第一話
煩い。ポケットの中で、スマートフォンがひたすらに振動を続けている。不快だ。俺はそれを無視した。こいつの意識があるうちに、身体を奪うのは初めてだ。
『今は駄目です、菖さん、お願いします』
少し前、この場を去ろうとしたこいつにそう懇願されたことも無視して、俺は今此処にいる。また此処にやって来ると、心に決めたこいつの考えなど手に取るように分かる。いくら抗われても関係はない。この身体は俺のものだ。
梓の中に渦巻く黒い感情が、俺のことを成長させた。表面上は平気な振りをしていても、その内側は負の色に染められていく。
積み重なるストレスに負けて、この体が失われてしまえば、俺は消える。そんな事態は、俺からすれば不本意だ。故に俺は、あの日を境に自我を持ち始めた。
“お前なんか、いなくたっていいんだ”
冷たくて重たい響きは、梓の心を深く傷付けた。俺は苛ついた。何も言い返さないこいつが、平気な振りをしているだけだと分かっていたからだ。
『おい、お前』
「今は、何も言わないでもらえますか」
呼びかけただけの俺の声を聞こうともせずに、梓は塞ぎ込んだ。勝手に命を絶とうとしておいて、そうする覚悟はまるでなかった。俺は余計に苛ついた。
そしてその日の夜、内に秘められた梓の友達だった俺の人格は、初めて外の世界に触れた。
痛む足を庇いながら、梓は眠りについた。俺の意識は常に眠っているような曖昧なもので、梓の呼びかけがなければ大抵は静かにしている。
鬱々とした梓の世界を変えてやりたくて、俺は横たわる身体に力を込めた。こいつの世界は、俺の世界だ。
曇りきった気持ちを晴らす。まずはそれが先決だった。怪我を負った足は上手く動かせなくて、部屋の外に飛び出す訳にはいかない。胸の奥に共有している暗闇を解き放つように、俺は暴れた。
棚に並ぶ本を床に放り投げる。ページを破く。閉め切られたカーテンを切り裂く。引き出しの中身もゴミ箱の中身も、全てを散らばせた。出来る限り、力の限りに、めちゃくちゃにする。
「……はは、あははっ」
爽快に消えた闇の先に待っていたのは、ただの朝焼けだった。俺は笑った。
自分の目で見る花畑は色鮮やかで、不覚にも見惚れた。またここへ来よう、と、隠れたつもりでそう思った梓が何を考えたのかは分からない。けれどそれは、恐らく俺の排除だろうと察した。だから、時計を確認してここを去ろうとした梓の身体を、俺は奪った。
やろうと思えば案外簡単なことだと、分かっていた。敢えてそうして来なかったのだ。
「お前は、何がしたいんだ?」
返される言葉はない。この状態に堪えているのは、俺よりも梓だろう。俺によって閉じ込められた梓の自我は、完全に失われている。
背負われていたリュックを投げ出して、俺は天を仰いだ。背中に感じる草花が、肌を柔らかく刺激する。見上げた夜空がただの暗闇ではないことを、ことのき初めて知った。遠く離れた小さな星の眩しさを、このとき初めて感じた。
「……たったこれだけで、十分じゃないのか」
俺は初めて、涙の味を覚えた。




