悪魔交代
四十
翌朝学校に行くと、久保がもう来ていて、ピアノを弾いていた。パルティータ1番、バッハ。軽妙なタッチは、いかにも久保らしい音楽だ。普通だったら重々しくなって、嫌みな印象を受けてしまうところを、うまくさばいている。和音中のトリルが、まるで小鳥の囀りだ。美しい。
「おはよう」
「あ、おはよう」
挨拶もほどほどに弾き続けている。丁度、難しい分散和音に対位された分散旋律が交互に出てくるところで、目が離せない。まだ、皆が来るまで1時間以上もある。僕もピアノの練習をしようと思っていたのだ。昨夜のバッティングセンターで、久保に、明日はピアノの早朝練習をすると言った。そうしたら、私も行くから、と言いながらお腹をさすっていた。
僕は、個室のピアノを開いた。楽譜室から持ってきたのはムソルグスキーの展覧会の絵。がんがん弾くにはもってこいだろうと思った。楽譜は以前から眺めていたし、以前松尾先輩が弾いているのを横から見ていたので、感はある。技術はどうかと問うと、まだまだだろうと、自身が答える。
案の定、ファンファーレのように和声が響かない。同時に8音が鳴る和音から生まれる倍音は数多く、響かせるピアノの性能にも因る。ペダルに依存すると、音がぐちゃぐちゃになる。楽譜の指示通りぎりぎりまで響かせていても、次の和声に影響が出る。たった2つの旋律移行だけで、これほど、ピアノの音色や響かせ方を考えさせられるピアノ曲は少ないだろう。
冒頭のプロムナードと名付けられた楽曲は、展覧会会場の入り口を通って、様々な絵画を堪能するために、歩く道のりのことだ。だからどんな絵が掲げられているのか、楽しみな一方で絵画展独特の雰囲気の暗さ、静けさが漂う。しかし、それにも増して期待が膨らむ。角を曲がると、ほらそこに美しい額縁が見える。
ぱーんと鳴らせて、次の楽曲に続けて入る。旋律は情緒的で完全5度の多用。安定した楽曲でありながら、至る所に導音が隠れて響き、前へ前へと誘う。曲の構成、作曲技法、抽象化されすぎない和声。これ以上無いというぐらいの名曲だ。
それにしても、繰り返し弾いていると腕の筋肉が引き攣りそうになる。おかしな場所に力が入っているからかもしれない。喉が渇いた。そういえば個室の空調を入れるのを忘れていた。いつのまにか汗だくになっていた。
薄暗い廊下に出ると、後ろから誰かが抱きついてきた。反射的に僕は耳を隠す。
「びっくりした?」
ああ、びっくりしたとも。久保だった。
「なんすっとや」
「一応、昨日の仕返し」
一応だと。
「私を振った仕返し」
そう、昨夜、食べ放題とバッティングセンターの帰り道、久保の気持ちはありがたいが、今はそういう気持ちになれないと言ったのだ。何しろ篠沢先生のお精霊様の曳手として、そういうことは口が裂けても言えないと。それを振ったと、受け取ったなら、それでよし。
「でも、振られてないから」
何だと?
「えっ、あきらめないってこと。あなたを。でも、加代さんも好きだから、血みどろの戦いは避けたいわ。」
「なんじゃそりゃ」
「でも、きっと、わたしの気持ちは、加代さんとは違うと思うの。ちゃんと話していないからわからないけれど。自分でもまだよくわからないけどね。」
へへへ、と笑うと久保は個室に入りながら、表のピアノどうぞ、と言った。グランドピアノを明け渡してくれたのだ。うちの学校には講堂や体育館も、合わせると6台のグランドピアノがある。しかし、きちんと調律されているのは、ここだけだ。個室のアップライトピアノもきちんと調律されているので、弾きたい生徒は、合唱部の練習中でも、やってきて弾いている。
久保の雰囲気が変わった。それに、加代とは違う気持ち、とはいったい何だろう。女に好かれて嫌な男は少ないだろうが、そういう言い方をされると、妙に気になる。まぁ、どちらにしても今は精霊流しに向けて大事な時期だ。気持ちがゆらゆらと動いてはだめだ。と思ってプロムナードの最初の1音を出したとき、胸の中をジアノ修道女の笑顔がよぎった。鋭いメスが僕の心臓をすっと触る。じわりと血が浸潤してくる。その血がサルスベリの白い花を薄く染めていく。
「ちがう!」
と叫びながら、その思いを振り切るように激しく手を鍵盤にたたきつけた。
部活が終わると加代が、話があるから一緒に帰ろうという。ああ、と答えて帰り支度をする。裏門を出て、いつもの道だ。浦上川縁の道を上流に向かう。重苦しい雰囲気が二人の間で流れる。
「あのさ、あの後」
「悪かったな。逃げ出してしもうて」
「ううん、いいの。カズちゃんの気持ちよくわかるし。シュウちゃんもそう言ってたし。」
「すまん」
「でも秀子姉さんが、辛そうだった。」
「そうか、修道女にいらんことを言ってしまったからな」
僕は空を見上げた。
「でも、たぶん。これは私の勝手な思い込みだけど、本当は秀子姉さん、うれしかったと思う。これは女としての私の、本当に勝手な意見ね。」
執拗に勝手な意見という、加代が逆に辛そうだ。
「あの二人は、自分たちで自分たちのことをいろいろと決められるほど、自由ではないのよ。それはわかっとるでしょう。」
加代が立ち止まった。僕も、加代を振り返って立つ。
「ああ、知っとうよ」
「きっと、心を自由にすることさえ、秀子姉さんは忘れとったと思う。でも、あのときカズちゃんが、勝手にすればよか、って叫んで、自ら科した十字架の重みを、今頃になって気がついたんだと思う。」
「そうか」
「だって、」
だって、何だ。
「だって、カズちゃんが、秀子姉さんのこと好きだと言ったとき、一瞬だけだけど、秀子姉さんの瞳が輝いた。私前にいたから、その喜びはすぐにわかった。でもすぐに顔が曇った。自分が喜びを感じたことに、信仰的な罰を感じたのね。あ、これも私の意見だから。」
僕には、僕の言葉を聞いたすぐ後に、十字を切って悪魔を立ち去らせようとしたとしか、思えなかったが。
「むずかしか。おいにはようわからん」
「あの後、どうしたの。」
愛宕のおじさんのところに言ったと嘘を言おうとしたが言えなかった。加代には正直に話そう。
興福寺に咲くサルスベリの花の色の話は、真剣に聞いていた。
「加代は、あれが何色かわかるか」
白。だけどね、と続ける。
「だけど、明け方の咲く瞬間は薄いピンク色なの。とっても淡い色。それが朝日を浴びて花が広がっていくと、真っ白になる。」
「よう知っとるやっか」
「知っているんじゃない。見たの。この目で。」
「えっ、」
「カズちゃん、あなたも見たんよ。一緒に。」
「いつ?」
「小学校5年生の夏休み。うちの父さんの紹介で、あのお寺に合宿したの。その時。」
信じられなかった。そんなことがあったとは、今の今まで忘れていた。
「でも、おかしいわね。今、興福寺の住職はもっと若い人だけど。そのお坊様って誰やろ」
「じゃ、おいが初めて見たとは、白ではなく薄いピンクやったとか。」
知っていることと、見たことは違う。それに気がつかんと、馬鹿のままじゃ。ああ、そうだ小学生の時に坊主にそう言われた。だから、まずは自分で体験しなければならないのだ。
「加代、ありがとう」
僕は、加代の両肩を引き寄せて抱きしめた。小さな加代が驚いている。
「ねぇ、ちょっと。ほらぁ、誰かに見られる」
小さな抵抗をはねのけて、僕はさらに抱きしめ、加代の耳をかじった。
「コリッ」
美味い。と思ったら、かなり本気のパンチを腹にくらった。
「痛かっ! こん馬鹿が!」
耳を押さえる加代の目が涙目だ。僕は可笑しくって、笑い転げてしまった。悪魔交代ばい。




