食べ放題
三十九
「カズちゃーん」
久保は僕を見つけると、恥も外聞もなく、おおっぴらに手を振る。その声に反応した通行人達は、久保を見て、僕を見返して、にやにやと笑っている。半ば、あきらめ気分で久保の方に歩いて行った。久保の隣にいる父親らしき男性に、こんにちはと挨拶をする。
「お父さんよ、こちらは、いつも話をしている吉野君。」
男性は顔をほころばせて、ああと頷いた。
「美佐がいつもお世話になって。ありがとうね。」
声色もほんわかとした長崎弁だ。てっきり東京の人かと思っていたのに。
「いいえ」
なんとなく堅くなっている僕の声。
「カズちゃん、ご飯は? まだ?」
「ああ」
「じゃ、一緒に食べようよ。お父さんいいでしょ」
「俺は、かまわないけど、お邪魔じゃないか」
と久保の父親が、遠慮気味に言う。それは僕の台詞だろう。
「どうぞ、せっかく親子でいらしたのでしょうから。お二人で」
と僕も遠慮する。娘と一緒にご飯を食べる機会は、そうないだろう。いつも会社の帰りが遅いと久保は言っていた。それに母親と離婚して、父親の方も頼るのは今のところ娘の久保だけだ。そういった事情の中に、僕は介入したくない。
「でも、カズちゃんひとりで、ご飯を食べるの寂しいじゃない。せっかく会ったんだし、ね、一緒に」
それは、久保がいつもご飯をひとりで食べていて寂しいといっているのか。だとしたらなおさら、僕が一緒じゃ、お父さんが可哀想だ。お父さんも寂しいのだし。
「悪いけど、おれはひとりでご飯を食べるのは、寂しくないんだ。考え事もあるし。久保のお父さん、すみません愛想が悪くて。でもせっかくのお休みで、娘さんと水入らずのところを、邪魔できません。ごめんなさい。」
僕は、頭を下げた。じゃ、とその場を離れようとすると、久保の父さんが僕を呼び止めた。
「君のそういう考え方というか行動だな。美佐から聞いていたけれども、実に良い。偉そうなことを言うけれども、君の親御さんは素晴らしい方々なんだろうな。うちとは違って。」
その言葉にも、少しかちんときた。
「そうです、あなたと僕の両親は違います。それは当たり前のこと。だから比べること自体ナンセンスでしょう。あなたが立派な方なのか、だらしがないのか、それは僕にはわかりませんし、知りたいとも思いません。だけど、美佐さんは、」
といって久保の顔を見ると、今にも泣きそうに、固まっている。僕と久保のお父さんが口げんかをしているように聞こえるのか。それとも僕の態度がひどいのか。
「美佐さんは、すてきな女性です。合唱の伴奏も研究して、皆のためにすてきな音楽を作ることができます。すみません、生意気なことを言いました。ご容赦ください。」
僕はもう一度ぺこりと頭を下げ、久保にも軽く頭を下げた。
「いや、これは、失礼したのはどうも私の方だ。久しぶりに直球を、受けた感じだな。ずっしりと重いやつを。その迷いのない真っ直ぐさが、美佐が君を好きになったところかな。なぁ、美佐。」
久保はまだ固まったままだ。それじゃ、ここで、と言って僕は久保親子の前を通り過ぎて、住吉の路面電車のプラットホームに立った。長崎駅方面に向かう電車に乗り込む。座席に座ると、電車ががくんと動いて、警笛が鳴った。そして一度閉まった扉が開いた。久保が駆け上がってきた。
「すみません、ありがとうございます。」
追って来たのか、僕のことを。嫌みの一つでも言われるか、と思っていると、僕の横に座りながら、周囲の乗客に、すみませんと頭を小さく下げている。
「ごめんね、お父さん」
「いや、良いお父さんじゃないか。正直僕は、もっと変な人かと思っていた。いろいろ聞かされていたし。」
「そうね。嘘がつけないというのは、そうかもしれないわ。だから、」
そこで、久保は言葉を止めて、ため息をついた。
「だから?」
「だから、離婚した。でもそれは、逃げていることを肯定するための正直さなだけ。問題や困難にきちんと向き合わず、逃げているの、いつも。だからさっきも吉野君のこと、ああやって褒めて。しかも見え透いた褒め方。君が素晴らしいのは親が素晴らしいからだ、なんて、私も一番言われたくないわ。」
「悪かったな。おいも正直に言うた。言われた本人がどう思うか、それが周りの人にどう影響するのか、まったく斟酌せず、言うた。これで誰かが、久保のお父さんが傷ついたとしたら、それは正直さではなくて、単なるエゴや、」
自嘲気味に笑った。
僕と久保はしばらく黙ったまま揺れる路面電車の車窓から、すれ違う車のライトを眺めていた。
「どこまで行くと?」
「どこまで行こうか。」
「ずっと一緒にいたい。」
久保が頭を僕の肩に寄せてきた。僕は、それは無理な話だ、と思いながらも、久保の好きなように、肩を貸したままでいた。
ガタゴトと進む路面電車は、夜になってやっと涼しくなった街並みを進んでいく。カーブでは大きく車体をゆらせ、レールと車輪がひしめき合って、啼いている。対向する電車がブレーキをかけると、車輪の中から小さな火花が飛び散る。
「食べ放題に行くかぁ」
僕は、ふと思い出して言う。
「え、行く、行く。何の食べ放題?」
「それはついてからのお楽しみ」
普通ならば、僕が思い付いたこの店には女の子は連れて行かないだろう。目的の店の近く、五島町で電車を降りると、涼しくなっただろうと想像していたのと違って、空気はむっとするほど暑く海水で湿っている。磯臭いのは港がすぐそばにあるからだ。
目の前の古びたバッティングセンターに入ると、場末の食堂のような場所に、久保を案内する。不気味な化け物屋敷を見るように、久保はおびえながらあたりを見回している。時折、打球をはじき返す金属音が、辺り一帯に鳴り響くので、びくついている。
「怖かとや」
「こんなところ、はじめて」
「こんなところで、ごめんな。でも付いてくるとゆうたとは、おまえのほうだ」
久保は、黙ったままだ。
「ルールが一つある。食べ残しはだめ。それだけ。」
わかった、と頷く久保。
「後は、どうなろうと、おいはお前のことは助けらんけん。」
久保がおびえた顔で、こっちを睨む。でも言葉もでないらしい。僕は事実を言っただけだ。食べ放題で苦しくなっても、僕にはどうすることもできない。
食堂の奥に、カレー食べ放題と書かれたのれんがあり、それをくぐっていくと、スパイスのきいたカレーのにおいが辺り一面漂っている。この店が去年オープンしたとき、市内中の学生がこぞってあつまった。あまりの人気ぶりに地元のTVニュースで取り上げられたほどだ。味も悪くない。にもかかわらず値段が安い。一皿200円。福神漬けは好きなだけ乗せることができる。
がらんとした店。今日はやけに空いている。座ると、もう皿が2枚でてきた。ここでは皿と現金の交換だ。まず僕は400円払った。久保はどうすればよいのかわからないらしい。
「食え」
久保は、おそるおそる、コップの水に浸されたスプーンを引き抜くと、清潔なのかどうか確かめているのだろう、スプーンの裏表を念入りに眺めていた。そして、一口カレーをすすると、口に合ったのか、ご飯と絡めてほおばる。もぐもぐと小さな唇が動いている。こいつ、なんだかリスに似ている。そういえば髪の毛ショートにしたのだった。あらためて頭をまじまじと見た。
「からい!」
久保は、しばらく食べた後にそう言うと、コップの水を飲み干した。僕は次の皿を注文した。そして200円を払う。これが5杯目からが無料になるので、頑張る。久保も、2皿目を注文した。注文して3秒もすれば、皿がやってくる。
結局、僕は5杯食べ、久保は3杯でギブアップした。女の子にしてはよく食べた方だ。客が少なかったせいもあるのか、帰ろうとすると店員が隣のバッティングセンターの球券をくれた。ひとり30球ずつ。
「腹ごなし、せんね」
ありがとうございます、と言って店を出た。また球とバットがぶつかり合う金属音が響く。
「よう食べたばい」
と僕は背伸びをした。すると久保が蹲った。
「く、くるしい。たすけて。」
やっぱりな。男はそういうときは便所に行って吐いて楽になるが、女は絶対に吐かん。大塚が最初にここに来たときそう言って、笑っていた。確かに久保は手を口に当てて苦しそうだが、吐くつもりはないらしい。
「吐いて楽になるか」
「やめて、そんなことするわけないじゃないの」
おお、大塚の言うとおりばい。
「あーん、でも苦しい」
とりあえず、座って休めといって、バッティングセンターのゲージ後ろのベンチに腰掛けさせ、紙コップに水を入れて渡した。僕は先ほどもらった球券を窓口のおじさんに渡し、コイン3枚に交換した。ゲージの中に入って、機械に1枚ずつ入れる。赤いデジタル表示が30になった。
さすがに僕も腹が膨れている。バットを振り回すたびに、横隔膜が捩れ、胃を圧迫する。30球たて続けにバットを振ると、さすがに目眩がする。しかし、今にも腹が破れて死ぬのではないかという苦しみからは解放されたようだ。久保は、あいかわらず目の前のベンチにだらしなく座っている。
「大丈夫や?」
「まだだめ」
「言うたろ。おいには、どうすることもできんて。」
「言ったけど。こんなに苦しくなるとは、思わなかった。食べている時は大丈夫だったのに。」
「そんなもんたい、人間は。楽しい思いを目一杯すると、あとで苦しか事になる。だけど、その苦しみは自分のキャパシティを超えた分しか、味わうことができん。だからまた、享楽に耽ると。」
「なんだか説教されているみたい。カズちゃんは、もう平気なの。」
「いや、苦しかぁ。今も吐き出しそうや」
「やめて、そんなこと言わないで。思い出しただけでも、」
また久保が手を口に当てた。バッターボックスに立てと言って、ゆっくり向かわせ、ヘルメットとバットを渡した。ピアノを弾く手で、良くないかもしれないが、まぁ、当たらないだろう。今は体を動かす方が、楽になるはずだ。
意外にも、久保はバッティングが上手だった。20球近くバッドに当てて、喜んでいた。
「ああ、すっきりした。もう大丈夫よ」
「そうか、よかった。」
とは言ったものの、なにか釈然としない。
「それで、説教の続きは?」
こいつ、僕が言いたいことがわかったのか。




