第一話
体調不良の描写を含みます。
頭が重たくて中々起き上がれない。今日はあまり体調が良くない日だ。遠慮がちに部屋の扉がノックされて、僕は無理矢理に上体を起こした。
「星汰、起きてる?母さんが様子見て来いって」
「うん。起きてるよ」
「入っていいか」
「どうぞ」
強がりたくてもベッドを離れることは叶わない。しょうがなく足だけを床について、部屋を覗いた兄と目を合わせた。
「おはよう。調子良くないのか」
兄の陽都は僕の顔を見るなりそう言った。
「ううん、そんなことない」
「嘘言え。もう少し横になってろ」
首を横に振ると一緒に視界が揺れて、返事をしながら俯いた。陽都はそんな僕の仕草も見逃さない。そうして細く光が差し込むカーテンをぴったり閉め直した。
「頭は?」
「少しだけ」
「俺の声、聞こえる?」
「うん。平気」
「そこまで酷くないか。様子見だな」
陽に当たることが出来ない僕の体調は、空模様や空気の変化に左右されやすい。頭痛は一番に感じやすいし、水中に潜ったように耳が聞こえにくくなることもある。
雲が多ければ調子がいい訳ではないところが厄介だ。今日は雨が近いのだろう。外を見なくても分かった。
大人しくベッドに横になると、僕の傍で陽都は困ったように微笑んだ。一つ年が違うだけなのに、その表情は僕なんかよりだいぶ大人だ。
「お仕事は?」
「今日は夜勤だよ」
「そっか。大変だね」
「もう慣れたよ」
陽都は保育士をしている。二十四時間開所している保育園は珍しくて、中々に需要があるらしい。眠っているだけでは済まない小さな子どもの相手を夜通しするのは、相当な労力だろうと思う。考えるまでもないけれど、僕には無理だ。
でも、子どもが好きなところは僕も同じだ。そこだけは兄弟が似ている唯一のところだと認める。
「保育園の子たち、最近は何が好き?」
身体を横にしただけで眠ろうとしない僕の質問にも、陽都は嫌な顔をしない。子どもの相手でもするように、いつでも柔らかな表情をしている。
「何だろうな……動物とか?最近は馬とか。ほら、今年の干支だから」
「お馬さんが流行ってるんだ」
「ブームってほどじゃないけど。製作とかするからさ」
壁に飾る製作物の準備に悩む陽都の姿は何度も見たことがある。画用紙を切ったり貼ったり、それなりに器用にこなしていて、いつも感心する。
「お馬さんかぁ」
「参考になるか」
「うん。考えてみる」
「楽しみにしてるよ。また様子見にくる。ちゃんと寝ておくんだぞ」
そう言って、陽都は僕の髪を撫でた。僕たちは所謂、一般的な兄弟とは少し違う。僕の体質がそうさせていることは間違いない。兄の真っ直ぐな優しさは僕の眠気を誘った。
次に目が覚めたとき、身体の違和感は消えていた。思っていたよりも深い眠りについていたようで、時計は優に正午を過ぎていた。朝と昼が一緒になった食事を済ませて、夜勤に向かう陽都を見送る。
こんな日が常にある。文字通り、これが僕の日常だ。
父さんも母さんも、仕事で家を空けていることが多い。両親が不在の家庭を支えているのは陽都だ。僕だって成人を超えているのに、頼りになるどころか手を煩わせるばかりだ。落ち込む日は少なくない。
無理の利かない自分は、いつだって悔しくて情けない。そんな僕は自分の存在意義を確かめるように、習慣としていることがある。
絵本を作ることだ。絵本といっても、画用紙を折りたたんでまとめただけの、簡単なものだ。所詮はただの趣味で自己満足に過ぎない。側から見れば好き勝手な戯事だと思われるだろう。
両親も陽都も口出しせずにいてくれるのは、優しさなのか諦めなのか分からない。調子のいい僕は、このことに関しては前者と捉えて甘えている。何よりも、莉空が喜んでくれるのだ。
二十近くも年が離れた妹の莉空は、まだ保育園に通っている。コロコロと遊び回る姿が可愛らしくて、子どもが好きな僕と陽都は揃って莉空を溺愛している。
『にに!』
莉空が初めて発した言葉を思い出して頬が緩む。
『にぃにって言ったね。僕のことかな』
『いや、きっと俺のことだ。な、莉空』
『違うよ、ね、莉空。今度はせーちゃんって言ってごらん』
『それなら、はーくんの方が言いやすいぞ』
莉空を取り合って陽都と言い合いをした日は、まだつい最近のことのようだ。あれからあっという間に莉空は走り回るようになって、よく話すようになった。
『せーちゃん、げんき、ある?』
僕の顔を見ると、挨拶よりも先にそう尋ねてくるような優しい女の子に育っている。元よりこれは、母さんや陽都がよく使う言葉を真似しているだけだと思うけれど。
陽都が仕事に出かけて、家の中はしんとした。莉空は保育園に行っている。
体調はもう悪くない。作業でも始めようかと、画用紙や色鉛筆をテーブルに並べた。あまり使うことはないけれど、一応カラーペンも用意しておく。一息つくと同時にスマートフォンが震えて、一瞬心臓が跳ねた。電話の相手は陽都だ。
「もしもし。どうしたの」
「あ、星汰?」
「そうだよ。これ僕のスマホだし。何か忘れ物?」
公共の雑音は賑やかに聞こえた。陽都は息を切らしている。急いでいるのだろう。
「ううん。今夜は莉空、俺のところで預かるから。言い忘れてた」
「そうなんだ」
「お前はゆっくり休めよ。何かあったら連絡して。じゃあ」
僕の返事を待たずに通話は切れた。
陽都の夜勤の日、それに僕の体調が優れない日が重なると、莉空は陽都の保育園で夜を過ごすことがある。僕たちの、というより主に僕の事情を知った上での特例だそうだ。
莉空が賑やかにしていれば、僕が休みたくても休めなくなる。僕からすれば、莉空が騒ぐ声なんてこれっぽっちも気にならないけれど、陽都は気遣ってそうしてくれる。
「一人か」
父さんも母さんも帰りはきっと夜遅い。孤独に慣れていても、寂しいものは寂しい。
じっとしていると闇に引き摺り込まれてしまう気がして、一人で大きく手を叩いた。パァンと響いた軽快な音は、気持ちを切り替える合図だ。




