く帰ってきてほしいなって思います」
「……素晴らしい王様でしたから」
アウエルはゆっくりとカップを持ち上げた。
「……そうだな」
メイドは慌てて姿勢を正した。
「あっ、すみません!」
「私、話しすぎました」
「まだ仕事が残っているので……」
彼女はもう一度頭を下げると、他の客のもとへ戻っていった。
アウエルは静かに彼女の背中を見送った。
そして再び外へ目を向ける。
人々は笑い続けていた。
子供たちは屋台の間を駆け回り、通りの中央では楽師たちが演奏を続けている。
王がいなくても……人々は祭りを祝っていた。
これは王の無事を祈るためなのだろうか。
それとも……王が愛した伝統を守ろうとしているだけなのだろうか。
アウエルには分からなかった。
その時、何かが彼の視界に入った。
一人のエルフがこちらを見ている。
そのエルフは喫茶店の中へ入ってきた。
シルフィーだった。
「……見つけた」
昨日と変わらない明るい笑顔を浮かべながら、シルフィーがこちらへ歩いてくる。
アウエルは彼女を見ると、ため息をついた。
シルフィーは許可を求めることもなく、彼の向かいの席に座った。
「……何をしている?」
「君を探してた」
「……どうして?」
「別に……私がそうしたかったから」
アウエルは再びため息をついた。
「昨日も言っただろ」
「俺は君の友人じゃない」
「分かってる」
今回は昨日よりも早く答えた。
「昨日……君に言われたことをずっと考えてたんだ」
彼女はテーブルに顎を乗せる。
「だから今日は……」
「君のことを知ろうと思って」
「……私がずっと思い出している人じゃなくてね」
アウエルは一瞬だけ彼女を見る。
そして再び目を逸らした。
シルフィーの笑顔が、ほんの少しだけ明るくなった。
彼女は手を上げる。
「すみませーん!」
「彼と同じ飲み物をお願いします」
獣人のメイドは笑顔で答えた。
「かしこまりました」
再び二人の間に沈黙が流れた。
だが昨日とは違い……その沈黙は気まずくなかった。
「それで……」シルフィーが再び口を開いた。
「どう?」
「何が?」
「お祭り」
アウエルは窓の外を見る。
「……人間の街の祭りと大して変わらない」
シルフィーは笑った。
「それは昼しか見てないからだよ」
「本番は夜」
「花火だよ」
「絶対に綺麗だから」
「……たぶんな」
「たぶん?」
「そこまで長居するつもりはない」
シルフィーは目を瞬かせた。
「どうして?」
「うるさいから」
シルフィーは思わず笑った。
「……理由、それだけ?」
「苦手なんだ」
彼女は笑いながら首を横に振った。
「本当に変わった人だね」
しばらくして、彼女は再びアウエルを見る。
「……一つ聞いてもいい?」
アウエルは彼女を見る。
「君って、いつも……」
彼女は言葉を探した。
「……寂しそうだよね」
アウエルの手が、ティーカップへ伸びる途中で止まった。
「いつもそんな顔をしてる」
「……他の誰にも見えない何かを、一人で背負ってるみたい」
アウエルは静かにもう一口紅茶を飲んだ。
「……君には関係ない」
「……そうかもしれない。でも……ただ知りたかったんだ」
「何かあったの?」
答えはなかった。
「……話したくないなら、無理に話さなくてもいいよ」
「ただ……心配だったから」
アウエルはようやくカップを置いた。
「過去には……そのまま過去にしておいたほうがいいこともある」
シルフィーは視線を落とした。
「……そうかもね」
彼女は小さく笑った。
「……どうやら私たち二人とも、過去を背負ってるみたいだね」
アウエルは答えなかった。
二人は飲み物を飲み終えると、喫茶店を出た。
祭りはさらに賑わいを増していた。
通りは人で埋め尽くされ、巨大な木々の下には笑い声が響いている。
シルフィーは何も言わず、アウエルの手首を掴んだ。
「ほら、行こう」
「……」
「せっかく来たんだから」
「祭りの間ずっと喫茶店に座ってるなんて、もったいないよ」
アウエルが反論するより先に、彼女は彼を人混みの中へ引っ張っていった。
一つ、また一つと屋台を巡っていく。
シルフィーはエルフ伝統のお菓子をアウエルに紹介し、精霊魔法を使った踊りを見せる演者のところへ彼を連れていき、手作りのアクセサリー店にも立ち寄った。
昨日と比べると、アウエルは何でも即座に拒否することはなくなっていた。
シルフィーもそれに気づいていた。
彼女は一人で小さく笑う。
もしかしたら……。
彼は思っていたほど面倒な人じゃないのかもしれない。
ゆっくりと午後が過ぎていった。
街の広場周辺に人が集まり始め、通りはさらに混雑していく。
子供たちは追いかけっこをしながら走り回り、楽師たちは陽気な旋律を奏でていた。
その時――。
街に大きな影が落ちた。
笑い声が止まる。
一人、また一人と人々が空を見上げる。
だが、太陽の光が強く、その姿を確認することはできなかった。
何か巨大なものが、太陽の光を遮っていた。
それは王都の遥か上空に浮かんでいた。
「……あれは何だ?」
誰もがその正体を知ろうとした。
だが、何なのか誰にも分からない。
やがて目が光に慣れてきて――。
その姿が、少しずつはっきりと見えてきた。
巨大な翼。
長い尾。
湾曲した角。
「……ドラゴン……」
誰かが呟いた。
その言葉は瞬く間に群衆へ広がった。
「ドラゴンだ!」
「そ、そんな……見間違いじゃないのか!?」
「どうしてこんなところにドラゴンが!?」
広場に一気に恐慌が広がった。
警備兵たちがすぐに配置につく。
「市民を守れ!」
シルフィーはほとんど反射的にアウエルの前へ出た。
背中の弓へ手を伸ばす。
そしてゆっくりと弦を引き絞った。
「パワーショット!」
矢が凄まじい速度でドラゴンへ向かって飛んでいく。
――カァン!
突然、矢が弾き飛ばされた。
「……え?」
シルフィーの目が見開かれる。
アウエルも目を細めた。
何か……。
いや。
誰かがいる。
ドラゴンの首の後ろ。
長い槍が、一瞬だけ太陽の光を反射した。
誰かがドラゴンに乗っている。
乗り手もドラゴンも動かなかった。
ただそこに留まり、静かに眼下の街を見下ろしていた。
そして――。
巨大な翼が一度、大きく羽ばたく。
ドラゴンは方向を変えた。
そして、果てしなく続く森の向こうへ消えていった。
「……行った?」
「……それだけ?」
群衆は困惑しながら互いの顔を見合わせた。
「あれは何をしに来たんだ?」
「どうして攻撃してこなかった?」
「……誰にも分からない」
恐怖は徐々に不安げな囁きへと変わっていった。
警備兵たちは人々を落ち着かせ続けている。
「どうか落ち着いてください!」
「すべて問題ありません!」
それでも……その言葉を本気で信じている者は誰もいなかった。
そして、あの巨大な存在が何だったのかを考えていたアウエルは、突然動きを止めた。
背筋を這うような、奇妙な感覚。
誰かが自分を見ている。
アウエルはゆっくりと広場にいる人々を見回した。
何千もの顔。
それでも、その視線の正体を見つけることはできない。
「アウエル?」
シルフィーが首を傾げる。
「どうしたの?」
アウエルは答えなかった。
代わりに、彼の視線が人混みの中を歩いてくる見覚えのある集団で止まった。
四人の枢機卿。
その周囲を取り囲む、王宮の警備兵たち。
その瞬間――奇妙な感覚が消えた。
枢機卿たちは広場の中央近くに設置された小さな壇上へ上がった。
そのうちの一人が手で口元を覆う。
「皆さん」
穏やかな声が、驚くほど遠くまで響き渡った。
その手のひらには魔法陣が浮かんでいる。
群衆は徐々に静かになった。
「皆さんが不安を感じていることは理解しています」
「今日起きたことによって、多くの方が不安を抱えていることも分かっています」
彼は人々を見渡した。
「そして……」
「……陛下が未だ行方不明であることも」
空気が一瞬で重くなる。
「ですが、我らが王が帰還されるその日まで……」
「我々がこの国を守ります」
「どれほどの犠牲を払おうとも」
「たとえ……我々自身の命を差し出すことになろうとも」
沈黙。
そして、広場のあちこちから少しずつ歓声が上がり始めた。
不安に包まれていた空気が、徐々に落ち着いていく。
祭りは再び始まった。
だが、先ほどまでのような賑やかさはなかった。
誰もが時折、何もない空を見上げていた。
「アウエル」
グラムとギルが、ようやく人混みの中から彼らを見つけた。
「なあ、さっきのドラゴンを見ただろ?」
ギルが尋ねた。
アウエルは頷いた。
「……俺が気になっているのは、そこじゃない」
グラムが腕を組む。
「どういうことだ?」
「誰かが乗っていた」
ギルが目を瞬かせた。
「……マジで?」
「ああ。はっきりとは見えなかったが、上に人がいた」
沈黙が流れた。
シルフィーは腕を組んだ。
「私はずっとこの国で暮らしてきたけど……」
「この森の近くでドラゴンを見たことなんて一度もないよ」
ギルは頭を掻いた。
「本当に? 森の中に隠れていたドラゴンって可能性は?」
「……私を疑ってるの?」
「いや、彼女の言ってることは間違ってないと思う」
「この森の周辺には山が一つもない」
「それなのに、どうしてドラゴンがここまで来たんだ?」
「ドラゴンって、普通は巣から出てこないんだろ?」
アウエルは首を横に振った。
頭の中では、思考が止まることなく巡り続けていた。
ドラゴンが突然現れ、誰かがそれに乗っていた。
一体、何が起きた?
……あいつらも王の事件に関わっているのか?
「なあ……さっきの感覚、感じたか?」
グラムが突然、声を潜めて尋ねた。
アウエルは頷いた。
「一瞬だけ……誰かが俺たちを真っ直ぐ見ていた」
ギルも眉をひそめる。
「ああ。それも、ほとんどすぐに消えた」
「間違いなく、あいつらの中からだ」
ギルは枢機卿たちを指差した。
「でも、どうして王宮に行った時には何も感じなかったんだ?」
「分からない」
「俺たちに干渉するなと警告したかったのかもしれない」
シルフィーは三人の顔を見比べた。
「ちょっと、私を無視しないでよ」
「何があったの?」
「誰かに見られているような気がしたんだ」
グラムは苦笑しながら答えた。
「見られていた?」
シルフィーの表情が強張る。
「ああ。それも……どういうわけか枢機卿たちの方からだった」
「まずは合流して、これについて少し話そう」
アウエルが言った。
「他のみんなは?」
「まだ祭りを楽しんでるよ」
ギルが答える。
「まあ、今は祭りなんだし、そこまで深刻に考えるなよ」
グラムも続けた。
「今日くらいは祭りを楽しんで、明日話し合えばいい」
「そうだよ」
シルフィーも頷いた。
「せっかくのお祭りなんだから、難しいことばかり考えてちゃもったいないよ」
シルフィーは突然、再びアウエルの手首を掴んだ。
「ほら!」
彼女は笑った。
「ドラゴンが現れてからずっと難しい顔してるじゃん」
「今日はお祭りなんだから」
「謎解きは明日すればいいよ」
返事を待つことなく、彼女はアウエルを別の屋台へ引っ張っていった。
「おい」
「ほら、行こう!」
「今日くらい……一回ぐらい笑ってみなよ」
シルフィーに再び祭りの中へ引きずり込まれていくアウエルを見ながら、グラムとギルは静かに笑った。




