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精霊流し  作者: 名夢子
37/46

サルスベリの花

三十七


 県央支部のコンクールは金賞、すなわち1位通過だった。昨年は銀賞2位通過だったし、山崎先輩抜きで金賞を取れたのは、僕にとっては自信になった。久保の伴奏も、普段より冴えていた。僕との息もぴったりで、やはり辻先輩のアドバイスが効いた。あの後、必死に練習したのだなと、感心したのだが、そういえば、こいつのおかげで今朝は寝不足だったと、思い出した。順位を聞いてほっとしたのと、昨夜のことを思い出して、一気に眠気が襲ってきた。僕が大あくびをしていると、久保がするするっとやってきて、耳元で、

「美佐ちゃんって呼んだよね」

 とささやく。ぎょえっと思ってあくびが途中で引っ込んだ。

「だから、なんや」

「なんでもない。でも呼んだよね」

 しつこい奴だ。

「ああ」

 と生返事で返す。

「うふ」

 と微笑む久保が、不気味だ。ちきしょう、眠い。


 結局コンクールの時、母はどこにいたか知らないまま、いつのまにか父と一緒に東京に帰っていったらしい。久保は、僕の母に会えなかったことを残念がっていた。

 とりあえず今日は解散である。明日から2週間後の県大会での発表を目指して、審査員の講評で指摘された幾つかの点について修正していかなければならない。

 よく考えると来週は、お精霊様だ。そっちの準備も忙しくなる。そう思いながら公会堂を出て、公会堂通りを市民会館の方に抜けて、中川の橋を渡ろうしていると、シュウちゃんと加代が、おーいと後方から呼んだ。加代はいつ公会堂を出たのだろう。僕の両親を送ってくれたのかもしれない。そして、おお、と思って駆け戻ると、

「おめでとう、1位通過」

「いや、ありがとう。聞きに来てくれたとね」

「ああ、姉さんも一緒。」

 シュウちゃんの背中越しに灰色の修道女姿の秀子姉さんだ。僕の方をみてにっこりと微笑み、十字をきってくれた。そう、これは主の思し召しの通りばい。久しぶりに見る姉さんの顔色は透き通るように真っ白だ。手も指もまるで象牙細工のように美しい。深い緑色の瞳は、僕を突き抜けて何かを見つめていた。胸が痛い。

「どこにいくつもりだったと?」

 加代が聞く。

「ああ、愛宕まで。愛宕のおじちゃんのところ。お精霊さんの話ばしようと思って。それにツカのじいさんの遺影もできとるけん、ツカの家に届けんといかんけん。」

「昼飯はどうするね」

 シュウちゃん、ナイス。すっかり忘れてた。加代達は持ってきた弁当を食べていたはずだ。

「姉さんも一緒に?」

 僕は聞く。できれば、一緒に、とシュウちゃんが言う。話もあるからと。

 修道女の規律は意外と厳しい。親兄弟だからといって、異性と一緒に並んで歩いたり、ふらりと簡単に店に入ったりすることができない。本来なら異教徒との会話などもっての他なのだろうが、そんなことを言っていては奉仕活動も何もできなくなる。ゆるやかな信仰的融合が、長い期間をかけてキリスト教が長崎に浸透している理由なのだろう。もっとも仏教をはじめとする多くの信仰が、そういったものなのかもしれないが。

 僕はざっと頭の中で修道女も入れる店を探した。この付近は寺町で、なかなか難しい。そこで、ひらめいたのが麦草。今朝方モーニングを食べた店だ。安いし、人もいないし、ちょうどいいだろうと言うと、加代がええ、いやだよ、とむくれた。

「いいよ、そこで。そこなら何度か姉さんと入った。市役所の帰りにも寄ったことがある。」

 この一言で、僕ら4人は、麦草に入った。朝と変わらず、陰気な感じはそのままだ。朝は無音だったが、今は気の利いたシャンソンが流れていた。

「おや、今朝のカップルじゃなかね。あれ、お連れさんもおるばい」

 おばさんは覚えていたようだ。

「合唱は、どげんやったと?」

「おかげさまで、1位でした。」

 あらま、と目をまんまるくして、こっちを見る。

「ほんなこつね。それは、それは、おめでとうございました。」

 といって水を4つ出してくれた。

「うちの目に狂いはなかったね。」

 ん、と思っておばさんをみると。

「お似合いのカップルて、言うたやろ。よか雰囲気やったもん。おばさんはこう見えても、そういうとは当たるとよ。」

 へぇ、と思いながらも意味がわからなかった。するとシュウちゃんが解説する。

「麦草のおばさんが、売れるといった歌手や、演奏家はかならず、ヒットするという噂があると。ほら、長崎歌謡祭とか、コンサートを公会堂でやった人らは、ここに寄ることが多いやろ。そしたらおばさんが人相を見て占うとたい。ね、おばさん。」

 うんうん、とカウンターで頷くおばさん。そんな、面白い人がいるとは知らなかった。このおばさんが、有名なフォークシンガーの親類であることを、さらにシュウちゃんから聞かされて、びっくりである。加代も驚いた顔をしていた。

 何も頼んでいないのに、カルボナーラ・スパゲッティとサンドイッチが出てきた。頼んでいないのにというと、昼はこれしかない、とカウンターの奥に引っ込んでいった。まったくおかしな店だ。シュウちゃんの話も、疑わしい。しかし、店のシャンソンのボリュームが下げられたところを見ると、僕らへの配慮かもしれない。何しろ客は僕らしかいないのだ。

「カズちゃん」

「おお」

 シュウちゃんが畏まっている。

「報告というかお礼が遅れたけど、無事に養子縁組の決まったけん。ありがとうございました。」

 ああ、でもそれはもうとっくの昔の話じゃなかか、と思うと、

「それでな、姉ちゃんのことやけど。姉ちゃんも養子縁組したと。な、姉ちゃん」

「そう、黙っていてごめんね。」

 さすがに驚いた。僕は慌てて水を飲んだ。隣の加代が僕を凝視しているのがわかる。

「実は、マリアンヌ院長の養子になったの。」

 そうか、確かにそれはそうだろう。そうなるしかない。僕は秀子姉さんの瞳を見据えた。姉さんは僕の熱のこもった視線に臆することもなく、見つめ返す。

「院長は、ハウスを出て教区長になられるの。それで私があのハウスの院長になるの。」

 この話も驚きだった。

「まだ、若かとに、すごか」

「ああ、今すぐじゃないのよ。しばらく院長は教区長との兼任。今の教区長が体を壊されてね、マリアンヌ院長に是非にというお話で、教区の学長、副長、みなさんが押してくださって。私も皆さんの後押しで、ハウスの院長にって。だから、資産とか教会運営のいろいろな煩わしいことが法律にはあって、だから養子縁組したの。わかってくれる?」

 なんで、僕に尋ねるの、姉さん。それであなたの信仰が、あなたの思いが達成されるなら、いいじゃないですか。勝手になんでもすればいいんだ。だって、僕はあなたたちとは関係がないでしょ。僕がいくら姉さんのことを想っても、この想いは叶えられることはないんだ。僕は黙って姉さんの信仰を見守るしかないじゃないか。

 僕の心の動きが、図らずも口から飛び出していたようだ。秀子姉さん、いや、目の前の美しいジアノ修道女は、震える唇で何かを言いながら十字を切って、ロザリオを懐に抱いた。しまった。

 僕は、加代の止める声を振り払って、麦草を飛び出した。ああ、秀子姉さんを傷つけてしまった。なんたる失態。ごめんシュウちゃん。ごめん秀子姉さん。加代、ごめん。


 目の前の通りを走り中川にかかる太鼓橋をわたり、坂を駆け上る。隠れ家を探して左手へ。興福寺だ。門番の坊主に片手で挨拶して、中に入っていった。また拝観料をごまかした。お釈迦様でよかけん、おいに罰ば与えてくれんね。

 興福寺は、たぶん日本で一番古い黄檗宗の寺だ。違うかもしれないが、僕はそう信じている。長崎は大陸の福建省の船乗り達とのつながりが強い。宋の時代、日宋貿易の起点となったのが福建省と長崎だ。だから、祀られている釈迦如来、菩薩の仏像は南宋時代の影響を受けているように、僕は思う。それに媽祖まそは、航海の守護神で、これを祀る寺は長崎には数多くある。この媽祖は母親の姿に似て、東アジア全体にこの容姿が伝搬しファッションや仏像にまで影響を与えている。

 階段を駆け上って本堂横の御厨に転がり込むと、坊主がびっくりした顔でこっちをみる。

「また、来よった。どうした、大丈夫か?」

「ああ、ちょっと敵に追われとるけん、匿ってくれんね。」

「ははは、けんかでもしたとか」

 坊主は笑うと、茶を立て始めた。ここの茶は高い。でも金を払う気はない。8月の暑さが、ここだけは届かない。

「長崎の昼しずかなる唐寺や、思ひいずれば白きさるすべりの花」

 坊主は、忙しく動く手元を見つめながら言う。

「斎藤茂吉。入り口に書いとるね。」

「サルスベリの花は見たか?」

「うん。相変わらず可憐たい。ここにしかなかけん。通るたびに見とる」

「誰かに、似とろう」

 どきっとした。いったい、誰の話だ?

「誰に?」

「わしが、聞いておる」

「言えん」

「言わんでもよか、その人に、似ておろう。」

 坊主は手に持った茶筅の穂先をゆっくりと上げ、穂先を見つめ確かめるように座に立てた。そして、黒い茶碗を、僕の方に押し出した。

「金はもっとらんばい」

「金の話はしとらんたい。それが問題ではなか。」

 僕は濃茶を押し頂いた。熱い、そして苦い、しかし静かな風が口の中に流れてきて、全身がすっと軽くなった。そして、飲み干した茶碗を手前に則り、手元に置いてあった懐紙で、飲み口を拭い、正面に返して、目前に据えた。何も言わず、辞儀を返す。坊主は黙礼した。

「似ておろう」

「はい。似ています。」

 そう、答えた瞬間、僕はどこからこみ上げるのか、咳き込むような苦しみと、胸の痛みに耐えきれず、わめくように、泣き出してしまった。頬を伝う涙が熱く、やけどをしてしまいそうだ。

 坊主が、すっと僕の脇に寄り添ってくれた。茶道具をさっと片付け、僕の脇を抱えるようにして、呼吸が楽なように横にしてくれた。そして、涙を止めようとする僕の両腕をつかむと広げさせた。そして、わしを見ろという。

「サルスベリの花は見たか。」

 必死で何度も頷く。

「いいや、見とらんばい。」

 僕は訳がわからなくなった。

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