指切り
四十五
僕が入院している間に、合唱コンクールの県大会があった、辻先輩が指揮をつとめてくれたらしいが、残念ながら九州地区への出場権を逃し、合唱部の夏が終わった。
その翌日、久保と木田、長島が代表して僕の見舞いにやってきてくれた。木田は僕の枕元にそっとヌード雑誌を隠す。これは僕のためではなく、看護士を驚かせるためだというのはわかるが、すぐに久保にみつかった。三人とも、楽しく話をするが、僕の右手を見るたびに、目をそらすのがわかる。
2学期には行けると思うよと、言うと、じゃぁ、学校でと言って帰って行った。
しばらくして、久保だけが戻ってきた。
「加代ちゃんから全部聞いた。あの元婚約者に言ったこと全部」
「そうか」
「私も、その場にいたら、同じ様に言っていたと思う。でも、長崎の事、あまり知らないから、同じように言う自信は無いけれど。加代ちゃんに、私や加代ちゃんが住んでいる地区のこととか、カズちゃんの愛宕のおじさんの話とか、シュウちゃんの姉さんのこととか、全部。」
「ふん」
「だから、あなたの音楽は、私が受け継ぐから。心配しないで。全部注ぎ込んで。と言っても注がれるこっちの器が小さくて溢れるかも。」
「そんときは、もう一度最初からやりなおすばい、」
と笑おうとしたが無理だった。僕には音楽があるのか。もう弾けないんだぞ。この右手では弾けないんだぞ。涙があふれ出た。顔中が熱くなった。暗がりの右目に映り込んだサルスベリの花をみつけてやっと落ち着いた。久保は僕の右手をさすっている。
「私が、弾くから。あなたと一緒に弾く。加代ちゃんに支えられたあなたの音楽を、私が弾く。決めた。そうしよう。それがいい。」
約束といって、僕の動かない右手の小指を包帯から引きずり出して、指切りげんまんをする。
「そげな、動かん指でげんまん切っても、効き目がなかぞ」
「そうかな、意外と効くのよ、私の指切り」
久保は、自分の空虚な音楽性を埋める何かをずっと探していた。それが僕の中にあることを見つけたとき、どうすればよいのかわからなかったのだろう。僕自身も、その久保の問いかけにずっと答えを見つけることができなかった。それはきっと、僕の音楽が僕自身のものでなかったからだ。僕の音楽は秀子姉さんに捧げられていたから。しかし僕の音楽が失われそうになった今、それを注がれる鋳型なら、なれると考えたに違いない。今の僕なら、僕がこれまで紡いできた音楽を久保に注ぐことはできる。僕の音楽の原点を見つけたからだ。もし、僕が久保に僕の音楽を注いだとしたら、そこで紡がれる久保の音楽はいったい誰のためにあるのか。それを考えると彼女が哀れでならない。彼女が哀れであると思うならば、注いだ僕の音楽が変質するよう、彼女の音楽として成り立つよう、祈るしかない。そうでなければ、主よ僕はあなたの僕であることをやめて転びます。




