第二話
小さく揺れる花の合間に人影を見つけた。明るい時間でさえ、この場所を訪れる人はほとんどいない。偶然に古い看板を見つけた子ども達がたまにやって来ることはあるけれど、稀だ。
ましてや今は、陽が沈みきった夜だ。僕の鼓動が反射的に早まった。
それは、地面に寝そべっているような人影だった。予測不能に動かれても怖いけれど、倒れているのだとしたらもっと怖い。
放っておく訳にはいかなくて、竦む足でジリジリと歩み寄る。人影に辿り着くより少し手前で、無造作に放られたリュックを見つけた。
「櫻井、梓……」
徐ろに触れてしまったこのリュックも、ここに付けられた赤いタグも、この人の物なのだろう。そして、これが彼の名前だ。
僕はリュックを抱きかかえて、さらに歩みを進めた。彼は全くこちらの気配に気が付く様子がない。
「あの、」
僕は控えめに言った。もうほんのわずか数メートル先に彼がいる。シンプルに整った荷物は勝手なイメージで男性を想像させたけれど、どうやらそれは当たっている。
花畑に横たわる人影は、長身で凛としている。シャツにジャケットを羽織った装いは、陽都とはまた違う大人の雰囲気を感じさせる。鼻筋が通った横顔に、地面の上で揺れる繊細な黒髪が美しい。
夜の景色と合わせて、それはまるで絵画のようだ。梓は、春に咲く白く綺麗な花だ。彼にぴったりだと思った。
「あの、大丈夫ですか」
彼の瞼がゆったり上下しているのを目視して、一気に安堵する。僕が少しだけ声を張れば、彼はようやく反応を示した。
「えっと、誰?」
気怠げに上体を起こした彼がこちらを向く。端正な容姿に、どこか似つかわしくない愛想のない声が響く。彼の瞳は赤く潤んでいた。
「それはこっちの台詞で……」
僕が想像していたのは、もっと柔らかな会話だった。勝手だけれど、ここから何かが始まる気がしていた。守られたこの場所で、他との繋がりは用意されない限りあり得ない。あり得ない現実が、目の前にあるのだ。
「あ、もしかしてお前、せーちゃん?」
彼が僕を指差す。初対面でお前と呼ばれた戸惑いよりも、愛おしい妹だけが使う呼称を使われた喫驚に時が止まる。やはりこの状況は、恐怖を感じた方がいいのかもしれない。
それでも僕は、現実を止めたくないと思う。僕の足は、この場にとどまることを選んだ。
「どうして、僕のこと分かるんですか」
「え?あぁ、さっき、ここで梓が見たやつらがお前のこと話してたから。何となく、そうだろうと思っただけだ」
僕から視線を外して、彼は再びその場に寝転がった。奇妙な感覚だ。会話が噛み合わない。梓は彼のことではないのか。彼は自分のことを名前で呼ぶのだろうか。
抱きかかえたままだった彼のリュックが主張をして、僕は赤いタグのことを思い出した。彼の名前に続けて、何が書かれているのかを確認する。
【櫻井 梓】
パニックになることがあります。
安全で静かな場所に連れて行ってください。そっと見守ってください。
暴れてしまうのは精神的な症状が原因です。
攻撃性があるときは下記に連絡をしてください。




