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精霊流し  作者: 名夢子
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四十四


「おいと、もう一人の弟子で先生のお見舞いに行ったとが、その日ばい。そうしたら病室から、あんたは怒った顔をして飛び出してきた。ああ、今みたいに怒っていた。自分の想う通りにならんちゅう顔ばして。その後、そっと病室に近寄ったら、先生は歌ば歌いよった。知っとうか、この歌。」

 僕は、歌った。想いのたけをこめて。怒りにまかせた歌声は、まるで悪魔の呪いの言葉のようだ。やめろ、もうやめるんだ。

「あなたの 好きな人と 踊ってらしていいわ

 優しい ほほえみも そのかたに おあげなさい

 けれども 私がここにいることだけ

 どうぞ 忘れないで

 ダンスは お酒みたい 心を酔わせるわ

 だけどお願いね ハートだけは盗られないでね

 そして 私のため

 のこしておいてね」

 元婚約者は、目を見張る。わかったか、この歌の意味。

「先生は、死んでもなお、あんたに忘れて欲しくなかった。毎年、毎日、ここだよ、って先生はあんたに言って欲しかったんだよ。だから、あんたに、別れ話を持ち出した。わかるか、この気持ち。好きな人に振り向いてもらうために、ずっと思い続けてもらうために、何かを捧げなければ、できないと思ったとき。先生は、あんたと別れることを選んだんだよ。その言葉に、簡単に怒ってしまったあんたは、テレビ局の人間として動いた。きっと、それも先生の計画通りだ。自分が今死んでも、すぐにはお精霊様はできん、1年先延ばしになるだろう。その間に嫌と言うほど自分の事を思い出すように、あんたの行動は先生の、いや、すでに先生のお精霊様の思し召しの通りに進んだんだ。どうや、わかったか。先生はあんたのことを考えてわかれようって言ったとじゃなかということが。おい達は、先生のこの歌を聴いて、もう先生に会うことはやめたと。お見舞いにもいかんかった。それが、想いを残したまま死んで逝く人へ、できることやろ。へらへらと調子のよかことは言えんと。今日怪我をしたのも、先生の計画かもしれんぞ。一生消えない怪我かもしれんたい。」

 へへと笑う僕に元婚約者は、猛然と殴りかかった。躱す間も無く、頬骨が砕ける音がした。僕も痛みに耐えながら右拳を繰り出した。ところが、その右腕に加代がしがみついた。バランスを崩した僕は固めた右手をカラオケ装置のアンプに突っ込んだ。人間の力とは思えないほどの力で、表面のパネルを砕いた。大きな破片が腕に突き刺さり、ざくりと腱を引き裂く。大きく傾き倒れた装置から飛び出したケーブルの先が僕の右目をチッとかすめる。右目に電気が走った。一瞬加代をその目にとらえるが、なにか叫んでいる。僕は倒れながら、崩れ落ちるカラオケ装置の下敷きになった。


 気がついたら消毒液臭い場所だった。目が開かず、パニックになったが、なんとか左目をうすく開くことができた。父と母がいた。加代が僕の足を白い布団の上からさすっている。看護士が、先生、吉野さん意識戻りました。と言っている。なにが起きたのだ。

「おい、気がついたか。」

 父の声が震えている。加代がはっと僕の顔を見ている。声を出そうとするが、喉に何かが張り付いていて出ない。

「治療費ば、あの、山内さんとかいう青年が出すて言いよったけど。断ったけん。お前がしでかしたことやけん、自分でかたをつけますって言うてやったけん。それでよかったか?」

 僕は頷いた。そして父の手を握ろうと右手を挙げようとしたが、右手の感覚がない。というより右手そのものが感じられない。慌てて体を動かそうとすると、全身がガクガクと震えだした。心臓が背中に張り付いて、脊髄を殴っている。うめき声が、悪魔の咆吼に変わる。僕はいったいどうしたのだ。

 看護士が、お父さん体押さえて、と叫び、父ががっちりと動かないように僕の体を締め付けた。左腕から冷たい液体が流れ込み、刺すような痛みを感じたとたんに、僕はすうっと眠りに落ちた。


 僕の右手はあの日以来、失われてしまった。見る限り、腕は体についてはいるが、箸を持つことも、もちろんピアノの鍵盤を叩くこともできなくなった。入院している時に、シュウちゃんの秀子姉さんが見舞いにやってきてくれた。風頭公園まで行って摘んでくれたクローバーの葉でリングを作り、そこに小さな秋の花々が散りばめられている。僕は礼を言うよりも前に、以前は不謹慎なことを言ってすみませんでした、と謝った。しかし、その反応は、加代が言うとおりだった。うれしかったと。自分の信仰へのご褒美だと思ったと。人が人を好きになるのは当然です。私もカズちゃんのことが好きよ、と言ってくれたのだ。お見舞いのお世辞にしてはできすぎです、と言って僕は笑ってごまかした。ありがとうございます、ジアノ修道女、いやジアノ院長。僕の音楽は、いつもあなたに捧げられていたのです。知っていましたか。子供の頃、僕がなぜ、ピアノを始めたのか。病室で、痛みに苛まれた中で、僕は思い出していた。

 秀子姉さんは、僕らみんなの姉さんだった。美しい長い黒髪が、ハウスのイエス・キリストが照らし出す明かりの下で、オルガンを弾いていた。心地よい音。上手に弾けば褒めてもらえる。そんな動機で、僕も修道女にオルガンを習い始めたのだ。そう、僕もシュウちゃんと同じハウスで育った孤児だったのだ。すっかり忘れていた幼児期の記憶だ。泣きながら僕は養父母に引き取られた。それが今の父と母だ。実子と変わりなく、育てられた僕は、秀子姉さんの憧れだけを記憶に、音楽を捧げてきた。やっとわかったのだ。

 やっと思い出したのだ。シュウちゃんが養子に組まれることに、自分でも不思議なくらいに反発を覚えたのも、僕とシュウちゃんとは特別な絆で結ばれていたからだ。今の自分が、実は別の自分だったことにやっと気がつき、僕は安堵感を覚えている。

 だから秀子姉さん、僕のすべてはあなたから始まったのです。

 秀子姉さんが病室を出ると交代するかのようにシュウちゃんが入ってきた。気を利かしてくれたのだ。自分が医者になって病院をでかくして、きれいな看護士を雇うまで、ここで待っていろと言う。あほらし。その前に美人の女医に誘惑されるだろうと言い返した。久しぶりに笑うと、もう見えない右目が痛い。悲しくもないのに涙が出ている。

 もう、見ることもできないのに、泣くなんて、おかしな目だろう、とシュウちゃんに愚痴ると、

「お前の目は、何を見るためにあっとや?」

 そう言って、シュウちゃんは加代の体を僕に押しつけた。いつの間に現れたんだ。加代は僕の見えない方から、おどろかそうとして、近づいてきていたらしい。じゃあまたくるけん、といってシュウちゃんは病室を出て行った。僕はシュウちゃんが出て行った扉を見つめた。ありがとう、兄弟。きっと君は、僕とのことを知っていたんだね。ずっと前から。でも言わずにいてくれた。ありがとう、感謝しているよ。

 加代がまた僕の体の上の。ガーゼでできた布団に頬を押しつけている。しばらく、このままでいい、という加代に僕は無言で返事をした。

「おいの目は、加代を見るためにあっと」

 そう言ってみた。言うことで、気持ちを確かめた。やはりあの興福寺で見たサルスベリの花は、加代だったのだ。今見えないはずの右目にしっかりと映り込んでいる。そして、感触のない右手にたぶんしがみついている加代は、まぎれもない、加代だ。

 加代は泣き出した。

「うちが、あんとき、もっと早くに止めておけば、よかったのに。ごめんね。カズちゃん、ごめんね」

 謝りながらすすり泣く。そんなことはない。ずっと前から、僕が生まれたときから、こんなふうになることは、決まっとったと。誰のせいでもない。僕自身のせいだ。そして、僕は、既に、こうなることの準備ができていたんだ。

「加代は心配せんでよか」

 僕の声はかすれたままだ。重いアンプで頭を強く打ち付けたせいで硬膜下出血を起こしていた。その後遺症が少し出ている。これは、しばらくすれば治ると医師には言われている。歌を歌えるところまで回復するかは、僕の努力次第だとも言われた。声は残したい。加代に話しかけたい。ずっと、ずっと。耳も片方でもいいから残しておきたい。加代の声を聞きたい。加代の歌声を聞きたい。ずっと、ずっと。

 加代が僕の首に絡まりついてきた。生きている左手で加代の背中を抱く。

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